第十二話「分かたれた道」
シェルターの避難勧告レベルが引き下げられ、ミーシャたちは外に出ることが許された。
外に出ると煤けた空気が風に混じって吹き抜ける。凍りつくような冷たい雨が降りしきっている。シェルターの中で水を飲んだが、それでも喉が渇いていた。
ミーシャは唾を飲み下しながら、空に手を翳した。人工太陽の機能が一部停止して夜と昼間が同居している。世界の終わりのような光景にミーシャは翳した手を引っ込めた。その時、青い光が視界を裂いていった。四つの流星だ。青ずきん部隊だと知れた。あの中にウィペットはいるのだろうか、と考える。
「端末、アクティブになってる」
シイナの声にミーシャも端末を確認した。端末に新着メールがあった。ペロー5を統括する軍部からの直通メールだ。
「何……」
ミーシャがメールを開くと、そこに書かれていたのはブルーフレーム隊の志願者を募る文面だった。シイナが目を見開いて、「ミーシャ、これ」と端末を見せる。ざわめきがシェルターから出た人々の中に巻き起こった。どうやら自分たちだけではないらしい。同じくらいの年頃の少女たちは皆、同じメールを受け取ったようだった。
「ミーシャ。わたしたち――」
「行こう」
皆まで聞かずミーシャは口にしていた。シイナはしばらく放心するように口を開けていたが、やがて頷いた。夢に駆け上るための架け橋は向こうから架けてくれたわけだ。あとは自分たちの覚悟次第である。
ミーシャは母親に叩かれた頬をさすった。まだ僅かに熱を帯びている。その熱が消えてしまわないようにぐっと拳を握った。
「青ずきん部隊に入るんだ」
決意を新たにした言葉に、シイナは、「わたしも」と続く声を出す。
「同じ気持ちだから。一人で行かせないよ」
その言葉にミーシャは微笑みを返した。剥離した空を仰ぐ。パズルのように砕けた空の一画が薄い皮膜に覆われている。皮膜の向こう側を目指すようにミーシャは片手を掲げた。星の向こう、赤い銀河の光が網膜の裏にちらついた。
メールに記されていた内容はこうだ。「明朝十時より、ブルーフレーム適性検査を行う。各ブロックに振り分けられた軍施設内にて実施。拒否権は存在する。時間に来ない場合は拒否権を行使したと判断。その後に徴兵することはない。個人の裁量で適性検査を望むかどうかを判断せよ」とのことであった。
ミーシャは十時まで待たずに軍の施設へと向かった。もちろんシイナも一緒である。ミーシャの母親とシイナの家族は完全に納得したわけではない。しかし、個人の判断で最後は決定させられる。
ミーシャは最終的には究極的に個人として決断したのだ。もちろん、父親の言葉の背景もあった。ミーシャは予備の制服に着替える時に、胸元を指先でさすった。レンズ状の物体はなかったが、赤く円形の痕が残っていた。消え失せてしまった、とは考えなかった。恐らく体内に宿ったのだろう。恐ろしいとは感じたが、異物感はない。既に身体の一部と化しているような感覚だ。
軍の施設には仮設テントがあり、いたのは十数人ばかりの少女たちだった。自分とさして変わるところはない。しかし、彼らの顔は一様に翳っていた。
「きっと、グランマの被害で親を失ったんだ」
シイナの告げた言葉にミーシャがぐっと拳を握り締める。グランマ一体が現れただけでこれだけの悲しみが蔓延する。人類の敵であるという認識を新たにしたミーシャは一瞬、脳裏に父親の死に際がちらついた。こめかみを押さえて顔を伏せる。シイナが気遣って、「ミーシャ、無茶は」と言いかける。ミーシャは頭を振った。
「してないよ、大丈夫。あたしは、大丈夫だから」
大丈夫、と何度も口中に呟いた。そう考えなければやっていけない。少女たちは一列に並び、テントの中で検査を受けていた。順番が来るまで何の検査なのかは分からなかったが、入れ替わりに出て行った少女たちの中の何人かは手首に何かを巻きつけていた。
一瞬だけ見えたそれは腕時計のようだったが、どうして腕時計が必要なのだろう。怪訝そうに視線を向けていると、シイナの順番が回ってきた。医師らしき白衣の男が液体の上に浮かべたレンズをビニール手袋で手に取った。液体を滴らせながら、レンズを握った男は、「利き腕は?」とシイナに尋ねた。
「右です」とシイナが応じると、「左手を出しなさい」と男が告げる。左手を出したシイナの手首を掴むと、男はレンズを押し当てた。後ろのミーシャの目にレンズの中で回転する青い銀河が映る。
――お父さんの渡してくれたものと同じ。
ミーシャは覚えず胸元へと手をやっていた。レンズの内部で銀河が集束すると、ゆっくりと穏やかな回転運動を始めた。男が頷く。
「適性あり。仮の携行端末だが一日つけておくように。身に馴染むのには一週間程度かかるだろう」
投射画面のカルテに何やら書き込み、男は腕時計型の端末にレンズを埋め込んだ。シイナが左手首を返して、「これで終わりですか?」と尋ねる。
「そう。第一次適性検査はね。二次適性があるかどうかは、一両日中に見る夢で明らかになる」
「夢、って……」
シイナが不安げな声を上げる。意味をはかりかねたのだろう。男は、「安心しなさい」と言った。
「適性があれば夢を見る。グランマとの戦闘シミュレーションの夢だ。これ以上は、体験したほうが早いだろう」
シイナは納得できてない様子で腕時計型に納まったレンズを見やる。次はミーシャの番だった。看護師に呼ばれてミーシャは椅子に座る。「利き腕は?」と尋ねられた。どうやらミーシャの身分は関係ないらしい。「右です」と告げると、男はシイナにしたのと同じように、液体で満たされた水槽の中からレンズを取り出し、レンズを左手首に押し当てた。
ミーシャが視線を落とす。青い銀河が回転している。父親が胸に埋め込んだ赤い銀河の回転するレンズと同じように見えた。違うのは色だけだ。その時、銀河が不意に収縮したかと思うと、形状を崩して瞬いた。
男の手からレンズが弾け飛び、ミーシャの左手首に僅かな痛みが走ったかと思うと、レンズは地面を転がっていた。看護師が慌てて拾い上げ、水槽の中に浸す。ミーシャには何が起こったのか分からなかった。男は投射画面を呼び出し、口にする。
「適性なし。次」
その言葉がにわかには信じられなかった。目を戦慄かせ、ミーシャは、「そんな……!」と立ち上がっていた。男がぎょっとして目を振り向ける。
「そんなはずはないんです! もっとしっかり検査してください!」
ミーシャが胸元に手をやって叫ぶと、「しっかりと言われてもねぇ」と男はこめかみを掻いた。
「これが第一次検査なんだ。ブルーフレームが君を選ぶかどうかの基礎テストさ。ブルーフレームへの適性は、君にはない」
絶望的な宣告に聞こえた。頭の中でわんわんと反響し、ミーシャの視界をぐらつかせる。
「そんな……」と膝を折りそうになりながら、ミーシャは看護師に引き連れられて後ろに下がらせられそうになる。その手を振り解き、ミーシャは男へとすがりついた。男が困惑した目を向ける。
「もっとちゃんと調べてください! あたしには適性があるはずなんです」
そうでなければ何故、あの時、自分はあの姿になれたのか。グランマと戦えたのは幻などではない。男の白衣を引っ張ってミーシャが叫ぶと、「いい加減にしなさい!」と男がミーシャへと手を振るった。振るわれた手がミーシャの頬を叩く。ミーシャが頬を押さえて後ずさると、男は少しだけ気後れしたような顔をしながら、「喜ぶべきことなんだよ」と告げた。
「適性がないということは、戦わなくてもいいということなんだ。どうして死に急ぐ必要がある」
事務的ではなく、初めて自分の意思を見せたような声音だった。少女が戦場に赴くのは間違っていると言いたげな言葉に、ミーシャは食い下がった。
「それでも! あたしは戦わなきゃならないんです」
そうでなければ父親の魂は浮かばれない。託されたはずなのだ。本物のヒーローになるという誓いもシイナの前で立てた。後戻りできないように母親に初めて自分を引っ叩かせた。それら全てが無駄になるような気がして、ミーシャは、「お願いです」と言っていた。
「あたしにブルーフレームの適性をください。嘘でもいいから……」
最後の言葉は自分でも驚くほどに惨めなものだった。後ろに続く少女たちがざわめき始める。男は煩わしげに片手を振るった。
「早く、連れて行きなさい。きっと極度の緊張状態で錯乱している」
錯乱などしていない、と自分が叫んだところで無駄だろう。それは余計にその疑惑を強める結果になる。ミーシャは両脇を抱える看護師を振り払おうとした。
「離して! あたしは、あたしは!」
「戦わなくっていいんですよ。いいじゃありませんか」
「あたしは、ヒーローにならなきゃならないの!」
強迫観念のようにミーシャの口からついて出る言葉に、看護師二人が顔を見合わせ、力を入れてテントから連れ出そうとする。ミーシャは精一杯抵抗した。看護師の手に爪を立てる。一瞬だけ力が緩んだ隙をついて、男へと駆け寄り頭を地面に擦り付けた。
「お願いします! あたしを青ずきん部隊に入れてください」
「そう言われてもねぇ……。適性がないんじゃ」
どうしようもない、と付け加えて男は次の少女を呼ぶように促した。ミーシャはもう一度だけ、懇願した。
「お願いします」
「だから無理なんだよ、君は。……戦わなくっていいのにどうしてそんなに」
「あたしは――」
顔を上げた瞬間、見知った顔が覗いた。シイナが自分を見下ろしていた。
「シイナ……」
「ミーシャ。行くよ」
シイナの左手首には銀河のレンズがある。ミーシャは、「どうして……」と口にして全身から力が抜けたのを感じた。シイナにはできた。自分が巻き込んでしまったシイナには。ミーシャの手を取り、シイナが看護師たちに頭を下げる。
「すいません。友達が」
「少し大人しくさせておいてください。次」
男が淡白に告げて、次の少女の適性検査に移る。ミーシャはテントから出て、シイナに引き連れられるがまま、とぼとぼと歩いた。テントが遠ざかってから、「ミーシャ」とシイナが顔を覗き込んで呼びかけた。
「大丈夫?」
シイナの顔が真正面から見られない。恐らく自分は負け犬の屈辱に塗れた顔をしているだろう。醜い感情をシイナにぶつけたくなかった。
「……どうして、あたしが」
「適性なんだよ。仕方ないって。戦わなくっていいんだから――」
「シイナは適性があるから!」
思わず大声でミーシャは遮った。シイナが押し黙る。ミーシャは言ってしまったことへの後悔と共に、小さく口にした。
「……だから、そんな風に余裕ぶって」
弱々しい声音にシイナは少しの間何も言わなかった。沈黙が二人の間に降り立つ。誓ったのは自分からなのに、これでは馬鹿みたいではないか。ミーシャが拳を握り締めると、シイナはその拳を柔らかく両手で包み込んだ。人のぬくもりが伝わり、強張らせていた筋肉を解きほぐす。
「ミーシャ。あんたは戦わなくっていいの。それってとても貴重なことなんだよ」
ミーシャは頭を振った。違う、と言いたい。しかし伝わらない。レッドフレームのことは誰にも言ってはならない。父親との約束だ。命を賭して自分を救ってくれた、父親との。
シイナは選ばれた。だからこそそんなことが言えるのだ。そう言いかけて、何て惨めなのだろうと自己嫌悪に苛まれる。自分が前を歩いていたつもりが、不意に追い抜かされたような敗北感。ミーシャは顔を伏せた。
「あたしにとって本当に貴重なのは、お父さんの仇を取れることだよ」
発した言葉の陰鬱さに思わずシイナは手を離した。ミーシャが暗い目を上げて、シイナを見やる。シイナは、「ゴメン」と目を伏せた。
「勝手だよね。あんたの痛みを分かった風な口利いて。わたしはあんたが言ってくれなきゃ、ここにいなかっただろうに」
シイナが一歩分、距離を置く。ミーシャは首を横に振った。そんなつもりで言ったのではなかった。しかし、取り消そうとしても放った言葉は宙を舞う。
「心配しないで」とシイナは両腕を掲げて明るく声を出した。
「あんたよりも運動神経いいし、多分うまくやれるから」
嫌味で言っているつもりではないのだろう。シイナはミーシャを遠ざけようとしているのだ。復讐という呪縛から。ヒーローにならなければならないという強迫観念から。決して義務感から声を発しているわけではないのだと伝えたかったが、うまく喉の奥で言葉にならなかった。
「あたしは、何としても青ずきん部隊に入る」
ミーシャが代わりに告げた言葉は自身の退路を消す言葉だった。シイナが明るく、「その必要ないって」と口にする。
「ミーシャは帰りを待っていてよ。わたしが行くから、その帰る場所を――」
「あたしが行くの!」
ミーシャは両手を拳に固めて叫んでいた。自分が行かなければならない。グランマを倒すことを既に宿命付けられているから。
しかし、そのような因縁はシイナには関係がない。むしろ、帰る場所を守って欲しいと言いたかったのはミーシャだ。シイナには今まで通りの生活をして欲しい。考えてから、それも一つのエゴだと感じる。
自分は火の中に身を投げ込み、誰よりも心配している親友の望みを断ち切る。傲慢だ、とミーシャは嫌気が差した。だが、そう言う以外に道はないような気がしていた。
「ミーシャ。あんた……」
シイナは一歩後ずさる。きっと軽蔑しただろう。ミーシャは自嘲の笑みを浮かべようとして果たせずに頬を引きつらせた。もうシイナは自分に関わってはくれないかもしれない。そう覚悟しての言葉だった。
シイナは奥歯を噛み締めて、「馬鹿!」と叫んでミーシャの頬を張った。乾いた音が残響する。叩かれたのは人生で二度目だった。
「あんたの身勝手で周りの人を心配させるんじゃないわよ! 駄々こねて! 子供みたいに。わたしたちはもう、自分の足で立つしかないんだよ。それくらい、ミーシャなら分かってると思ってた」
分かっている。しかし言えない。このもどかしさにミーシャは歯噛みした。
「一番大切なことならさ、分かっているじゃない。おばさんの傍にいてあげなよ。安心するよ、きっと。適性がなかったんなら、おばさんだってミーシャを迎え入れてくれる」
「あたしは戦うしかないの」
そう告げるしかシイナに伝える術はなかった。自分の運命をどう足掻いても全部伝えることができない。何よりも背負わせたくない。シイナや母親にだけは、レッドフレームであることを隠し通さねばならない。シイナはミーシャの強情さに腹が立ったのか、「そんな狭い括りだから!」と声を張り上げた。
「おばさんだって心配するんでしょ! 泣くんでしょ! 誰も泣かせたくないんならさ、あんたが傍にいてあげるだけでいいんだよ」
痛いほどに分かる。自分がどれほどに他人の心を踏み躙るような真似をしているのか。ミーシャとてシイナの立場ならそう言っているだろう。勝手に痛みを背負い込むな。誰かを泣かせるような生き方をするな、と。しかし、ミーシャには言えない理由がある。胸の前で拳を握り締め、「決めたの」と言葉を発する。
「グランマを倒すのはあたしだって。そのためなら、何だってする」
「何だって、って……」
シイナが後ずさる。その言葉に込められた覚悟にたじろいだのか。ミーシャは、「何だってする」ともう一度口にした。
「汚いことでも何でも」
「それはおばさんもわたしも望んでいない。きっと、天国のおじさんだって」
そうかもしれない。自分勝手な行動に理由をつけたくって、その挙句の我侭だろう。他人からしてみれば理解の範疇を超えている。
「でも、決めたことだから」
シイナはそれ以上言葉を重ねようとしなかった。何を言っても無駄だということが、この瞬間、決定的に分かってしまった。それは隔たりとして二人の間に存在した。
「……わたしは」
ようやく、という様子でシイナが言葉を発する。ミーシャは拳を固めて震わせるシイナの姿を見た。
「あんたを戦わせない。絶対に」
シイナが身を翻す。こちらもそう言いたかった。決してシイナを戦わせないと。しかし、約束はできない。自分の力がどれほどまで及ぶのか予想もつかない今では、誰かの身の安全まで背負い込むことなど。
「わたしに適性があったら、絶対にあんたを戦場には向かわせない」
シイナもそう言ってしまえば強情だった。自ら退路を断とうとしているのだ。それは自分だけでいい。そう言いたかったが、シイナは背中を向けて、「じゃあね」と顔を振り向けずに別れを告げた。
「……シイナ」
名前を呼ぶが、その時にはシイナは駆け出していた。自分の言葉など耳に入らないかのように。この隔たりが埋まる時は果たして来るのだろうか。どう足掻いても、シイナと自分の間で別たれた道は二度と元には戻らないような気がしていた。