第七話「赤い銀河」
カーテンを閉めかけて、流星が見えたような気がした。
ミーシャはもう一度、カーテンを開いてよく目を凝らす。しかし、流星は見られなかった。夕方に見た青ずきん部隊らしき光も、やはり一種の幻だったのではないかと疑ってしまう。流星は一瞬の光芒だ。燃え尽きる直前の、命の灯火。柄にない考えを浮かべてミーシャは首を斜めにした。
「動画、録っておくんだったなぁ……」
後悔の呟きとため息を吐き出して、ミーシャはカーテンを閉めた。ベッドに座り込み、オオグチのぬいぐるみを抱えながら父親へとおやすみメールを打つ。ミーシャの日課だった。父親は今日も遅いらしい。先ほど母親に連絡が入ったようだ。
「お父さん、大丈夫かな。過労で倒れたらやだな」
だからこそ、ほとんど毎日夕食を届けているのだ。何よりも父親を心配しての行動だった。父親へのメールを送信した後、ミーシャは眠りにつく前に動画を見ることにした。これも日課の一つだ。再生回数が多い動画でコメントと星印がついている。星印は殿堂入りの証だった。再生バーが溜まり、ミーシャはボタンを押す。すると、動画が始まった。タイトルは「流麗・青ずきん部隊」とある。
動画の中央に最大望遠で捉えたグランマの姿があった。画質は粗いが、青ずきん部隊らしき青い蛍火が確認される。グランマの触手をかいくぐり、青い光が一際輝いた。
まるで新星の輝きだ。一瞬だけ光が横に伸びた直後、弾かれたように青い光が高速で動き出す。五つの青い光がそれぞれに光を棚引かせ、二つがグランマから距離を取り、閃光を散らせる。三つの青い光のうち、一つがグランマの真正面に回り、ふわりふわりと読めない軌道を描く。その隙にもう二つの青い光がグランマの背後に回った。
「いけっ」と思わず拳を握り締めてミーシャは言っていた。
二つの青い光が交差し、グランマの背面で何かを断ち切った。グランマの白い身体がぶくぶくに膨れ上がる。膨張したグランマは最早花弁とは呼べない。醜く腫れ上がったグランマから十字に光が放射され、次の瞬間形状が崩壊し、赤黒い血の渦が巻き起こった。血の嵐を引き裂いて青い五つの光が宇宙を昇っていく。そこで映像が途切れた。ミーシャはうっとりした様子でため息をついた。
「やっぱり、かっこいいなぁ」
コメント欄を見ると、『俺も青ずきん部隊に入りたいわ』というものや、『ここまで見事に倒せれば気分いいだろうな』などがあった。ミーシャはコメントを書き加える。
「とにかくかっこいい。これは見ておくべき動画、っと」
ミーシャが青ずきん部隊に憧れる契機になった動画だった。それまでも青ずきん部隊のことを知ってはいたし動画も漁っていたが、これほどまでに鮮やかにグランマを倒した動画はこれくらいなものだ。
「やっぱり、負ける動画より勝った動画は気持ちいい」と言いながら身体を伸ばす。欠伸が思わず漏れて、「そろそろ寝よ」と端末に命じた。
「電気消してー」
すると、ゆっくりと部屋の照明が暗くなっていった。ミーシャにとって青ずきん部隊の動画を観ることが、眠る前の習慣になっていた。同時にまじないでもある。青ずきん部隊に入隊する夢を見るためのチケットだ。
ミーシャは端末を枕元に置いて、「今日もいい夢が見られますように」と願掛けした。青ずきんになって宇宙を駆け抜け、グランマを討つ。爽快な夢が訪れることを願って、ミーシャは目を閉じた。
目を閉じる直前、父親に見せてもらった赤い銀河がちらついた。
視界は紅蓮に染まっていた。
見渡す限りの平野が赤い血の色を湛えている。家屋から炎の手が上がり、ミーシャの行く手を遮った。ミーシャは喉を押さえながら走っていた。酷く喉が渇く。叫び声を上げることすらできない。振り返ると、花弁の形状をした白い巨体がゆっくりと這い進んでいた。
――グランマ。
声にならない言葉に、グランマが気づいて振り返る。ミーシャは地を踏みしめて駆け抜けた。足が痛い。どこかで切ったのか、掌が血に染まっている。鉄さびの臭いと、生き物の焼け焦げる臭いが同時に鼻をつく。
生物の根源が忌み嫌う臭気だ。ミーシャは赤い光景が身体に纏いつくのを感じた。振り払って、駆け抜けようとするがそれよりも速く赤い景色が前を行く。地平線から青い光が躍り出た。青ずきん部隊だ、と思った瞬間、五つの光が背後のグランマに向けて弾丸のように放射された。ミーシャは思わず振り返る。青い光は、しかしグランマにぶつかった途端、醜く弾け飛んだ。グランマの白い身体を赤い血が彩る。
――青ずきんが負けた。
絶望的に自分の声が響き渡る。グランマが一瞬のうちに消えて、目の前に立ち現れた。炎を裂いて屹立する姿は花弁というよりも白いヒトデだ。海洋生物のような歪さを持った異常な生命体が、圧倒的現実としてミーシャの道を塞ぐ。グランマの形状が崩れ、白い液状となってミーシャへと降りかかる。太陽が翳り、雪崩のようにグランマの身体が覆い被さってきた。意識の一点が闇に落ちる瞬間、ミーシャは喉が引き裂けんばかりの叫び声を上げた。
現実の声帯を震わせてミーシャは飛び起きた。何度か荒い息をつき、喉元を押さえる。苦いものがせり上がってくる感触がした。口の中が渇いている。胸元から風を入れる。じっとりと汗を掻いており、パジャマが張り付いていた。
「……嫌な夢」
呟いてから、周囲を見渡す。見知った自分の部屋だ。枕元にはオオグチのぬいぐるみがある。コレクションしたオオグチのグッズがあり、端末を手に取った。時刻は六時過ぎ。これは現実だ、とようやく認識が追いついてミーシャは呼吸を整えた。激しい動悸が胸を打っている。
「夢だよ、ミーシャ。夢」
自分に言い聞かせ、ミーシャは着替えの準備を始めた。随分と早いがパジャマの纏わりつく感触が夢の中の赤い風を思い起こさせた。早く振り解かなければ、と制服に着替えて下階へと降りる。顔を洗うと、冷たい水の感覚が現実感を取り戻させる。夢から覚めたのだ。何度も鏡の前で頷き、リビングへと向かった。キッチンでは母親が朝食の準備をしていた。
「あら。早いわね、ミーシャ」
「うん。ちょっと……」
言葉を濁してミーシャはテーブルについた。いつもならばテレビを点けるのだが、今日は点ける気になれなかった。もしかしたらグランマが映っているかもしれない。夢の中の恐怖を現実に持ち越している。その感覚が奇妙だった。
「お父さんは?」
「もう仕事に行ったわよ」
流しで洗い物をしながら、母親が返す。ミーシャは、「そっか」と顔を伏せた。その様子を見て、母親が声をかける。
「何かあったの?」
「ううん。何も」
頭を振って否定する。「ふぅん。ならいいけど」と母親がいつも通りの朝食を作ってテーブルに置いた。いつもより一時間は早い朝食だったが、ほとんど手をつけられなかった。
「ミーシャ。食べないの?」
「何だか食欲ない」
「風邪?」
「そうかも。あたし、もう行くから」
鞄を手にとってミーシャは立ち上がった。「あら、珍しい」と母親がテレビを点ける。ニュースキャスターが今日の天気を報告している。
『ペロー5の天気は晴れのち雨。朝から昼過ぎまでは広く晴れますが、夕方からは曇り空が広がり、雨が強く降るでしょう。傘の携帯をお忘れなく』
「ミーシャ。雨だって。傘持ちなさい」
「折り畳み傘を持ったから」
ミーシャは鞄の中から折り畳み傘を取り出して掲げた。母親がトーストを齧りながら、「行ってらっしゃい」と手を振る。ミーシャは、「行ってきます」と玄関から出た。人工太陽の作り出す陽光が降り注いでいる。
涼やかな風が吹きつける。雨の予感など微塵にもない。ミーシャは片手を人工太陽に向けて翳した。光が表皮を透けさせ、血脈を感じ取る。いつも通りの行動をして、幾分か気持ちが落ち着いてきた。ミーシャは息をついて胸元を押さえた。動悸もマシになっている。
「またやっとるね。ミーシャ」
その声に振り返るとシイナが立っていた。腰に手を当てていつものスタイルだ。ラケットケースを担ぎ直し、「この時間に会うとは珍しい」と口にする。
「朝練もない万年帰宅部が、どういう風の吹き回し?」
「うん。ちょっと早く目が覚めちゃって。シイナは?」
「だからソフトテニス部の朝練。いつもより一時間は早いよ。どうした?」
「どうもしてないよ。本当に、何も……」
濁した語尾が気になったのか、シイナは顔を覗き込んできた。ミーシャは顔を伏せる。夢が怖いなどとは言えない。さすがのミーシャでも憚られた。何でもない、ともう一度言おうとした、その時である。
「ねぇ。あれ、何だろ」
シイナが出し抜けに声を上げた。ミーシャは顔を上げて、「何って」と首を傾げる。シイナが指差した。
「ほら、あれ」
指差す方向へとミーシャが顔を振り向ける。
空の一点に黒点があった。ただの黒点ならば周回軌道の衛星や航空機の可能性もあるので気にならなかっただろう。だが、その黒点は明らかに異常だったのは回転していることだった。一回転ごとに大きくなり、まるで悪性腫瘍のように蠢く。
黒点が青空に墨を落としたように大きくなり、脈動する。ミーシャもシイナも、目が離せなくなっていた。黒点が親指ほどに大きくなった瞬間、不意に収縮し、青空が歪んだかと思うと、空が弾け飛んだ。歪んだ一地点の空が砕け散り、剥離した青空が表情を固定させて崩落する。何が起こったのかすぐには理解できなかった。
「空が、落ちた……」
シイナが呆然と口にする。ミーシャはその言葉でようやくコロニーの膜が弾けたのだと知った。まるで果実が腐り落ちるように、空が落ちる。
落ちた膜が色を失い、パズルのように砕けた空の一点から新たに黒点が発生した。その黒点から何かがひねり出されていく。最初に見えたのは白い先端部だった。槍の穂のように尖っている。ぎゅるぎゅると、捩れながら空間にそれが全貌を現した。巨大な蕾だ。白い蕾が剥離した空を裂いて現れたのだ。蕾はそのまま落ちるかに思われたが、突然バッと開いたかと思うと空間に留まった。ミーシャが目を見開く。
「――グランマ」
その名を呼ぶと、グランマは甲高い鳴き声を上げた。
まるで壁を爪で引っ掻いたような耳障りな音だ。
グランマが花開いて回転する。グランマの花弁の一端から白い光条が放たれた。地表へと突き刺さり、一瞬だけ明滅した瞬間、地響きがコロニーを揺さぶった。髪が煽られ、暴風が駆け抜けていく。土煙が舞い上がり、一瞬だけ竜巻のように集束したかと思うと、一挙に弾けた。
シイナが悲鳴を上げる。今まで聞いたことのない声だった。ミーシャは硬直していた。これはまだ夢なのではないか。夢の続きを見ているのではないか、と疑う。土煙が上がった方向を見やり、次いでシイナに視線を投じた。シイナは震えていた。歯の根が合わないのか、頭を抱えている。恐慌状態に陥ったシイナが首を振って叫ぶ。
「何、これ。何、あれ」
「……夢と同じ」
グランマが重力を無視したようにゆっくりと地表へと降り立とうとする。まだ朝の昏睡に近い状態にある住宅街では、「地震か?」などと場違いな声が聞こえてきた。地震などではない。グランマが、現実に攻めてきたのだ。グランマが地表に降り立とうとする前に、ミーシャはハッと気づいた。
「あの場所、工業区」
父親がいる。
そう考えるとミーシャはいてもたってもいられなくなった。弾かれたように走り出す。背中にシイナの呼ぶ声がかかったが、足を止められなかった。ミーシャは駅へと駆け抜けた。地下鉄は繋がっていない。全線が不通とあった。ミーシャは工業区まで駆け出した。工業区が近くなると、土煙が広がり、赤い光景が目に入ってきた。
今朝見た夢の光景をそのまま持ち出したかのようだ。グランマの吐き出した息吹が白い光の柱となって近くのビルを薙ぎ払った。焼け爛れたビルが崩落し、何かに引火したのか炎が上がる。ガラス片が飛び散り、ミーシャは吹き抜けた旋風が頬を切ったのを感じ取った。鋭敏な痛みに頬をさすると、血がこびりついていた。ミーシャは喉元を押さえた。酷く喉が渇いている。
「何、これ。ざわざわする」
眉間を疼痛が走る。
現実の光景だというのに、何か作られた光景のようだった。一度経験したことを反芻しているかのような奇妙な感覚が纏いつく。ずきん、と痛みが走り、視界がぼやけた。その一瞬によろめくと、鈍い音が耳に届いた。
顔を振り向けると、常夜灯が横倒しになって目の前を遮った。重い音を立てて根元から曲がった常夜灯の柱が視界に入る。一歩踏み込んでいたらどうなっていたか。それを考えるだけで怖気が走り、ミーシャは足が竦んだ。
その場に縫い付けられたかのように動けなくなるのを感じる。足から力が抜けていく。父親がいるから助けなければならない。
しかし、どうやって? そもそも自分が行ったところで何の助けになるというのか。非力な小娘一人がどうやって父親を助けられるのか。ミーシャは掌に視線を落とした。鮮烈な赤い血がべったりとついている。覚えず眩暈を覚えた。今にも意識が閉じそうである。それでも内奥から義務感が声を張り上げる。
――立ち上がれ、と。
「……でも、行かなきゃ」
萎えかけた足に熱を灯すためにミーシャは膝頭を強く叩いた。よろり、と立ち上がり駆け出そうとする。その時、グランマが放射した白い一条の光が空間を薙いだ。風圧で吹き飛ばされそうになりながらも、ミーシャはその場に踏み止まった。前から工業区から逃げ出してきた人々とすれ違う。その中に父親の姿を捜そうとした。首を巡らせていると、不意に声が弾けた。
「ミーシャ!」
父親の声だった。そちらへと目を向けると、研究室のメンバーも一緒だった。だが、全員が物々しい空気をはらんでいる。イアンと年長の男がアサルトライフルを構えていた。ミーシャはアタッシュケースを持った父親へと抱きついた。父親がミーシャの背中を優しく撫でる。
「よかった。お父さん。死んじゃったらって……」
「大丈夫だよ、私は。ミーシャはどうしてここまで」
「あたし、何だか初めて見たような気がしなくって。この風景を」
ミーシャは周囲を見渡した。炎が燻り、粉塵が舞い上がる。紅蓮の中に白いグランマが浮かび上がっている。
「夢で見たのと同じなの」
その言葉を聞いて父親はハッとして、「なるほど」と口にした。
「どうしてグランマがこのコロニーに」
「こいつを狙ってきたんだ」
父親はアタッシュケースを開く。中から白い蒸気が発せられ、圧縮保存されていた何かが姿を現した。それは昨夜見せてもらったレンズだ。杭のようなパーツがついており、先端が捩れている。
「お父さん、それ」
「ミーシャ。レッドフレームはお前にこの光景を見せた。それはつまり、レッドフレームが選んだということなんだ」
ミーシャの肩を掴んで父親が聞かせる。しかし、ミーシャには意味が分からなかった。
「どういう、ことなの……」
「今はそれ以上のことを知らなくってもいい。ただ――」
言葉尻を劈く甲高い鳴き声が発せられ、グランマが動いた。漂う土煙が渦をなし、グランマの身体が持ち上がっていく。
ミーシャは初めてグランマを間近で見た。花弁のようであるが、その身体には細やかな歯が並んでいる。中央付近には螺旋を描いた乱杭歯が立ち並び、花弁の一端に引き伸ばされた眼があった。ミーシャは覚えず膝が震えだすのを感じた。
「こっちへ来るぞ!」と年長の男が叫ぶ。
「ブルーフレーム隊はまだなのか?」
イアンの声に浮遊したグランマが人工太陽の光を遮って巨大な積乱雲のように視界いっぱいに広がる。
「くそっ!」と悪態をついたイアンがアサルトライフルを撃ち出した。
「よせ!」という父親の制止の声がかかるのと同時だった。グランマの体表に弾丸が撃ち込まれるが全く効いている様子はない。グランマの身体から黒い触手が伸びた。鞭のようにしなったかと思うと、女性スタッフの身体を絡め取った。二人の女性スタッフがグランマに捕まる。「野郎!」とイアンがアサルトライフルで狙いをつけようとするが、今度は年長の男が制した。
「下手に撃つと当たるぞ」
「だからって、何もしないって言うんですか!」
イアンが声を張り上げた瞬間、女性スタッフ二人が金切り声を上げた。黒い触手が女性スタッフの身体を締め上げ、一瞬のうちに寸断した。生き別れになった身体から血飛沫が上がる。ミーシャは目をわなわなと震わせた。
目の前の光景が信じられなかった。
グランマはそれを嚆矢として次々に逃げ惑う人々を触手で絡め取り、ある者は口へと運び、ある者は引き千切った。ミーシャは視界がゆらゆらと揺れるのを感じた。これは現実なのか。悪夢をそのまま持ち出したのではないのか。だが、焼け付くような空気も鉄さび臭い空気も本物だ。断末魔が響き渡り、地獄絵図そのものの光景が広がる。
「ミーシャ。ミーシャ!」
呼びかけられ、ミーシャは現実に引き戻された。父親が赤く揺れる光を顔の半分に浴びながら、泣きそうな顔で告げる。
「私を、許してくれ」
何を、と言いかけたその時、ミーシャは父親が手にレンズのついた杭を持っていることに気づいた。ミーシャが口にする前に杭が胸の中心へと食い込んだ。身体の中で杭が変形し、がっちりと返しがつくのを感じる。神経を引き裂く痛みに、ミーシャは叫び声を上げた。目の端に涙が溜まり、赤い景色を滲ませる。
「いいかい。ミーシャ」
空間を奔った黒い触手がイアンを貫いた。イアンが手からアサルトライフルを取り落とし、だらんとぶら下がる。グランマが口へと運ぼうとするのを年長の男が雄叫びを上げながらアサルトライフルで応戦した。
「よくもイアンを。この化け物が!」
弾丸が表皮で跳ね、グランマが僅かに注意を向ける。しなった黒い触手が年長の男へと打ち下ろされた。年長の男は頭から真っ二つに断ち割られる。ごとりと重い音を立てて死体が転がる。
父親はそれでもミーシャの肩を掴んだまま諭すように言った。
「お前がレッドフレームを持っていることを、決して誰にも知られてはいけないよ。その力を利用する者が現れる。お前はたった一人でも、その力と共にあるんだ」
ミーシャは痛みよりも父親の言葉が分からなかった。何を言っているのか。父親の頬を涙の筋が流れる。どうして泣いているのか。
「お父さん。どうして泣いているの?」
「結局、お前に背負わせるしかなかったからだよ。痛いだろう。辛いだろう。でも、私はエゴをお前に与えてしまった。父親失格だ」
父親がミーシャの頬を撫でる。愛おしそうな手つきにミーシャはその手を握り返した。グランマが白い身体を広げて甲高い鳴き声を上げる。父親はミーシャの胸元に食い込んだレンズに指先で触れた。
「――さぁ、行くんだ。私の赤ずきん」
父親が白衣を翻し、地面に落ちたアサルトライフルを拾い上げる。アサルトライフルを構えて撃ち放ちながら、父親が声を張り上げる。
「どうした? グランマ!」
グランマが注意を振り向け、少女の声が響いた。
(あなたはどうしてそんなに耳が長いの? あなたはどうしてそんなに口が真っ赤なの?)
「それはお前を食べるためだ!」
父親がその声に応じると、グランマは完全に父親へと狙いを定めた。黒い触手が地表すれすれを走り、父親の足を取る。一瞬のうちに絡め取り、腕ごと拘束する。父親は抵抗しようと身をよじるが、触手が食い込み、痛みに呻き声を上げた。
「お父さん!」
ミーシャが胸元に広がる熱い痛みをおして駆け寄ろうとする。父親は顔を振り向けた。一瞬だけ微笑んだ。それは父親がいつも見せてくれていたものだ。その笑顔が焼きつく前に、黒い触手ごとグランマの口の中へと運び込まれた。花弁の中央が閉じて咀嚼音が響く。白衣の断片が風に乗って飛んできた。ミーシャがそれを掴む。血濡れの白衣は赤く染まっていた。
「……嫌」
ミーシャは頭を抱えてよろめく。次の瞬間、鼓動が大きく高鳴った。レンズから赤い光が十字に放射される。瞬いた光が眩い閃光を宿し、輝きがミーシャの小さな身体を覆った。ミーシャの身体へと半透明の膜が装着される。雨合羽のような膜に赤い光が染み出し、ミーシャの顔を覆った瞬間、何も見えなくなった。