煉北会戦(2)
鬨の声が、冷えた大気を引き裂いた。緑の芝に覆われた平地を、紺の騎兵が津波のごとく突き進んでいく。
しばらく駆けたところで、全員が雄叫びを上げた。
超水も周りに負けるものかと声を張り上げる。とにかく叫ぶ。それで相手に恐怖感を与えるのだ。超水は、同じ列の騎兵においてきぼりにされることなく敵と接近した。
――いよいよだ!
槍を持つ手にも力が入る。
両軍の馬蹄の響き、そして喚声は、近雷に匹敵するほどの轟音と化した。
その音が一足先に空中で激突し、次いで兵士がぶつかり合った。
自分の右側に迫ってくる騎兵に対し、超水は槍を構える。抜け際に槍を振るい、相手の喉笛を正確にかき切る。
背後で騎兵が落馬した音を聞きつつ、超水は乱戦の真っ只中へと入っていく。
両軍の第一波が入り乱れると、戦場は早くも混乱を起こしたようだった。
鍛え抜かれた煉州軍は強く、官軍の騎兵が次々に落馬していく。ある者は槍を、ある者は剣を手に官軍を攻め立てる。
一方の官軍は、序盤から明らかに劣勢であった。国の堕落に合わせるようにして、調練もまともに行われなくなっていった。
仲間の死を間近で目にし、怯えて逃げる兵士はどの戦場にもいる。それは戦が中盤に差し掛かった頃から始まることが多い。
しかしこの時の官軍は、第一撃の流血を見て逃げ出す者が続出した。
部隊長の指揮もほとんど機能しておらず、これが官軍とは怪しいほどである。
超水は逃げる兵を無視し、自分の前に立ち塞がる敵を倒すことに集中した。
……これなら第二陣が動く前に片付いてしまうのでは。
そんなことを考える余裕すらあった。
開戦からわずか一時間で、官軍の戦線は無惨なほどに分断されていた。
軍の最後尾で戦況を見守っていた官軍大将の曹紀は、苦い顔しかできないでいる。自分も出るか、と思った彼が騎馬にまたがった時、戦場の左端に新手を見つけた。
警戒をうながす間もなく、鎧の洪水が官軍を側面から襲った。
煉州軍の第二陣である。
防御の手薄な側面を突かれ、官軍はさらなる混乱を起こした。
完全に勢いづいた煉州軍は、前、横からの猛攻で官軍を平原の奥に押し込んでいく。
曹紀が自らの隊を率いて前線を援護に向かったが、意味はなかった。
†
「なんだ、これが官軍か」
第三陣の先頭に立った峡英は呆れ果てていた。彼としては、もっと激しい乱戦となって戦線が膠着すると思っていた。これでは拍子抜けもいいところだ。
「まあよい。このまま出陣し、官軍を一人残らず殲滅する」
宣言し、峡英は自ら馬を駆って戦場に飛び込んでいった。
大将の参戦ということもあって、煉州軍の士気はさらに高まった。峡英の前でいいところを見せてやろうと、騎兵も歩兵も、猛然と攻撃を仕掛けた。
†
圧倒的劣勢の中、官軍は曹紀の隊だけが孤軍奮闘していた。曹紀は槍を巧みに操り、煉州兵を一人また一人と確実に倒していく。
曹紀は、向かってきた騎兵に槍を突き込む。穂先は正確に煉州兵の腹を貫いた。それを引き抜いた時、曹紀の馬に向かって誰かが剣を投げた。
剣が馬の首筋に突き刺さる。騎馬が前足を跳ね上げ、曹紀は落馬した。落ちた瞬間、彼は槍を手放してしまう。
立ち上がりながら剣を抜こうとしたが、そこまでだった。
前後左右から煉州兵の槍を同時に受け、曹紀はあっけなく絶命した。
地に伏した曹紀の死体には、手柄を求める兵士が殺到し、首はおろか四肢までが切り取られた。
兵士の波が去った後、曹紀は胴体だけの肉塊と化していた。
†
「終わったみたいだな」
勝敗は決した。
超水は返り血で身を湿らせていたが、顔には達成感があった。超雪に言われた通り、傷一つ受けずにいられたことに安堵していたのだ。
しかし彼は、すぐに表情を曇らせることになる。
「追撃! 一人たりとも生かして帰すな!」
超雪が怒気を込めた命令を下すと、兵士達が一斉に駆け出した。
そこから先は、目に余る虐殺であった。
這ってでも逃げようとする兵士は首を落とされ、逃げ遅れた者は槍の餌食にされる。戦場がたちまち濃密な朱に塗りつぶされていく。
「そ、そこまでやるのか……」
超水は呆然とその場に立っていた。だが、
「水! お前も早く行け! 手柄を立て損なうな!」
近くから超雪に怒声を浴びせられ、慌てて追撃の列に入った。
少し走ると、すぐ近くに腰が抜けて動けないでいる兵士がいた。相手は、超水を見ておびえた声を出し、腕だけで後ろに下がる。
「た、助けてくれ」
兵士は涙を流していた。
「……悪いが、できない」
超水は槍を強く握り、へたり込んでいる兵士の心臓を貫いた。倒れた兵士は最期まで、恨みがましい目で超水を睨んでいた。見なかったことにした。
煉州軍の追撃はかなりの距離に及び、戦場を飛び出して街道にまで死体があふれかえった。
超水の胸にはもやが渦巻いていた。いくらなんでもこれはやりすぎではないのか……。
血で作られた川を見ていたら、自分がとんでもないことをしたような罪悪感に襲われる。
だが、これは煉州を慶から解放するための戦いだ。これは正義なのだ。自分に言い聞かせ、超水は本陣に戻ることにした。
……父上は褒めて下さるだろうか。
大戦果とまではいかないが、二十人以上の兵を討ち取ったのだ。さすがに怒られることはないだろう。
†
本陣に舞い戻った超水は、馬から降りたあとに眉を寄せた。
「なんだ、あれは……」
太守峡英の幕舎の前に、大きな鍋と鉄板が用意されている。
戦勝祝いでも始めるのか。
自分の幕舎に立ち寄ってから槍を置き、兜を外す。汗で濡れた黒髪が、兜に引っ張られて逆立った。それを手で直しつつ、超水は峡英の元に向かった。
すぐに家臣団が勢揃いし、鍋と鉄板を円で囲む。
超水は円からやや外れ、後ろから眺めることにする。初陣の分際で調子づいていると思われたくなかった。
「え……」
そのあとの光景に、超水は息を呑んだ。
縄できつく縛られた状態で連れて来られたのは、官軍の兵士だった。三人ほどだが、いずれも若く見える。
「皆、今日はよくやった。今より戦勝を祝う。――超雪」
「はっ」
峡英の命令で、超雪は腰の短刀を抜いた。
「父上――」
一体なにを――と言おうとした瞬間、超雪の短刀が捕虜の耳を削ぎ落とした。
耳を刺す絶叫。
捕虜がのたうちまわるが、屈強な煉州兵がそれを押さえつけて封じる。他の二人の捕虜も、顔を青くして動けないでいた。
驚愕の声すらあげられなかった超水の前で、捕虜の耳が鉄板で焼かれる。
鼻を突く異臭が立ちのぼり、超水は思わず顔をしかめる。
頃合いを見て、超雪がその耳を箸で拾った。
そしてそれを、
「食え」
切り取られた本人に突き付けた。
「許して、助けて……」
耳のない捕虜は、涙をこぼして懇願した。しかし聞き入れられるはずがない。箸を無理矢理口に突っ込まれ、捕虜は、自分で自分の耳を食らった。
なんだ、これは……。
超水は思わず一歩後ずさる。
捕虜に箸を向けた時の、あの父の顔。これだけ惨たらしいことをしておきながら、楽しそうに笑っているではないか。
鍛錬の際、厳しい顔つきは幾度となく見てきた。だが、こんなにも狂気に歪んだ表情は見たことがなかった。
もう一人の捕虜は、全身に油をかけられた後に火をつけられた。
最後の一人は、煮えたぎった湯を張った鍋に放り込まれ、最後まで叫び続けながら死んでいった。
それを見て、煉州の家臣達が声高らかに笑う。最高の余興だ、と言う者もいる。超雪もご満悦の様子だ。
「馬鹿な」
これが、解放のための戦いだというのか。
――違う。
超水は首を横に振った。
思い描いていたのは、圧政に苦しむ民を救うため立ち上がった、誇り高き煉州軍であるはずだった。断じて、こんな狂気に取り憑かれた集団ではない。
超雪の声が耳に入った。
「見たか、あの火だるまになった屑を! 屑が泣き叫んでおったぞ! 実に愉快よ!」
父が大笑いしている。超水はうつむいた。
もう、見ていられなかった。
太守峡英も口数は多くないが、この余興を楽しんでいるようだった。
……狂っている。
超水は余興から背を向け、自分の幕舎に戻った。
幕舎には誰もいない。おそらく皆が、勝利の喜びに浸っているのだろう。
超水は槍を手にすると、すばやく幕舎を出た。
余興はまだ続いている。
耳を削ぎ落とされた捕虜に対し、家臣達が剣で切り付けたり鞭打ったりと、やりたい放題だ。
捕虜は絶叫しながら地面を転がって、しばらくすると涙すら赤色に染まった。
「違う。ここは、違う」
超水は誰に聞かせるでもなくつぶやいてから、ゆっくり歩き出す。
柵を抜けた時、超水の胸がスッと軽くなった。
……ああ、父上から離れるということは、こんなにも簡単なことだったのか。
鍛錬という名の責め苦を思い返しながら、超水は前だけを見ていた。
兵の一人が陣を出ていく。周囲にはその程度にしか映らなかった。
――翌日、超水は父親宛に手紙を残して、煉州を去った。