煉北会戦(1)
距離などの単位は混乱を避けるため現代のものを使用しています。ご了承ください。
太陽は一時間ほど前に昇っていたが、気温が上がる気配は全くなかった。
行軍を続ける兵士の中にも、手に息を吹き掛ける者が多かった。十月半ばのことである。この地方では、十月の頭から冷え込み始めるのだ。
平野を進む軍勢は、紺色の鎧を身につけていた。
足並みのそろった行進は、彼らがよく訓練されていることを証明している。
歩兵三万四千。
騎兵一万八千。
その騎兵の中に、今日初陣を迎えるはずの青年――超水はいた。
本来、この煉州という国では、初陣を飾る武者が騎兵に組み込まれることはない。隊列を乱す可能性があるからだ。
彼が騎兵として参加できるのは、父が煉州の兵として、過去に幾度も戦功を立てた名将であるからで、超水自身の能力などは関係ない。
つまるところ、親の七光というわけだ。
それでも彼には武芸の才があったし、歩兵として戦果を挙げる自信もあった。この戦いで活躍すれば、陰口を叩いていた連中を黙らせることができる。
そのための戦が目の前に迫っている。
ならば、超水の表情には昂ぶりが見られて当然のはずだった。
……だが、彼の目は暗くよどんでいる。
齢十八。
成人が十五歳と考えると、やや遅い初陣である。
髭を綺麗に剃った清潔感のある顔。すっきりとした目鼻立ち。眼光は鷹のように鋭く、睨みつければ相手を畏縮させるほどだ。
体格も同年代の男と比べれば、抜きん出ていると言える。鎧の上からでも、鍛えられた肉体ははっきりとわかった。
「水、水よ」
しかめ面を続ける超水のもとに、一人の騎兵が駆け寄ってきた。
兜には、赤色に塗られた鹿の角が二つ。父の超雪だった。
「は、父上」
「太守様が間もなく軍議を開かれる。お前も参加するのだ。来い」
超水は軽く頭を下げて返すだけにした。
行軍しながら軍議を行うなど、通常ならありえない。だが煉州軍は、軍議をしながら移動距離を稼ぐという、効率重視なのである。
超水は、重量のある鎧を気にすることなく、軍議に赴く。
†
太守の峡英は中軍の真ん中で白馬に跨がっていた。
腰には刃の反り返った湾刀が提げられ、無機質な音をたてている。
鎧は一般の将と代わり映えしない質素なものである。兜のみ、反りのある水牛の角が飾られており、独特の雰囲気を漂わせていた。
今年で二十八になる峡英は、無表情であった。
「太守、全員そろいましたぞ」
峡英の片腕である老将が報告する。家臣達は、峡英に並ぶように集まって馬を進めた。
「俺が皇帝陛下に対して反旗を翻し、まもなく一年が経つ。だが皇帝が討伐軍を派遣してこないので、少々不安に思っていたところだ。それがようやく現れてくれて、いささかほっとしている。皆もそうであろう、放っておかれてはかえって不気味ではないか?」
ははは、と家臣達が笑った。
「この丘を越えた先には煉北平原が広がっているのは皆も承知しているだろう。我々はそこで官軍を待ち受ける」
峡英の言葉に全員が頭を下げた。超水もそれにならう。
「超雪を先陣に、まずは一万の兵を繰り出す。前線に敵を集中させて側面を強襲する。異論のある者は」
誰も反論しなかった。将として用兵術にも長けた峡英を、皆が信頼している。
「第二陣は玄索が率いて側面を突け。俺が第三陣を引き連れ総攻撃をかける」
峡英は素早く指示を飛ばし、そのたびに呼ばれた将が返事をして去っていく。
煉州軍は無駄な行動を省く。君主の話を聞いている時間を削り、自分の隊を調整しろ、というのが峡英のやり方である。
父、超雪が離れたのを見てから、超水もゆっくりと峡英から離れていった。
†
統一国家〈慶〉は、十二の州から構成されている。
それぞれの州を治める太守がいて、その上には皇帝が存在する。
峡英が相手にしようとしているのは、その皇帝だった。理由は至極単純。皇帝による圧政が限界に近いためだ。
無能な皇帝のために、すでに慶王朝は傾きだしている。
峡英は民衆の解放を謳い、反乱軍を結成したのだ。
†
超水は父の部隊に組み込まれていたため、必然的に先陣になった。先陣は真っ先に敵とぶつかるため、危険が大きい。逆に考えれば、もっとも早く手柄を挙げることもできる。
煉北に布陣した煉州軍は、寒気に身を震わせながら官軍を待った。
陣の先には、芝に覆われた平地がひたすらに延びている。
峡英は敵の出鼻をくじくため、騎兵を前線に集めた。超水は騎兵の最前列、一番左端に配置された。出遅れても隊列に影響が出ない位置だ。
「やっておるな」
布陣二日目。
陣の外で槍の鍛練をしていた超水は、父の超雪に呼び止められた。
超雪は兜をしておらず、鎧だけという出で立ちである。金属のこすれる音と共に、父は超水の横に立った。
「はい。こうして槍を振るわねば、体がなまってしまいそうで」
「当然だ」
超雪はあごひげを撫でた。
煉州は〈武人の国〉と呼ばれるほどに武芸の盛んな州だ。
兵馬は精強、官職に就いている武将達は、誰も彼もが一流の武芸者である。
その中でも、超雪は群を抜く槍の腕前を誇る。民衆からは〈闘神〉と崇められるほどの存在で、息子の超水であっても会話の際は緊張してしまう。
「人生で一度きりの初陣、ここで功を挙げねば今後が暗くなる。傷一つ負わず、敵を蹴散らしてみせよ。超家の武術を敵味方関係なく見せつけてやれ。――できぬとは言わせん」
「はい……できます」
父は超水をも上回るほどがっちりした体格であり、鎧がはち切れんばかりの肉体を保持していた。
今までに挙げてきた戦果は数え切れない。
それゆえ、息子が家名を汚すことなど絶対にあってはならないのだ。超水はその重圧とずっと戦ってきた。
彼が十八年間で培った武術を披露することになるのは、その翌日になってからであった。
†
官軍が姿を現したのは太陽が昇ってからすぐのことで、着陣後に官軍大将の曹紀から会談の申し入れがあった。
峡英はこの申し入れをすぐに断った。
「煉州軍はただちに武装解除して降伏せよ」と言われるのは目に見えてわかっていたからだ。
交渉決裂となるや、官軍はただちに攻撃の用意に取りかかっていた。
平原の向こうで、黒い塊が蠢いている。
じきに隊列が整えられ、銅鑼が叩かれるのだろう。その音は、煉州軍の陣営にまではっきりと届くはずだ。
すでに、煉州軍は迎撃の構えをとっている。整列した騎兵の前には超雪がいた。
槍を右手に持ち、落ち着いた表情で敵陣を見ている。だが、その口元が嬉しそうに歪んでいることには、誰もが気づいていた。
最前列の左端で、超水も呼吸を整える。白い息が立ちのぼり、ああ、今朝も冷え込んでいるのだな、と気づかされる。
寒さに気づけないほど、超水は前方に集中していたのだ。
……失敗は許されない。父上の威光を傷つけることは、許されない。
抑えようと思っても手が震える。
身も心も砕け散りそうになるほど鍛錬を積み重ねてきた。父親は父親と呼べるものではなく、常に師と弟子の関係であり続けた。
これからもそれは続いていく。
やがて、敵陣から銅鑼の音が響いた。始まるようだ。
横に広がった形で、官軍の騎兵が突撃を開始した。後から歩兵隊が猛然と続いている。
「さて、いよいよだな」
陣前で超雪が嬉しそうに言うのを、超水は黙って聞いた。
「よいか、我が軍が敵の戦意を削いでやるのだ。けして自分達だけでなんとかしようと色気づくな。全員が動きを守ってこそ、煉州軍はその強さを発揮できる。肝に命じておけ」
おう、と先陣の兵士達が力強く返す。
超水は、右手に持った槍を強く握った。
「では、武運を」
超雪が槍を天に掲げ、一息。そして、槍が前方に突き出された。
「突撃――開始!」