第九話「喪失」
ミーシャは立ち尽くしていた。
降り出した雨が身体を濡らす。
胸元に手をやると、レンズは既になかった。
消えたのか、と思ったがそう都合のいい話ではないだろう。
ミーシャには分かる。
身体の内側へと入ったのだ。胸元を押さえながらミーシャはとぼとぼと歩き出した。先ほどの記憶はほとんどない。頭の中の声が導くがまま、無我夢中でグランマと戦った。酷く現実から遊離しているように思える。果たして事実なのか、それすら疑わしい。しかし、とミーシャは手に掴んだ血濡れの白衣の切れ端に視線を落とす。
「……お父さん」
父親は目の前で死んでしまった。
グランマに殺されたのだ。
切れ端を掴んだ拳を額に当てる。頬を熱い筋が流れた。
雨に熱を掻き消されないように、ミーシャは蹲って泣き続けた。しかし雨と違い、涙は涸れる。ミーシャは赤く腫れた瞼を上げて、空を仰いだ。青ずきん部隊の光が灰色の空を裂いて、一人がミーシャの下へと降り立った。
青ずきんはミーシャが思っていたよりも華奢な身体つきだった。ミーシャを見やり、周囲を見渡す。青ずきんはバイザーを解いた。黒髪をポニーテールにしている。見えた顔立ちは大人びていたが、声音はまだ少女の幼さを帯びている。
「この区画における生存者は?」
ミーシャは首を横に振った。「そうか」と残念そうに青ずきんが顔を伏せる。
「名前は言える? 生年月日は?」
ミーシャはしゃくり上げながら、ようやく声を発した。
「ミーシャ。ミーシャ・カーマインです。2250年、1月31日生まれ」
青ずきんは頷き、「大丈夫?」とミーシャの肩に手をやった。ミーシャは自分でも覚えず震えていた。
「大丈夫、です」
「そうは見えない。誰かと一緒じゃなかった?」
父親と研究室のメンバーの顔が脳裏に浮かび、ミーシャは目を瞑って頭を振った。その行動をどう感じたのか、青ずきんが、「……残念だった」と口にする。
「我々の行動が遅かったばかりに、申し訳ない」
青ずきんが頭を下げる。ミーシャは何か言おうとして憚られた。父親の最後の言葉が思い出される。
――決して、レッドフレームであることを知られてはならない。
まるで呪縛のようだった。ミーシャが声を詰まらせていると、青ずきんは察したのか、「何も言えない気持ちは分かる」とミーシャの肩を引き寄せて背中を撫でた。
「今は、せめて泣いておくといい。改めて思い出して泣くよりも、涸れるまで泣いたほうが」
青ずきんの言葉に宿る優しさにミーシャは声を上げて泣いた。涸れたと思っていた涙はとめどなく溢れる。喪失の痛みにミーシャは呻いた。降りしきる水滴は冷たく、慰撫してくれるというよりかは突き放す雨だった。
「あなた、は……?」
ミーシャは問いかけていた。青ずきんは答える。
「ウィペット。ウィペット・ガンス」
ウィペットはそう答えて、ミーシャの背中を何度か撫でた。咽び泣くミーシャを、まるで母親のようにウィペットは抱き締めた。
ウィペットはミーシャを保護し、シェルターへの避難を誘導した。
降り立ったのは確かに赤い光がその場に落ちたような気がしたからだが、それらしいものは感じ取れなかった。
代わりのようにミーシャという少女を拾い上げたのは偶然だったのか。ウィペットはミーシャに質問しようかと考えていたが、今はそれどころではないようだった。ウィペットも戦いでいくつも失ってきたから分かる。
ミーシャの目に浮かんでいるのは喪失の痛みだった。がらんどうの我が身を持て余し、自分の命すら投げ打ってしまいかねない自暴自棄の中にある。ウィペットはそのような状態の少女の心へと無遠慮な切れ込みを入れるほど無粋ではない。
赤い光の目撃情報は後で整理するとしよう。その結論付けて、ウィペットはシェルターまで歩く途中、ミーシャが声をかけてきた。喋れる状態だとは思えなかったので、ウィペットは少し面食らった。
「あの……」と控えめな声に、「何か?」と応じる。
「ウィペットさんは、青ずきん部隊なんですか」
民間の俗称だ。気に入らなかったが、ウィペットは頷いた。
「そう。このコロニーを守る任務についている」
口にしてから、結局守れなかったじゃないか、と歯噛みする。何もできないのは自分も同じだ。ミーシャは、「そう、ですか」と言ったきり黙ってしまった。沈黙が二人の間に降り立つ。繋いだ手だけがぬくもりを示している。ウィペットは前を向いたまま言葉を発した。
「生き残る気力を捨てるな」
自分でも驚くほどはっきりとした声音に驚きつつも、ミーシャへと語りかける。
「最悪の状況において、最悪の心象に浸って足を止めるのは簡単だ。だが、本当に勇気あるものならば、前を向き生き残る道を模索する。生き残った者にはその義務も存在する」
ウィペットが肩越しに視線を振り向けると、ミーシャは胸元を押さえていた。見ると、その部分だけ穴が開いている。どこかで引っかけて破いてしまったのだろう。あるいは胸に開いた空洞を確かめているのかもしれない。どちらにせよ、失ったものは推し量ることしかできない。思えば、それを度外視した台詞だったかもしれないとウィペットは反省した。
「すまない。偉そうなことを言ってしまった」
前を向け、というのは強者の理論だ。弱者は弱者なりに前を向こうと努力している。それを糾弾するのは誰にもできない。軍人だから、切り替えて言葉を発することができる。
「いえ」とミーシャは首を振った。自分の言葉の一端でも伝わっていれば幸いである。無理やり押し付けようという傲慢さはない。
シェルターの扉はロックが厳重にかかっていた。ブルーフレーム隊のアクセス権限で扉を開くと、中にいる人々が目を向けた。一様に暗い面持ちである。当然といえば当然だ。彼らからしてみればまるで天地が引っくり返ったかのような感覚だろう。グランマ襲来をまるで視野に入れていなかったコロニーでぬくぬくと育っていれば、突然のことに理解が追いつかないのも無理はない。
「シイナ」
ミーシャが人影の中の一人に気づいて声をかける。ショートボブの少女がミーシャへと駆け寄ってきた。どうやら顔見知りに出会えたようだ。少女の家族とミーシャの母親らしき女性が歩み出て、ミーシャを抱き締めた。自分の仕事はここまでである、とウィペットが身を翻そうとすると、背中に声がかかった。
「あの」とミーシャが控えめな声を出す。ウィペットは肩越しに視線を向ける。ミーシャは喪失の悲しみとは別の、何かしらの決心を固めた眼差しをウィペットに向けている。
「青ずきん部隊に、あたしも入れますか?」
ミーシャの言葉にシイナと呼ばれた少女が、「こんな時に何を」と制そうとする。ミーシャは一歩踏み出した。それが決意の一歩に見えた。
「入れますか? こんな、あたしでも」
どうやら一時的な混乱や錯乱で言っているわけではないことは眼を見れば分かった。決して揺るがぬ宝石のような光を宿した眼差しである。冗談や嘘で応じてはならない。元より誤魔化しなど通用しない透明度の高い瞳である。ウィペットは身体を振り向けて、その眼を見つめ返した。
「確定はしないし、褒められる場所でもない。人類防衛の最前線と言っても虚しいものだ。讃えられることはないし、死が特別に美化されるわけでもない。ただの現象として捉えられる。それでもいいのならば」
ウィペットが向けた眼差しに何を感じたのだろう。ミーシャは強く頷いた。
「入ります。必ず」
泣きじゃくっていた少女とは別の、何らかの義務感に駆られたような言葉の強さにウィペットは、「そうか」と返した。その言葉を潮にしてシェルターの扉へと歩いていく。これ以上言葉を交わせば強制になってしまいかねない。ここから先を決めるのはミーシャの自由だ。
ウィペットは扉から出て、バイザーをオンにした。駆け出して空間を蹴りつけて青い光を散らせる。まだそこらかしこで炎が燻っていた。通信へと声を吹き込む。
「ガンス小隊隊長、ウィペット・ガンス。これより避難誘導、及び消火活動に当たる」
まだ自分のすべきことは多い。ウィペットはそう断じて灰色の空を一筋の光となって駆け抜けた。