第十四話「初陣」
ミーシャは起き上がって、荒い息をついた。
先ほど見た夢の内容が鮮烈に像を結ぶ。
葡萄の房のようなグランマが現れ、自分はレッドフレームとなって立ち向かう夢だった。
紫色の瞳孔を収縮させたグランマの眼球果実が大写しになり、ミーシャは喉の奥からせり上がってくるものを感じて、トイレへと急いだ。
胃の中のものを吐き出して、ミーシャは唾液を拭って酸っぱい口中をすすぐために水飲み場へと向かった。
まだ家には帰れない。
警戒レベルが引き下げられたとはいえ、個人の家に帰れるほどの余裕はなかった。シェルター内の水飲み場には他にも数名の少女たちが群がっていた。全員が水を飲んでいる。端末に視線を落とすと深夜の三時だ。
こんな時間に、まるで示し合わせたように。どうしてなのだろうか、と考えながらミーシャもコップを取って水を入れる。その時、同じように水を飲んでいるシイナを見つけた。シイナはミーシャに気づくと、ばつが悪そうに顔を背けた。
ミーシャも合わせる顔はなかった。顔を伏せて、一気に水を飲む。少女たちの手首には青い銀河の輝きを放つレンズがついていた。まさか、それに関係が、と勘繰ろうとしているとシイナが歩み寄ってきた。何かしら喋ろうかと一瞬だけ思ったが、昼間に袂を分かったばかりなのに、話す事柄など見つからなかった。
シイナはミーシャのことなど眼中に入っていないかのように振る舞い、脇を通り抜けていった。ミーシャは引き止める言葉が欲しかった。シイナの歩みを止める言葉がないかと必死に胸中を探ったが、ミーシャには何一つなかった。持つ者と持たざる者、その決定的な差が浮き彫りになっている。シイナは持つ者としての使命を全うしようとしている。
――では、自分は?
ミーシャは自問する。レッドフレームを託された。しかし、どうやって戦えばいいのか分からない。誰も指針を示してはくれない。父親は誰にも教えてはならないとだけ言ってグランマの餌食になってしまった。私の赤ずきん、という呪縛を添えて。
赤ずきんとは何なのだ。青ずきん部隊とは違うのか。それとも似て非なるものなのか。答えを誰かに求めるわけにもいかず、ミーシャは水をもう一杯飲もうとすると、少女のうちの一人が声を出した。
「これって、あのお医者さんが言っていた夢って奴なの?」
口に運ぼうとしていたミーシャの手が硬直する。他の少女は頷き合いながら、「そうかもね」と返した。
「よく分からないけれど、今起きたみんなは適性があるって診断された人なんでしょ。あなたは……」
少女の一人がミーシャを見やった。ミーシャの手首に携行端末がないのを確認すると、「どうして?」と小首を傾げる。
「夢を見たの?」
「うん」
ミーシャは頷くが、少女たちは半信半疑の目を向ける。
「でも、適性者じゃないみたいに見えるけど」
「悪夢を、見たの。誰だって見ることはあるでしょ」
「でも……」
少女たちは左手首につけた青い銀河のレンズを見せ合う。ミーシャは水を飲み干して、身を翻した。そのまま逃げるように駆け出す。酷く惨めに思えた。適性がないのに、持っている人間と同じようなことに悩まされる。所詮、持たざる人間なのだ。ならば、それらしく隅っこで蹲っていればいい。
「なのに、どうして……」
ミーシャは呻く。このまま、誰にも理解されない日々が続くのだろうか。悪夢を見続け、グランマ襲来に指をくわえて見るような人間に。
――嫌だ、とミーシャは頭を振る。そのような人間にはなりたくない。戦いたい。戦わなくては、という意思が湧き上がるが、どうすればいいのか分からない。
自分の身体のことなのに、自分のことではないかのようだ。勝手に定められた運命に抗おうともせず、平和と混迷の合間を行き来する。それは生きているのか死んでいるのか分からない。青ずきん部隊に入る、という意志だけが空回りして、何一つ成しえない。
「これじゃ、意味ないよ。お父さん……」
今さら父親に助けを求めるような弱さしか持っていない。ミーシャはその場に蹲り、頬を熱いものが伝うのを感じた。もう泣きたくないのに、涙は溢れる。自分の意思とはまるで無関係に流れる涙は、他人事のようでしっかりと頬に痕跡を刻み込む。
いっそのこと、他人事で済ませられたら。ミーシャはこの世界で絶対の孤独を胸に、胸元を掻き毟った。しかし、レンズに触れる気配はない。やはり身体の中に入ってしまったのだ。
「あたしの中にあるのなら、今すぐ出てきて、証明してよ」
懇願する声を出すも通じる道理はない。ミーシャは両肩を掻き抱いて、静かに咽び泣いた。
朝を迎えた感触はしなかった。
きっと窓がないせいだ、とミーシャは感じる。陽射しをシェルター全部が遮っている。この場所では昼夜など関係がない。時間を示すものは、定時で支給される食料だけだ。ミーシャは端末を取り出して待ち受け画面を見つめる。朝食の配給が午前七時から一時間。端末による個人識別によって重複を避けている。ミーシャは端末を翳して自分の分の食料を受け取り、シェルターの端の壁にもたれて食べた。パンだったが、ほとんど味はしなかった。
「砂を食んでいるみたい」
呟いてミーシャがパンを千切って口に運んでいると、シェルターの扉が開いた。現れたのは数人の水色の制服を身に纏った少女たちと男だった。身のこなしから軍人であることが知れた。その中にウィペットの姿を見つける。男は昨日の適性検査をしていた医師だ。看護師が付き添い、「この中で」と男が声を張り上げる。
「適性検査後に夢を見たものはいるか? グランマの出てくる夢だ」
何人かがおずおずと手を上げる。男はウィペットへと顔を振り向けた。
「どうやら何人かは既に第二次適性に入っているようですな」
その言葉にウィペットは頷き、恐らくは青ずきんである少女たちを引き連れてシェルターの中へと入っていった。民衆の視線を一身に浴びながらウィペットが声を張り上げる。
「第二次適性のあったものはこれから第三次適性試験に入る。軍規に基づいて第三次適性のあったものはブルーフレーム隊への入隊試験をパスしたものとする。第二次適性があった時点で、第三次適性試験の受験へと必然的に繰り上げられる。異論はあるか?」
誰も何も言わなかった。唐突な言葉に誰もが戸惑っている。その中でミーシャは一人、手を上げた。全員の視線がミーシャへと向けられる。中には、「あの適性検査で落ちた子」と陰口を叩く人間もいた。
「何だ?」
ウィペットが声を振り向ける。ミーシャはウィペットに視線を真っ直ぐに向けて、胸元に手をやった。
「あたしに、もう一度チャンスをください」
「チャンスだと?」
「第一次適性検査は駄目だったけど、第二次ならもしかしたら」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ」
声を発したのは男だった。昨日のミーシャの取り乱しようを覚えていたのだろう。ウィペットが、「何か」と声を振り向けた。
「その子は適性なしです。昨日の第一次検査で分かったことです」
「本当なのか?」とウィペットは他の看護師へと確認を取る。看護師は頷いた。
「ならば、残念だが適性はない。ブルーフレーム隊になることは――」
「夢を見たんです」
遮って放った声にウィペットが眉根を寄せた。
「夢?」
「グランマが襲ってくる夢。葡萄みたいな」
その言葉にウィペットの顔色が変わった。男へともう一度詰め寄る。
「本当に適性はなかったのだろうな」
男はふるふると首を横に振った。
「間違いありません。携行端末が拒絶したのですから」
「では、何故その夢を」
「恐らく、他人から聞いたのではないでしょうか。もしくは、グランマ襲来のショックで偶然にも同じような夢を見ただけで、夢の細部は違うのかも……」
「あたしは見たんです!」
声を張り上げると、男は困惑した顔を向けた。
ウィペットはミーシャの眼を真っ直ぐに見据えた。嘘は言っていない。その証明のように視線を逸らさない。ウィペットはしばらく鋭い目つきで見つめていたが、やがて、「証明のしようがない」と声を発した。
「夢については、判断できかねる。しかし、携行端末がお前を弾いたということは歴然とした事実だ。私はお前がブルーフレーム隊に相応しくないという判断を客観的にせざるを得ない」
「そんな……」とミーシャはよろめいた。視界がぐらつく。ウィペットならば信じてくれると思っていたのだ。必ず自分の味方についてくれる。そう感じていたのに、裏切られた気分だった。
「あたしは確かに見たんです。葡萄型のグランマが、花のグランマから出てきて――」
ウィペットはミーシャの様子を見かねて口にする。
「だから、判断はできない、と言っている。適性のある人間から聞いた可能性は捨てきれない。嘘は言ってないと感じるが、本当のことだけを言っているわけではないのも同時に感じる。何かを隠しているような」
ウィペットの言葉にひやりとしたものを感じた。まさか、レッドフレームのことが露見したか。ウィペットが、「とにかく」と話題を打ち切ろうとする。
「お前に適性がないのならば、ブルーフレーム隊にわざわざ入ることもない。死に急いだって仕方がないんだ。覚悟は感じた。その覚悟は戦士たちを見送るために取っておけば――」
いい、とウィペットが言おうとしたその言葉尻を激震が遮った。シェルターが縦に揺れる。立っていた人々がつんのめり、ウィペットが僅かに姿勢を崩した。ミーシャは直感した。
――来た。
萎えかけた足に鞭打つように、膝頭を叩いてミーシャは駆け出した。ウィペットの制止の声が背中にかかる。
シェルターから出ると、まだ薄い皮膜が覆っている空に一粒の黒点が浮かび上がった。悪性腫瘍のように広がっていき、どくんどくんと脈動する。回転し、暗雲のように範囲を広げていく。一瞬だけ横に広がったかと思うと、今度は中央に向かって集束し、収縮を繰り返して、渦を成した。重力が反転し、黒い瓦礫が浮かび上がる。灰色の空へと吸い込まれていく瓦礫に従って、ミーシャの身体が浮き上がった。
「重力が反転している? ワームホールか」
忌々しげに発した声はウィペットのものだった。浮かび上がっているミーシャへと手を伸ばす。
「そのままでは空に落ちるぞ! 来い!」
差し出された手をミーシャは取らなかった。黒点を真っ直ぐに見据える。すると、凝縮した嵐の黒点の中から何かが引き出されていくのが見えた。
白い槍の穂のような形状が先に見える。ぎゅるぎゅると回転しながら、蕾の全貌が姿を現した。空間に出現したかと思うと、重力を無視してバッと花開いた。
前回と同じグランマだったが、まだそれで終わりではない。花弁の中央からミシミシと捲れていく。ワームホールを介してではなく、グランマから何かが蠢いて現れる。一挙に引き出されたのは葡萄の房のような白い果実のグランマだった。果実一つ一つが眼球であり、ぎょろりとコロニー全方位を見渡す。紫色の瞳孔が収縮し、ミーシャを捉えたかに見えた。
「……夢と同じ」
ミーシャは呟いて、胸元に手をやった。胸元がやけに熱い。溶鉱炉でも内側に備えているかのようだ。鼓動が脈打ち、胸元から赤い光が放射される。十字に瞬いたかと思うと、服を引き裂いて赤い銀河を収納したレンズが現れた。
「やっぱり、身体の中にあった」
ミーシャはレンズを撫でる。熱を持ったレンズの表面が光り輝き、ミーシャへと内奥から声を発する。
――行け、赤ずきん。