ここにもまた頭痛の種がひとつ
進軍の準備が始まると、陣地が慌ただしくなる。
ゆっくりと隊列が組まれ、輜重の輸送隊が、兵糧などを確認している。
その間、龍角は遙か彼方まで延びる大地を眺めていた。太陽が傾き始めている。風に舞い上がる砂埃を、龍角は黙って見つめていた。
その様子を確認した超水は、彼から離れ、沛黄に会いに行くことにした。
沛黄は隊列の中央の方で、悠然とした態度で立っている。
「沛黄様」
歩いていった超水は、すばやく両手を合わせて頭を下げた。
「おお、貴殿は確か、超水殿でしたかな。龍角殿のご友人」
「いえ、龍角先生は、私の友人ではなく恩人でございます」
「さようで。――それで、この沛黄に何用ですかな」
「は、実はお礼を申し上げたく」
「お礼?」
「はい、沛黄様のおかげで、先せ……龍角先生の意見が取り下げられずに済みました。ありがとうございました」
ああ、と沛黄は相変わらず気の抜けたような表情を崩さない。生まれてからこの方、一度も怒ったことがないのでは、と思わせるほど覇気のない表情だ。
「この沛黄は貫州軍のことを考えて進言したまで。龍角殿のためだけではございませんよ」
「分かっております。それでも言っておきたかったので」
「では、その言葉はありがたく受け取っておきましょう」
沛黄は春の陽光のように柔らかく笑った。
「ところで超水殿、話によると貴殿は武人の国、煉州よりやってきたとか」
唐突に過去の話を持ち出され、超水は意表を突かれた。
もしや沛黄は煉州人を嫌っているのだろうか。超水は不安を覚える。
「さようでございますが」
「先日、早馬がやってまいりましてな。煉州軍は、とうとう官軍を州外まで押し返してしまったそうですぞ」
「はあ、そうでございますか」
白兵戦では、煉州軍は圧倒的な戦力を有している。その結果は当然とも言えた。
「超水殿もお強いと聞きますし、煉州にいれば手柄を次々に挙げることもできたのでは?」
「いえ、私が煉州を離れたのは戦い以前の理由ですので」
「ふむ。まあ、深くは聞かないことにいたしましょう。それより、煉州生まれの兵士として、豪快な戦果を挙げられることを期待しております」
「はっ、全力を尽くします」
一礼して、超水はその場を離れる。
ちょうど進軍が開始されたところだった。
†
さすがに鍛えられているようで、貫州軍の歩兵達の歩調は速かった。
龍角は機英に道案内をするために中軍にいる。
一方、一兵卒にすぎない超水や渠郭翔、周方といった面々は隊列の最後尾を歩いている。
進軍中は無駄な会話もなく、超水は黙々と歩いた。龍角邸から持ってきた自分の槍を肩に担いだまま、前方に見える馬徳の兜を見ていた。
横では、周方が飄々とした顔で歩いている。
少し遅れて、渠郭翔が息を荒らげながら必死でついてくる。
渠郭翔には、もしも参謀として使ってもらえれば……という考えがあったようだが、そううまくいくものでもない。戦いを通じて、優れた才を有しているというところを機英に見せつけなければならないのだ。
貫州軍は途中で休憩を挟むことなく歩き、太陽が沈んだ頃、広北湖付近に到達した。
相変わらず前後左右、どこまで見渡しても平地が続いているが、超水らの前方にはほんの小さな傾斜がある。街道を少し外れたところに、広北湖は存在した。
二月の終わりということもあり、大地はわずかに湿り気を帯びていた。
†
貫州軍が広北湖に到達する少し前のことである。
広北湖の東に広がる森に、呈州軍の一隊が隠れていた。
大地は丈の長い草に覆われているため、身を隠すにはもってこいの場所と言える。
そこに伏せている自軍を確認して、呈州軍の将である紀流は、数時間前に行われた軍議の模様を思い返していた。
――――。
「州境を突破されただと?」
荒い口調で言ったのは、呈州太守の厳立だ。突き出した腹と横に広がった体型から、享楽にふけっていることが一目で分かる。
「なんたる不甲斐なさ! 貴様ら、それが一軍を預かっている者どもの報告か!」
たるんだ頬を震わせ、厳立は怒鳴る。
「太守、実は徴兵で集めた民兵どもが寝返りまして、その間に貫州軍の侵入を許してしまった次第にございます」
州境砦の守備隊長が、両手を合わせて報告している。
その顔には、責務を全うできなかった悔しさは微塵も見えなかった。ただ、やれやれ、といった表情であった。
隊長の報告を、紀流は広間の隅で静かに聞いていた。
広間は縦長で、厳立の座っている椅子のある場所だけが一段高くなっている。
厳立の椅子を見るようにして、中央を走る通路の両側に将や文官が立っていた。
貫州軍は民兵数百を加えて、さらなる進軍を仕掛けて来るであろう――という結論が述べられ、隊長の報告は終わった。
「連中がここまでやって来る前に、野戦で打撃を与えて撤退に追い込みたいものだな」
紀流の隣に立っていた男が言った。
彼の言葉は勇敢と言えば聞こえはいいが、悪い言い方をすれば蛮勇である。紀流はすかさず反論した。
「何を申されますか。ここは次に貫州軍が行き当たるであろう砦に戦力を結集し、籠城するのが正しいと考えまするが」
「馬鹿を言うな!」
別の方向から罵声が飛んできた。
紀流が驚いて顔を右に向けると、こちらを指差して怒鳴っていたのは厳立だった。
「そのような消極的な考えを持つから、貫州軍ごときに砦を落とされるのだ!」
貫州軍ごとき……。
紀流は思わずため息をつきそうになった。
厳立は、貫州軍の強さを知らない。
その昔、貫州で大規模な賊の反乱が起きた時のこと。貫州軍は数千の賊軍に対して一万の精鋭を送り込み、わずか半日で撃滅してしまったのだ。
それからも貫州軍は厳しい調練を積み、兵士一人一人が限界まで己を鍛えていると聞く。気軽に野戦を挑めるような相手ではない。厳立はそれを分かっていないようだ。
「籠城など愚策である。我が領土を我が物顔で蹂躙せんとする貫州軍はたちどころに排除せねばならん! そのためには白兵戦がもっとも効果的なのだ!」
厳立は熱弁を振るうが、紀流は全く乗り気になれない。
「ですが太守。貫州軍は――」
「黙れ紀流! さては貴様、臆したか!」
「いえ、そのようなことはございません。ただ、相手の強さをよく考えなければ戦には勝てませぬぞ」
ぬうっ、と厳立がうなり声を上げた。
「貴様、わしに説教をするというのか! 貴様に言われずとも分かっておる! 我が呈州軍はどこの州の軍にも負けぬわ!」
はあ、と紀流は情けない相槌を打った。厳立の言葉に反論したら、自らの調練の成果を否定することになる。
「では紀流、貴様に一軍を預けよう。見事貫州軍を蹴散らして参れ」
「えっ……は、ははっ」
「そして聘左」
「は」
「お主も紀流と共に貫州軍の相手をしてくるのだ」
「承知!」
聘左と呼ばれた将が両手を合わせて頭を下げた。
「慈沖!」
「はっ!」
「お前は呈央城に兵を集め、不測の事態に備えるのだ」
「承知いたしました」
厳立は素早く指示を飛ばすと「軍議は以上だ」と発言し、その場を締めた。その姿は、話に聞く皇帝よりはマシであろうと思えた。
ともかく、紀流は聘左と共に兵一万を引き連れ、広北湖に向かったのであった。




