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幕間1 末路

 マリアの母、エレナは後悔していた。なぜあの時あのようなことを言ってしまったのだと。あれは一時の気の迷いだったと。

 エレナがマリアを家から追い出してから1週間が過ぎていた。今、エレナの隣に恋人だった男はいない。

 なぜそのようなことになっているのか。現在のこの状況を説明する為には3日前に遡る必要がある。


◇◆◇


「えっ?」


 エレナは思わず聞き返した。自分の耳が信じられなかった。

 ここは家の居間。テーブルの上に飾られた薄紅色の小ぶりな可愛らしい花が緊張感に満ちたこの場にそぐわない。

 エレナの目の前には右耳に銀色のピアスをした明るい茶髪の男が座っている。


「だから別れようと言ったんだ」


 男は苛立たし気に言った。


「な、なんで?」


 エレナは自分の目に涙が滲むのがわかった。


「ああ? そんなの決まってんだろ⁉」


 男の機嫌はどんどん悪くなるようだった。


「飽きたんだよ、お前にはな!」


 そう言い捨てて立ち上がると部屋から出ていこうとした。


「待って!」


 エレナは慌てて追いかけ、咄嗟に男の腕を掴んだ。


「離せ!」

「きゃっ!」


 腕を振り払われ、エレナはテーブルに背中を強かに打ち付けた。花瓶が倒れ、肩を冷たい水が濡らす。


「私を一人にしないで!」


 顔を苦痛に歪めながらもエレナは諦めず、男の足に縋り付いた。

 男はバランスを崩して倒れこむ。


「しつこいんだよ!」


 男が振り解こうとしても、エレナは離そうとはしなかった。

 それがわかると、男はまずエレナの顔を思いっ切り殴った。


「っ⁉」


 それでもエレナは手を離そうとはしない。マリアがいなくなった今、エレナに残っているのはこの男だけだった。今さらマリアが帰ってくるなど、そんな淡い幻想を抱けるほどエレナは単純ではない。


「何でよ⁉ どうして、どうして私を捨てるの⁉ マリアだって、娘だってあなたが邪魔だって言ったからこの家から追い出したのに! 働く姿は好きじゃないっていうから、仕事まで辞めたのに!」

「うるせぇ! 黙れ!」


 男は喚き続けるエレナを、何度も、何度も殴りつけた。顔が腫れて膨れ上がり、もう誰だかわからないような状態になっても殴り続けた。

 やがて気を失ったのか呻き声すら上げなくなると漸く手を止めた。そして居間の戸棚の中を漁りだした。

 中からお金が入った袋を発見すると、男は満足気にそれを懐に納めて、何事もなかったかのように家から出ていった。

 この男がそれからこの家を訪れることは二度となかった。

 後には大怪我を負ったエレナだけが残された。


◇◆◇


 そして現在、エレナは路頭に迷っていた。男に手持ちの金を殆ど全て持ち去られたエレナには、もうパンを買う金すらない。

 かと言って働こうにも、料理の腕、裁縫の腕は共に壊滅的。傲慢な言動が目立つエレナを雇ってくれる者などいなかった。

 そうでなくともそのような体力が今のエレナにあるかどうかすら疑問が浮かぶほど衰弱しきっていた。


 家事の一切をマリアに押しつけていたが為に掃除をする者がいなくなった家の中は荒れ果て、テーブルの上には萎れた花が放置されている。

 エレナの中からは既に自分が家事をするという発想すら消えていた。散らかっても勝手に片付く。汚れた服も勝手に洗濯される。エレナにとって娘は——マリアは家事をする便利な道具という認識しかない。いや、最近ではマリアのことは空気と同列としか認識しておらず、家の中が勝手に片付くのは当然とすら思っている節があった。

 掃除、洗濯をする者がいなくなれば当然部屋には埃が積もり、洗濯物が溜まっていく。なぜ片付かないんだと苛立ちをぶつけた器物はある物は割れ、またある物は床、或いは壁や家具を傷つけ、家をより一層荒れ果てさせることに一役買っていた。


 男に殴られた顔は殆ど治っていない。

 治癒が使える魔術師に治療を頼もうにも、大半の魔術師たちは莫大な金額を要求してくる。元から払える筈もなく、選択肢にすら入っていない。

 いや、もし金があったとしても魔術師の所に行ったかは怪しい。

 エレナは自分の美貌を理解しており、そのことに誇りを持っていた。今の醜い顔など治療の為といえど到底人に晒すことなどできないだろう。

 その証拠にエレナは残った僅かな金で食糧を買いに行く時も外出用の外套のフードを目深に被り、人目を避けるように大通りは通らずに裏路地ばかりを歩いていた。その行動はもはや不審者と言っても過言ではない。

 もう1つの選択肢として冒険者たちが使っているポーションを買うという方法もあった。こちらは安いものなら小銀貨数枚となかなかに良心的な値段なのだが、エレナにはそれすら買う金もない。


 金が尽きた時、エレナの頭にある考えが浮かんだ。即ち、自分の娘を奴隷商に売れば良いじゃないかと。自分に似て可愛らしい顔をしているのだから、自分の顔の治療費と当面の生活費ぐらいにはなるだろうと。

 考え付いてからのエレナの行動は早かった。すぐに身支度を整えるとマリアを捜しにフラフラな足で街に出た。もはや周囲の視線など気にはならなかった。

 エレナは街をあてもなく彷徨い、漸くマリアを見つけた時には日が暮れかけていた。


「マリア、お願い帰ってきて。もう要らないなんて言わないから」


 家にいた時よりも小綺麗になった娘に恐る恐る話し掛ける。数日ぶりにまともに発する声はひどく掠れていた。


「あなた誰?」


 マリアは警戒した面持ちで後退りした。顔も見せない人間など怪しいことこの上ない。当然の反応だった。

 加えて、掠れた声だけでエレナを母と認識できるほどマリアはエレナの声を覚えていない。


「何を言っているの? あなたのお母さんじゃない」

「あなたなんか知らない! それに私にお母さんはもういない!」


 そう叫ぶと駆け去っていった。その目には涙が滲んでいた。

 1週間程度では気持ちの整理など付いている筈もなく、エレナの言葉はマリアの心の傷を抉っただけに終わった。


「あっ! 待って!」


 慌てて呼び止めたが、マリアが振り返ることはなかった。

 既に体力は尽き、気力だけで足を動かしているエレナには追いかけることなどできる筈もなく、遠ざかっていく後ろ姿を見ていることしかできない。


「マリア⋯⋯あなたも私を捨てるのね」


 ひどく傷ついたような声が漏れ、聞く者もなく夕暮れの冷たい空気に溶けて消えた。


 その後、エレナは金貸しに金を借り、なんとか生活を続けたが、顔を治しても仕事が見つかることはなく、借金は雪だるま式に増えていくばかりだった。

 そして半年が過ぎた頃、エレナは借金奴隷として奴隷商に売られた。その後再びマリアと再会することがあるのかどうかは神のみぞが知る。

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