第十三話「幻夢」
黒い腫瘍のような何かが空を満たし、収縮して蠢く。
どくん、どくんと脈動している。
空間そのものがその脈動に合わせるか如く鳴動し、粉塵や崩落した瓦礫が浮き上がる。重力が反転したようだ。空へと吸い寄せられていく人々が視界に映る。
黒い腫瘍のような物体が空に穴を穿ち、そこへと空気や人々が渦を巻いて吸い込まれていく。まるでミキサーのように吸い込んだ物質が破砕されていく。代わりに内側から引き出されていくのは、白い槍の穂のような蕾だった。ぎゅるぎゅると回転しながら、その身を晒していく。急に収束が止んだかと思うと、蕾がバッと花開いた。
――グランマ。
心の中でその名を呼ぶと、グランマの花弁の中心から不意に何かが吐き出された。粘液を引いたそれへと視線を移す。まるで果実のような物体だった。形状は葡萄の房に似ているがやはり表皮は白い。果実のうち、一つが裂けて目を開いた。
果実そのものが眼球だった。
紫色の瞳孔が収縮する。
数十個の果実の眼球で構成された葡萄型のグランマが花弁のグランマから形状を分離させる。花弁のグランマは色を失い、灰色に枯れて花びらを落とした。葡萄型のグランマは眼球から白い光軸を放つ。全方位へと攻撃が放射され、コロニーを焼いていく。
思わず叫んで、彼女は変身しようとした。その時、赤い流星が鋭い光を空に描きながらグランマへと直進していくのが視界に映った。一人で行かせては駄目だ。直感的にそう判じて、地面を蹴りつけ、青い光を身に纏おうとする。
赤い光が両腕から太い帯状の光を撃ち出し、グランマの表皮を焼く。しかし、それだけでは勝てない。彼女は立ち向かおうとしたが、グランマの眼球果実のうちの一つが彼女を不意に捉えた。突然のことに反応が間に合わない。白い光がハレーションを起こし、彼女の視界を覆い尽くした。
現実の喉を震わせて、ウィペットは起き上がった。
寝巻きであるジャージにじっとりと汗を掻いている。連日の無理が祟ったのか、頭痛を僅かに感じる。額を押さえ、よろめきながらウィペットは枕元の薬を持って水飲み場へと向かった。コップに水を入れて睡眠薬を飲んだ。どうやら飲み忘れていたらしい。だから、あのような夢を見たのだ。ウィペットは額を押さえながら、夢の内容を反芻する。
「新型のグランマか……」
恐らくは夢を見ているのならば、他の人間も同じような映像を観たことだろう。しかし誰も起き上がる気配がないのは全員がきちんと眠る前の睡眠薬を飲んだからだ。ウィペットは隊長という職務上、少し程度の無理ならば仕事のうちだと感じていた。だが、無理によって精神を病んだのではどうにもならない。
「あれが来るというのならば、警戒を強めなければならないな」
葡萄の房のようなグランマは見たことのない型だった。ペロー5に来るとは信じたくなかったが、携行端末が見せる予知夢は的中する。ウィペットは右手首の携行端末に視線を落とした。青い銀河が回転している。
宇宙の深淵に繋がっているような光景に吸い込まれそうになりながら、ウィペットは頭を振った。もう一杯だけ水を飲んで気持ちを落ち着けてから、寝床に戻った。寝室には余計な物は置いていない。
ペロー5に来てすぐに振り分けられた、軍の宿舎だった。ウィペットは余計なものを集める癖はなかったが、唯一つだけあったのは、枕元に置いたビンの中身だった。
ビンの蓋を開けて軽く振ると、中から四角い角砂糖が袋に包まれて出てきた。ウィペットはその地に着いたらまず、角砂糖を集める癖がついていた。甘いものが好きであるのも原因の一つだが、角砂糖の飾らない様相が好きなのだ。角砂糖を包装している袋の彩りも好きだった。眠れない夜には角砂糖をブロックのように積み上げて暇を持て余す。
ウィペットは壁にかけられた時計を見やった。深夜の三時だ。眠るまでは少し時間がかかるだろう。ウィペットは角砂糖を積み上げて睡魔が訪れるのを待つことにした。
角砂糖のブロックは慎重に積まなければすぐに瓦解してしまう。まるで日常のようだ、とウィペットは思う。磐石なように見えて、実は危ういバランスで成り立っている。角砂糖は一辺がきちんと整えられており、正確に積めば崩壊するはずがないのだが、ある一点を超えると急にバランスが危うくなる。平和とはそのようなものだろう。
今日は角砂糖の塔を作ることにした。ウィペットは角砂糖をビンから取り出して積み上げながら、赤い光について考える。レッドフレームと呼称されることになった赤い光。夢の中にも出てきた。
「あの赤いのは、何なんだ」
ブルーフレームよりも遥かに高い戦闘能力を有している。一体、誰が所有者なのか。それが分からない限り、どこへも進めないような気がしていた。レッドフレームの解明、敵なのか味方なのか。人類の敵、ということはないだろう。グランマに立ち向かったのだ。
「ない、と信じたいな。あんな戦力が相手だなんて」
慎重な指先で角砂糖を積み上げる。こんな時に、相談できる相手がいれば、とウィペットは思う。夜を持て余すことなんてないのに。リリィの顔が浮かんだが、彼女もまた忙しさに追われているだろう。ふと、ミーシャの顔が浮かんだ。
あの少女はブルーフレーム隊に入ると自分に誓った。あの眼差しは嘘ではない。しかし、ウィペットはでき得ることならばミーシャに入って欲しくないと考えていた。
「ひたむきな人間ほど命を落としやすい。あの少女、ミーシャ・カーマインと言ったか」
角砂糖の塔がある一点まで到達する。これ以上積み上げれば恐らくそう遠くないうちに瓦解するだろう。ウィペットは一つの角砂糖をゆっくりと滑らせて今しがた作った角砂糖の塔と隣接するように積み上げた。
一歩間違えれば丸ごとおじゃんになる。これが角砂糖の塔だからいいが、もしコロニーならば、人類の平和ならば、と考えてしまう。指先の微妙な力加減の差で崩れる。そんなものが磐石と呼べるのか。それは儚く消える幻想の一種ではないのか。ウィペットはそこまで考えて、らしくない、の一語で打ち消した。
平和を考えるのは戦士の役目ではない。それは政治家があの手この手で人々に妄信させる。戦士はただ与えられた任務を遂行するだけでいい。だが、戦士が考えることを放棄して、ただの歯車の一端になってしまえばどうなるか。不意にそんな考えが過ぎり、指先が強張った。
案の定、角砂糖の塔が崩れ落ちる。バラバラになった角砂糖を見て、ウィペットは息をついた。
「……疲れているな」
一度、休暇を申請してみようか。しかし、先ほどの夢が気になってそれどころではないだろう。根っからの兵士気質なのだ。角砂糖を集めながら、ウィペットは思考する。甘いものが欲しい。舌がとろけるほどに甘い何かが。
ウィペットは深夜にも関わらず、紅茶を作ることにした。ホットミルクティーをこしらえ、角砂糖を三つ入れる。随分と甘みが増した紅茶を口につけ、ウィペットは息を吐き出した。
リリィと共にいたブレイン3と違って、このペロー5は夏が迫ってきている。息が白くなることはなかった。頭を使うと、どうしても甘いものを欲する。ウィペットは紅茶を飲みながら考える。レッドフレームの目的とは何だ。グランマと交戦したと言うことはこちら側と考えていいのか。しかし、とウィペットは思い返す。
「無茶苦茶な戦い方だったな」
ウィペットは端末を取り出してブルーフレームが記録した映像を観直した。
高出力、高推進に任せた粗削りな戦法だ。恐らくは軍人の類ではない。そもそも軍人の類ならば報告が入らないことがおかしい。ウィペットはグランマの口へと潜入しコアを貫いたレッドフレームの戦い方を見て、顎に手を添える。
「ブルーフレームの出力では口の中に入ったら最後、食われるしかない。だが、このレッドフレームは貫通した。どれほどの出力差だ? 十倍? それとも……」
そこまで考えて、視界が僅かにぶれたのを感じた。睡眠薬が効き始めたのだ。
「ようやくか」と目頭を揉んでウィペットは端末の画面を消そうとする。その前に思い至って、少しだけ逆戻しにした。最も接近した時の映像に固定する。投射画面を凝視するが、やはり表情は分からなかった。
「やめよう」
ウィペットは画面を消して端末をポケットに仕舞い、紅茶を飲み干した。虫歯になるかもしれないが、その時は軍医に見てもらえばいい。生活態度を改めるつもりはなかったし、今さら、という感触もあった。角砂糖をビンに戻し、ウィペットはベッドに潜り込んだ。間もなく、夢も見ないほどの深い眠りに向けて船を漕ぎ出した。