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「本当に良かったのか?」


 マリアはローザの家から宿に帰る途中ウーノにそう訊かれた。


「うん」


 マリアの脳裏にはさっきまでの記憶が甦っていた。


◇◆◇


「わ、私はそういう覚悟とかはよくわからない。だけど学園には行きたい。大変なこともあるかもしれないけど⋯⋯だけど後で絶対自分のためになると思うから。⋯⋯ダメかな?」


 マリアの返答にローザは満足気に笑うと言った。


「⋯⋯おまえの歳できちっとした答えが返ってくるとは最初から思っておらん。見たところおまえはまだ10歳にもなっておらんだろう? 9歳ぐらいか?」

「う、うん。8歳。後1月で9歳になるけど⋯⋯」


 そうマリアが答えるとローザはウーノたちの方を見やりながら言った。


「その馬鹿どもは知らなかったようだが、学園に入学できるのは10歳からだ。それまで私が魔術の基礎を詰め込んでやることはできるがどうする? 最低限の礼儀作法もな。貴族の阿呆どもへの武器にはなると思うが」


 マリアは新事実に頭が真っ白になっていた。後半の言葉は耳に入っていない。


「えっ? 学園って10歳からしか入れないの?」

「ああ、そうじゃ」


 マリアの目に涙が溜まってきた。


「ど、どうしたのだ。泣くのではない!」


 ローザに言われてマリアは初めて自分が泣いていることに気づいた。

 必死に答えようとするが言葉が出てこない。


「それがなぁ。マリアは母親に家を追い出されたらしい。聞いた感じだとおそらく家には帰れないと思う。今は住むところもない」


 さっきから黙っていたルアンがマリアの代わりに答えた。


「父親はどうしたんだい?」

「お、お父さんは5年前に死んだって言ってた。戦争がどうとか言ってたけど⋯⋯私はよく覚えてない」

「5年前っていうと帝国との戦争か。⋯⋯あの時の死者の数は場所によって凄まじかったからなぁ」


 ローザは一つ頷くと言った。


「状況は理解した。それなら私が面倒をみよう。さっき言った知識の詰込みと合わせてな」

「良いのか!」

「ああ。私の教えはちと厳しいぞ。途中で音を上げるんじゃないよ。泣き言を言った時点で叩き出すからね」

「っ⁉ うん! ありがとう」


 こうしてマリアの当面の問題は解決した。

 だがこの時、マリアは自分がどれだけ大変なことに足を突っ込んだかわかっていなかった。ローザに教えを受けるとはどういうことかを。


「一応明日マリアの家には行ってみるつもりだ」

「わかった」


◇◆◇


「いや、俺が言いたいことはわかってないと思うぞ」


 マリアはウーノに声をかけられ我に返った。


「言いたいことって?」


 マリアは不思議そうにウーノを見上げる。


「ローザ婆さんは近所でも有名な変わり者だ。大変だと思うけどいいのか?」


 マリアは満面の笑みで答えた。


「勿論!」


 その弾けんばかりの笑顔にルアンは嘆息する。これは絶対意味がわかっていないだろうと。


 翌朝、朝食を済ませたマリアとウーノはマリアの家に向かっていた。ルアンは宿の仕事が忙しく来られなかった。


「お前の母さんはどんな人何だ?」


 不意にウーノが訊いた。


「えっ? 普通のお母さんだと思うよ」


 急に訊かれてもそれ以外に答えられない。


「⋯⋯別にそんな答えを聞きたかったんじゃなかったんだがな」


 ウーノの溜息混じりのセリフにマリアは首を傾げる。


「? それってどういうこと?」

「気にするな。独り言だ」


 ウーノは笑って誤魔化した。


(子どもに人柄がどうだとか訊いても無駄だよなぁ)


 そんな話をしている内に家に着いた。


「ここだよ」


 周囲の家と大差がなくともマリアにとっては懐かしい我が家だった。だが懐かしく思うと同時に不安で胸が一杯になる。


 ウーノはそんなマリアの様子に気づいたのか励ますように言った。


「お前の母さんとの話は俺がするからお前はただ聞いていれば良い」

「う、うん」


 ウーノはマリアに近くに隠れているように言うとドアをノックした。すぐに返事が聞こえ、ドアが開けられた。


「どちら様ですか?」


 出てきたのは30代前半の小柄な女性だった。

 ウーノはその顔を見て思わず息を呑む。

 整った顔立ちをしているが、綺麗というよりは可愛らしいという言葉が似合う。そしてマリアを成長させたらこうなると言われたら信じてしまいそうなぐらい2人はよく似ていた。違う点を上げるとすればマリアが蒼い目なのに対し、マリアの母は桃色の目だというぐらいか。


「マリアさんのお母様ですよね? 私は冒険者をしているウーノという者ですが、マリアさんについて少し話があるのですが⋯⋯」


 ウーノは普段からは想像もできないほど丁寧な口調で話し掛けた。


「確かにマリアは私の娘です。いえ、でした。もうあの子はこの家から出て行ったんです。今は一切関係はありません」


 マリアの母はそう言い切った。その言葉の意味を理解すると同時にマリアは目の前の景色が歪んだような気がした。


「⋯⋯もしも今戻ってきたら向かい入れる意思はあるんですか?」


 マリアの胸がドクンと期待で高鳴った。その目には一琉の希望があった。いや、最後の希望にすがるような焦燥に満ちた目と言った方が正しいか。


「そんなものあるわけないでしょう。先ほども言いましたよね? 私とはもう一切関係ないって。私にとってあの子は邪魔者でしかないんだもの」


 そんなマリアの思いなど知るはずもなく、マリアの母はそう吐き捨てた。


「私は私の人生を楽しみたいの。ねぇ知ってる? 世の中の男の人たちって私に幼い子どもがいるってわかると皆私を捨てるのよ。⋯⋯どんなに私を愛してるって言ってくれた人もね」


 そう言って自嘲気に笑った。その瞳には不穏な光が宿っている。もはや狂気的とすら言って良いかもしれない。


「⋯⋯そうですか。朝から失礼しました」


 ウーノは一瞬身の危険を感じ、同時にこれ以上話しても無駄だと判断した。

 暇乞いをすると返事も待たずに背を向けた。その顔にはありありと失望の色が浮かんでいた。


 宿への帰り道、2人は終止無言だった。


 ウーノはただひたすらに無表情で何を考えているのか外からは全くわからない。


 それとは対照的にマリアの表情はわかりやすかった。混乱していることが見て取れる。


 通りがかった者がギョッとした顔で2人に道を譲る。


(⋯⋯なんで? どうして?)


 頬を伝う涙を拭うこともせず、ただそれだけを考えていた。


「どうだった?」


 マリアたちの表情で答えはわかり切っているだろうに宿に入るや否やルアンは律儀にもそう2人に訊いてきた。


「ダメだった。あいつにとってマリアは邪魔者なんだと」

「⋯⋯そうか」


 マリアの目から大粒の涙が零れ落ちていた。ウーノの言葉を聞いて今になってやっと現実味を帯びてきたのだろう。漸く声に出して泣き出した。

 そんなマリアを2人は必死で宥めていた。

 そんな中ローザがやって来た。彼女もやはり結果は気になっていたのだろう。


「その様子だとダメだったようだな⋯⋯」

「ああ」


 ローザはただ一言それだけ訊くと黙り込んだ。


「マリアはただ母親に拒絶されたんじゃねぇ。邪魔だと言い切られたんだ。それがどれだけマリアにとってショックだったのかは俺には想像もつかねぇ。今はただ時間が解決するのを待つだけだ」


 マリアは泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていた。


「そうだな。母親が心変わりをせん限り、時間が解決するのを待つ他ない」


 その寝顔を見ながら大人たちはどうしたものかと思案に暮れていた。


 結局マリアが起きたのはお昼を過ぎた頃だった。

 その頃には大人たちの間で暫くこの件には触れないことで話が纏まっていた。

 少し遅いお昼を食べた後、マリアとローザはローザの家にいた。ウーノたちは来ていない。いつまでも一緒にいるわけにはいかないという判断からだった。


「ほれ、この部屋を使え」


 ローザに案内されたのは2階の一室だった。狭いながらも必要最低限の家具はそろっており、何よりも清潔だった。昨日のあの後ローザがマリアのために掃除をしていたことが窺い知れる。


「明日はおまえの服を買いに行こうか。いつまでもその服のままってわけにはいかないだろう?」

「うん。ありがとう」

「そういう時はありがとうではなく、ありがとうございますと言うんだよ」


 既にローザによる教育は始まっていた。


「わかった。ありがとうございます」

「はぁ⋯⋯わかりましただ。暫く最後にですますを付けて話しな」

「わかりました」


 その日は疲れていたこともあり、ローザと少し話をした後は夕飯も食べずにすぐに眠ってしまった。


 次の日からのマリアの日々は実に規則正しいものだった。朝早くから起きて朝食の用意の手伝い。朝食後は魔術の基礎と礼儀作法を叩き込まれ、午後はローザの手伝いをして過ごした。


 ローザはマリアに最低限の衣類は買い与えたが、それ以降は洋服代ぐらいは自分で稼げと、手伝いをする度に細々とした小遣いを与えていた。


 最初のうちは辛くて泣くこともあった。だが音を上げるようなことは決してなく、その度にローザもマリアを励ましていた。


 時が経つにつれて近所の人々のローザの評価がマリアとは違うことに気づいた。皆、ローザが変わり者だと言うが決してそうではない。ただ少し天邪鬼(あまのじゃく)なところがあるが根は優しい。それがマリアのローザに対する感想だった。


 最初のうちはウーノたちも心配だったのだろう。頻繁に訪ねてきていたが、次第にその間隔は空くようになっていき、1年が経つ頃には数か月に1回顔を見せるかどうかとなっていた。


 瞬く間に月日は流れて行き、気づけばマリアは10歳の誕生日を迎えていた。

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