第三話「前を行くしかない」
ウィペットは端末に転属命令が来ていることに気づいた。
開くと、転属先と詳しい時刻が表示されている。ちょうどシャトルに乗り込んだばかりだったので、端末はもうすぐオフラインにしなければならない。アナウンスが響く中、ウィペットはシャトルの行き先を確認した。ペロー5というコロニーだ。冥王星からは随分と離れた位置にある。グランマとの戦闘などほとんど忘却の彼方とエンターテイメントに変化してしまう距離だ。
「……遠いな」
ウィペットは呟き、端末を閉じてポケットに入れた。この機に乗る前日にB3――本名をリリィと言ったか――と交わした会話を思い出す。
「グランマは、次はどこに現れるのだろう」
切り出したのはリリィのほうからだった。ウィペットは、「さぁ」と返した。グランマの出現予測は立てられない。ワームホールの出現予測と併用してようやく、と言ったところだ。それも災害のような一時的なものではない。グランマがブロッサム型一体でも現れれば甚大な被害となる。コロニー近辺に現れればそのコロニーはほぼ壊滅状態を被るだろう。
「転属先に現れないことをお互いに祈ろう」
ウィペットはそう返して、ジョークで場を和ませようとしたが、リリィは、「希望的観測だ」と口にした。
「人類の生活圏を奪うためにグランマは動いている。冥王星はたまたま大規模生活コロニーが近辺にないからよかった。小規模コロニーにこうして身を寄せられたのは幸運としか言いようがない」
ウィペットとリリィは冥王星から程近いブレイン3という小規模生活コロニーで三日間の休暇を取ることになっていた。うち二日はほとんど眠って過ごしたが、最終日にリリィと共に出かけることにしたのだ。かといって、ショッピングを楽しむような精神的余裕はない。
結局、小さなコロニーの駅を乗り継ぎぐるりと一周巡ってから、近くの停留所で話すこととなったのである。カフェも兼ねており、香ばしいコーヒーの匂いが漂う中、リリィはカフェオレを、ウィペットはホットミルクティーを頼んだ。砂糖を継ぎ足していると、「入れ過ぎだ」とリリィが指摘した。ウィペットは、「脳の栄養補給だ」と返す。
「糖分を適度に摂らなければもしもの時の判断を見誤る」
自分で口にしてから、グランマとの戦闘を思い返す。あの時の判断は正しかったのか? 浮かんだ疑問に茶色の液体へと視線を落とす。表情を翳らせた自分が反射している。
「考え過ぎるな」とリリィがウィペットの思考を見透かしたように声を出した。ウィペットは顔を上げて、「そんなに考え込んでいるように見えたかな」と口元を斜めにする。その笑みが虚勢であることにリリィは気づいたのか柔らかな笑みを浮かべた。
「最善なんて分からないんだ。いつだって答えは後出しでやってくる。わたしたちは、後出しの答えを練って、それが限りなく最善に近いかどうかを模索するしかない」
「何だか、馬鹿みたいだ」
発した声が思いのほか正直だったので、ウィペットはハッとして訂正する。
「いや、作戦行動が馬鹿みたいだったとか言う意味じゃなく――」
「分かっている。それが兵士の性って言うものだろう」
リリィは小さく、「ああ、分かっている」と口中に呟いた。リリィとて迷いの中にあるのだ。自分だけが囚われているわけではない。ウィペットはホットミルクティーを口に運んだ。舌がとろけそうなほどに甘い。ホッと一息つくと、リリィは、「甘党なのか?」と尋ねた。ウィペットは、「まぁ、そうかな」とカップを置いて頷く。
「昔から甘いものが好きで、今でも変わらない」
「じゃあ、脳が糖分を要求している云々は」
「まぁ、外向きの理由だ」
ウィペットはホットミルクティーを飲んだおかげか、緊張が幾分か和らいでいるのを感じた。全身の血の巡りを自覚する。兵士としてではなく、一個人として会うリリィは青ずきん部隊の制服を纏ってはいない。対して自分はこのような非番の時でも制服姿だった。青いラインがあしらわれた白い制服だ。リリィは女性的な服装だった。ブレイン3では冬が近づきつつあるので、白いジャケットを着込んでいる。スカートを穿いて黒いハイソックス姿のリリィは一目では兵士とは思えないだろう。対して自分は兵士然とした服装だ。
リリィはウィペットの返答に微笑んだ。
「なるほど。兵士が甘党とは珍しい」
「おかしいかな?」
「おかしくはないと思う。わたしだって甘いものは嫌いじゃない」
ウィペットはカフェにいる他の客を見渡した。付近でグランマとの戦闘があったというのに、皆、陰鬱な面持ちは浮かべていない。明日が来ることを当たり前のように享受している人々だった。
「いくらグランマの戦闘宙域から離れているとは言っても、一番近いんだ。なのに、この気の緩みようは」
「仕方がない。誰もがグランマの脅威を同じように受け止めているわけではないよ。兵士にだって差があるんだ。民衆はもっとだろう」
グランマがコロニーを襲った記録は少ない。しかし、確実に人類の生活圏を奪っているのだ。盤面が崩されなければ気がつかないのか。それとも喉元過ぎれば熱さ忘れるの理論で、人々は潰されたコロニーがあっても、一瞬の憐憫だけで物事を済ませようとしているのではないか。
「グランマを最も恐れているのは我々、ブルーフレーム隊だ。最前線で戦う人間が一番恐怖を知っている。旧世紀では隣国との緊張関係でさえ関係がないとしらを切れたんだ。宇宙規模となればさらに関係がないで済ませるだろうさ」
「宇宙は繋がっている」
「地球なんてもっと近い。それでも知らぬ存ぜぬを突き通せた人類が、グランマの脅威に対して盲目なのは何も理解できない話ではない」
ウィペットは安穏とした平和に浸された人々を見渡して苦々しく口にした。
「では、私たちの戦いは何なんだ。隊長の犠牲は……」
額を押さえたウィペットにリリィは、「気負うな」という言葉を投げた。
「誰のせいでもないんだ。兵士ならば命を投げ打つ覚悟はしている。兵士は戦うこと、恐怖を知ることが仕事だが、民衆は平和を噛み締めることが仕事なんだ。何事もなかったかのように笑えることも、民衆の特権さ。それも立派な仕事なんだ」
リリィの言っていることは分かる。民衆の表情を曇らせてはならない。兵士が痛みを一手に引き受ける。それこそがあるべき姿だろう。ウィペットは右手首に巻いたバンドに視線を落とす。時計のような球形だが秒針も文字盤もなく、ガラスのように磨き上げられたレンズの内側に青い光が密集している。
まるで小さな銀河を内包しているかのようだった。それこそがブルーフレームの本体である。ブルーフレームはこのような小型端末から展開され、全身を覆う鎧となるのだ。ウィペットは考える。極秘とされているブルーフレームの携行端末。
この技術だけでも民衆に知れ渡ればどうなるか。誰が兵士なのか民衆なのかという区別がつかないだけではない。旧世紀の中世で起きた魔女狩りのような事態に陥るであろう。誰が力を持っているか分からない状況のほうがいい。力を持つ者と持たざる者との格差が生じる可能性は多いにあり得る。
「たまに、見せるじゃないか」
ウィペットの言葉の意味をはかりかねたのだろう。リリィが首を傾げた。ウィペットが右手首を差し出し、「こいつがさ」と言ってようやく理解したようだ。
「夢にグランマが出てくる」
ウィペットの言っているのは、ブルーフレームの携行端末が見せる幻覚のことだった。携行端末は時にグランマとの戦闘を反芻させるために、所有者へと夢という形で戦闘シミュレーションを見せる。それは戦士の自覚を失わせないために組み込まれたプログラムだったが、それと同時に呪縛でもあった。携行端末を持っている限りはグランマとの戦闘から逃れることはできない。ウィペットは自嘲気味に告げた。
「あれは、嫌だな。今でも慣れない」
「わたしだって慣れないよ」とリリィが口にして左手首の携行端末を見せた。ウィペットは左利きなので右手首につけているが多くの場合は左手首だった。腕時計と同じ感覚でつけている。しかし、背負っているものは段違いだ。
「これが、本当にただの優しい腕時計なら、って思う時がある」
リリィの声にウィペットは頷いた。まるで酔っているかのようにくらりと顎をしゃくって、「こいつは本当にくせ者だ」と言った。
「こいつを持っている限り、私は安心しておちおち眠ることもできない。薬を飲んで、深い眠りなら見ないで済むんだが、浅い眠りの時に見ると、あれは地獄だ」
ウィペットはブルーフレームが見せる夢を思い出す。ほとんど予知夢のようなものだった。兵士の中には、「凶兆だ」としてあえてブルーフレームの見せる夢を次の戦闘に役立てようという人間もいる。
「睡眠薬は使ってる?」
「ああ、いつも処方してもらっている」
ブルーフレーム隊は不眠症患者の集まりだった。軍医より、睡眠薬が処方されていることがままある。
「あんなものに頼らないのが一番いいのだけれど」
リリィはそう言ってから周囲を見渡し、「ここにいる人々の中で、何人が睡眠薬に頼っているだろう」と口にした。羨望の光がその眼に宿ったのが見て取れる。
「それでも、私は民衆に迎合する気にはなれないよ」
ウィペットの言葉にリリィは首を引っ込めて、「それも正しいあり方だろう」と告げた。カフェオレを飲み干し、「戦うという意志を」と口を開く。
「持ち続けられるかどうかだろう。戦士と民衆を分けるのはそれだ。民衆の中にも正義の心を持つ人間がいることをわたしは信じている」
「もし、そんな人間がいなかったら」
すっかり冷めたホットミルクティーの表面に視線を落としながら、ウィペットが陰鬱に呟く。リリィは、「それこそ、世は地獄だよ」と言った。
「救いのない場所に救いを投げかける。人類は今まで何度もそうしてきた。グランマ襲来だって同じことだ。人類は生活圏を奪われながらも、最後の足掻き、活力は失っていないと信じたい」
「活力、か……」
本当に人類に存在するものなのだろうか。とっくの昔に枯渇しているのではないか。そう考えてしまう自分に嫌気が差す。前線で戦うものとして人類を信頼していないのは、同時に民衆からの不信を買う。自分が信じずして誰が信じるのか。人類の力、明日を切り拓く勇気と叡智を。
「前を行くものが顔を上げなければ、誰も歩み出さないからな」
ウィペットは自分にそう納得させて冷めた液体を飲み込んだ。リリィが薄く微笑む。
「本当に、そう思えたらな」
その横顔がどこか寂しげだったことをウィペットは発進シークエンスに入ったシャトルの中で考える。そう思えたら。まるで理想のような言葉だ。
「理想を形にしなければ」
そうでなければ、儚く消えていく夢と同じだ。覚めれば夢は霧散する。理想を理想として胸に抱いている間は、まだ生きている感覚がある。
シャトルが発進する。僅かなGを感じたが、宇宙空間に入るとすぐに消えた。ウィペットはアイマスクをつけて眠りに入ることにした。目的地のペロー5までは十時間程度ある。暇を潰すような娯楽はもちろんシャトルに備え付けられているが、ウィペットには興味がない。
夢も見ずに熟睡することのほうが有意義に思えた。考えてみれば戦闘時以外は眠ってばかりだ。きっと、現実の中に存在するフィクションの世界よりも何もない漆黒に興味があるからだろう。漆黒はそのまま宇宙の深淵に通じているかのようだ。左手首の携行端末に視線を落とす。青い銀河が回転している。いっそ、何もないほうがいい。
闇の中に潜む獣のように、息を殺して、ずっと眠りの中にいられたら。そんなことを考えながら、ウィペットはシートをリクライニングさせて手足から力を抜いた。