180
マリアは気づいた時には見知らぬ街に立っていた。街全体が霞がかかったように白く、マリアには周囲が奇妙にぼやけている。
(ここ、どこ⋯⋯? それにさっきまで国王様とお話していたはず⋯⋯)
必死に思い出そうとするが、国王と話していたところまでで記憶は途切れていた。
「マリア、どうしたの? いきなり立ち止まったりして。帰るわよ。家でお父さんが首を長くして待っているわ」
不意に自分の名前を呼ばれ振り返ると、母親が──エレナがマリアの記憶の中にあるものより幾分か若い姿で立っていた。
「なんでもにゃい。はやくかえりょう」
マリアの意志とは関係なく動く口から紡がれたのは舌足らずな言葉だった。
「そう?」
エレナは少し不思議そうに首を捻った後、マリアと手を繋いでゆっくりと家に向かって歩いていった。
「ただいま」
「お帰り」
2人を出迎えたのは20代半ば程の男性だった。顔立ちにどこかエーデル国王と似た雰囲気がある。
「少し早いけど、もう夕飯できるぞ」
「ホントっ⁉」
「ああ。手を洗ってこい」
目を輝かせるマリアに男は苦笑しながら、優しい手つきでマリアの頭をなでた。
「うん! わかった!」
トテトテと小走りで手を洗いにいくマリアを、残された2人は顔を見合わせてどちらかともなく笑いあった。
「おとうしゃん、ゆうはん、きょうはにゃに?」
皆が食卓につくと、待ちきれないのかまだ何も乗っていない食卓に身を乗り出し、キラキラと輝く瞳で父親を、アランを見つめた。
「今日はな、マリアが好きな⋯⋯」
「マリュアがしゅきな⋯⋯?」
マリアはゴクリと唾を飲みこんだ。
「⋯⋯ギロトンだ。だいぶ寒くなってきたからな」
「ホントっ⁉」
アランは歓声を上げて喜ぶマリアに優しく笑いかけると、火が点きっぱなしだったオーブンからサイズの違う耐熱皿を3枚取り出した。丁度良い具合に表面に焼き色が入り、芳ばしい香りが部屋に広がる。
「わぁ~」
「熱いから、皿に直接触れないようにな」
「うん! わかってる」
マリアは小さな手を合わせると、これまた小さなフォークを手に取った。
「おいしゅいの」
口元で息を吹きかけ十分に冷ました後、一口食べた瞬間、マリアは顔をほころばせた。
「おとうしゃんはおりょうりゅがおじょうじゅなの」
「そんなことないさ。父さんだってプロの料理人には敵わないよ」
「しょんにゃことにゃいの。マリュアもおとうしゃんみちゃいに、おりょうりゅできりゅようににゃりたい」
アランは苦笑すると、ソッとマリアの頭をなでた。
「そうだな。簡単なことだけだったらそろそろ教えてやっても良いが、どうする?」
どこか試すように意地悪気に笑う。
「ホントっ⁉ おしゅえてくれるにょ⁉」
「ああ。ただし、父さんの言うことだけは絶対に守ることが約束だけどな」
「それぐりゃいまもれりゅ!」
元気の良い返事にアランは苦笑した。
「それじゃあ、明日からな」
「え~、きょうはおしゅえてくれにゃいにょ?」
そう言ってマリアは不満気に頬を膨らませた。
「そう言うな。もう夜だぞ。できることなんて皿洗いぐらいだ」
「おしゃらありゃい⁉ マリュア、やりゅ!」
「おっ、手伝ってくれるのか?」
アランの言葉は若干棒読みだった。
「うん!」
だがマリアはそのことに気がつかなかった。
「良かったわね、マリア」
◇◆◇◆◇
夕飯を食べ終えると、マリアは早速とばかりに腕まくりをした。
「おっ、やる気満々だな」
アランはどこからか持ってきた踏み台を流しの前に置くと、マリアに乗るように促した。
「結構ギリギリだな⋯⋯」
高さがアランの膝近くまである踏み台に乗ってもマリアの身長はようやく肩が流しから出るかどうかだった。
「おとうしゃん、なにゅやればいいにょ?」
楽しみで仕方がないとでも言うように目を輝かせ見上げてくる愛娘の姿に、アランは自然と頬を緩ませた。
「そうだな。じゃあこのスポンジでこんな風に皿をこすってくれるか?」
「わぁ、あわあわなにょ。わたがしゅみたいでおいしゅしょうなにょ」
「ははは、そうだな。でも身体に悪いから、口に入れたら駄目だぞ」
アランは美味しそうという言葉に笑いながらも、釘を差すことは忘れない。
「わ、わかった」
「意外と重いからな。落とさないように気をつけろよ。それにもし万が一落として割ってしまっても絶対に触っちゃ駄目だからな」
「うん」
マリアは神妙な顔で頷くとスポンジを受け取り、先ほどのアランを真似ながら洗い始めた。
「にぇえ、おとうしゃん」
「んっ? どうした?」
「にゃんで、にゃんでおかあしゃんはおりょうりゅしにゃいにょ? みんにゃおりょうりゅはおかあしゃんがしゅりゅものだって、いってたにょ。にゃんでうちはおかあしゃんがおりょうりゅしにゃいにょ?」
それは素朴な疑問。だがアランは答えに詰まった。
「母さんが料理をしない理由、か⋯⋯。色々あるけど、一番の理由は母さんが不器用な所為だな。母さんは皿を洗うだけで2枚に1枚は割る壊滅的な不器用さんだからな」
「そうにゃの?」
「ああ。そう何枚も割られちゃ堪らないからな。仕方なく父さんが料理をしてるんだ」
「へぇ~」
エレナが皿をよく割るのは事実だが、それはエレナが料理をしない本当の理由ではない。本当の理由は料理とは呼べない謎の何かを作り出すからなのだが、アランはそのことは口にはしなかった。




