旧い憧憬の気息(4)
「すみません、落としたペン見つけたらすぐお返ししますので」
「もうそろそろ、申し送る時間だから、早めにな」
そう、そろそろだ。そろそろ日が暮れる時間。
学校に戻ってきたその足で、私は学校まで戻ってくると生徒指導室の鍵を職員室経由で借りた。
指導室の前には私一人。誰も周りにいないことを確認すると、鍵を恐る恐る回す。
ドアを開こうとするけど、やはり躊躇いが出て停止してしまう。
「戦々恐々になんなくても大丈夫だよ。マイちゃんのチカラって、かなり強いんだから」
私の背後から、白い影がスーと横へスライドして形を成した不思議ちゃんは笑って言う。……此の不思議ちゃんのイメージ、怖くないか?
昔、お前は背後霊か何かかと聞いたことがあるけど、霊の定義が人間の死霊とか生霊とかと考えてるなら全く別物だと言われたことがあった。
不思議ちゃん自身は私のチカラの具現化だと言う。
じゃあ、そういうモノが妖精かと聞いたら、それも先程、首を横にふられた。
「『囁かれ』耐性が如何に強かろうと、あんなのに対面して私に何が出来るっての? そもそもあんなのを相手にする理由も根拠も結局曖昧なんだけど?」
「やり方はさっき教えた通りでいいーの。中の奴を取り除くことによって、妖精について情報収集は前進するんだからぁ」
「だ、か、ら、何でアンタがそういうことわかるって?」
「エッヘン。昔から、マイちゃんのスーパーバイザーだったと自負してる」
「……意味がわからないよ」
「昔のように信じてよぉ。魔女になる為のノウハウは教えてきたよ?」
「私は此の変な癖を徹底的に調べあげて治したいだけだって言ってるでしょ?」
「同じこと。マイちゃんの場合は自然体がチカラのある状態なんだから、自覚して押さえつけるに限る」
不思議ちゃんと会話すると緊張感が抜ける。
この子が私のチカラの具現化という意味は全くわからないけど、心強い味方だという得心はあった。
「じゃあ、私消えるね。中の奴相当怖いから、私は存在を成してらんない」
「ちょっとちょっと、怖いってどうすんの今更」
「不思議ちゃんは不思議に詳しい癖に、何のチカラもないってキャラ。その分、マイちゃんが強いんだから全然全然大丈夫……」
不思議ちゃんのかすれた声だけが最後に聞こえた。
……覚悟。
私はドアを勢いよく開ける。
いる……いや、其処にソレはある。
ソレは前と同じように女子生徒の姿をしていた。
私の存在をドア越しに感じていたのだろう、最初から私の方を見て、周りから、宇宙のような闇色の『空気』を四散させていた。
「……準備がいい事で」
不思議ちゃんが最後に迷わすことを言ったのに、反して精神は安定していた。私の半生、怖いモノはもう慣れていた。
私は躊躇するでも慌てるでもなく指導室内にそのまま一歩入る。
バッババァー
形容するとこんな擬音になるのかな。
ソレは私の一歩を見越してそんな感じで空気の層で私を襲った。
私の全身はまるで宇宙色のマントか大袋に包まれた感じになった。
一度、眼を瞑る。そうした方が一度落ち着けると不思議ちゃんに教えて貰っていたから。
考える時間も少しあるらしい。
目を閉じていても、ソレの目線が私に突き刺さってるのは感じるけど。
さて……
『囁き』の類いがこれまでこんな積極的に敵意をもったことはあったか? いや、そもそもこれは敵意じゃないかもしれない。
指導室の噂では、生徒指導室に入ると人生を駄目にするとあった。この『空気』が関係してるのなら、これが敵意と受け止めるべきだろう。
けれど、教務主任は噂を否定した。人生を駄目にした生徒はいないのだと。
何かの光が反射し、何かの影が私の顔を横切る。
私は眼を徐に開ける。
「此れが空気……?」
拡がっているのは、水面と水底が何処まで続いていた空間。
夕暮れ時の時間を忘れるどころじゃない。
私の頭上に広がる光る空には、水面が揺れている。
水底は砂と水草が淡い白色に光る。
水面から時々、水泡が上り、水面で浮かんでハデる。
何処までも何処までも続く透明度の高い水。
私の耳スレスレのところで後ろからサカナノ群れが泳いでいく。
その魚はまるで風のように私の髪を揺らした。
悪くない……。
私は笑みが溢れる。
私はゆっくりと右腕を伸ばし掌を開く。
そしてその辺りの水を掴むかのように握ってみる。
空間はまるで膨らませた風船のようなゴム質。
私は思いっきり引っ張りあげる。
ビリリ……
ゴム質の空間のワリにそんな擬音は裂けた。
私に握られた水中夢の空間は破けて消える。
破けた後に現れたのは湖の畔と森の入り口。
湖には小魚が一匹飛び跳ねる。
後ろを振り返ると森には光がさしてい明るい路が続く。
空には小鳥二匹が求愛の歌を鳴きながら飛んでいった。
私は微笑みながら、今度は右腕を湖の方へ、左腕を森の方へ突き出して空間を掴み破った。
破った先に出てきたのは森の広場。
陽射しのあたる中央に、大木の切株があって、その上にニ匹のリスがドングリを抱えている。
まるでそのリス達は気づいたように、私の方を向いて、鼻をクンクンと動かした。
私も真似をして嗅ぐ。
「あ、此の匂い……」
甘さの強い匂い。何処かで覚えがあると思ったら、そう喫茶『忍び音』の匂いだ。
「忍び音は此れを模したのか?」
ということは、空音さんは此の『空気』を体験していたことになるのかな?
そう言えば、空音さんのブログに、時代を思い憂うような記事も書いてあった。
私は、また腕を伸ばして、空間を掴み破る。
星空?
何処だろう。私は詳しくないけど日本とは星座の見え方が違うような気がする。
小高い丘。眼下には暗い森が広がるが、この丘上だけは月明かりで明るい。
「これで終わり? 全て握り破るように言われてるんだけど?」
丘の一本木の暗がりに、ソレは私を黙って見るように立っていた。
私はまた腕をソレの前に突き出して空間を握り破った。
私とソレは生徒指導室に立っていた。
「……影響が強すぎ。過去、生徒指導室に入った生徒はあの空気にあてられて、各個人の精神的空間を、意識的、無意識的に影響される……」
ソレは黙って立っている。
私は続ける。
「空音さんみたいにチカラのある人は、アンタ、或いはアンタみたいなのに憑かれて、そういう環境意識を伝染するワケか。それが妖精事件」
ソレは黙っている。
私は尚も続ける。
「確かに良い方に働けばリラックスして活動力も上がるか」
ソレは……
「けど、まぁ、自分の意思でない影響って、操られてるのと同じ。私が不思議ちゃんと離れた理由は其処にあったわけ。一年半前、私が不思議ちゃんを否定したように、逢魔時、私はアンタを否定する!」
最後の一言で途端にソレの姿が薄く透明になっていった。
そして音もなく静かに消える。
……呆気ない。
直接的に相対の仕方を教えて貰ったから容易いのかもしれないけど、春の「顔馴染み」の方が面倒だった。
「コントロール出来つつあるんだよ。魔女さん……」
生徒指導室の天井の方から不思議ちゃんの声が聞こえた。
私がちゃんとした大人になると思い立ち、離れたパーソナルフレンド。
別れたんだから、また会えるとは思ってはいなかった。
何故、不思議ちゃんは今日だけ現れ、私にアドバイスをしていったのだろうか?
……いや、もう其れについては考える必要は無かった。
……祀られた大岩の上の白い影。あのとき、不思議ちゃんは久しぶりに私の前に現れたんだろう。
誰があの大岩に導いたか。
もう推定ではない。私よりもレベルが違う嘘つきのエリモに色々問わなければならない。




