黒の足音
ズキンズキンと頭が痛み、込み上げてくるような吐き気に襲われる。
酷い痛みに呻きながら、ティアは寝返りをうった。
「──あれ……?」
不思議に思って小さく疑問を口にすると、ゆっくりと長い睫毛に縁取られた瞳を開いてみた。
ティアの視界に広がるのは自室のふかふかしたお気に入りのベッドである。
「おかしいな……。私は、確か王花祭の途中だったはず」
ティアは微睡む目を擦りながら身体を起こし、辺りを見渡した。
不思議と先ほど感じていたはずの頭痛はすっきり治まっている。
もしや、王花祭の儀式で飲んだ杯の中身に酒でも混ぜられていたのだろうか。
国民の前で酒に酔わされ、倒れてしまったなどとは大きな恥でしかない。
「こんにちは、お嬢さん」
ふと、ティアの背後から歌うように滑らかな男の声がする。
ここはティアの自室であり、シャルやロロならともかく、何の断りもなく入ってくることは許していなかった。
「──誰、あなたは」
咄嗟に振り替えると、そこには黒装束を身に纏った端正な顔立ちの男が一人。
シャルやロロとも違い、彼はどこか怪しげな美貌を備えていた。
男はティアの問い掛けにふと笑みを溢すと、さらりと流れる漆黒の髪を掻き上げる。
「ボクは夢の世界の住人、ナイトメアさ」
コツコツという靴音がティアに近付いてくる。
ティアは威嚇するようにじっと男を睨んだが、特に気にした様子でもなく彼は距離を詰めてきた。
ベッドにふわりと優雅に腰掛けると、ナイトメアはティアにそっと顔を近づけてくる。
「エルメランドの姫君はとても美しい……どうだい? ボクの城へいっしょに来ないかい?」
呼吸の音すら聞こえてしまいそうな距離で見つめられては、思わずうんと頷いてしまいそうになる。
とろけそうな密色の瞳はまるで猫
のようで、このまま見ていられると吸い込まれてしまいそうだとティアは息を飲んだ。
「……ヤだ」
振り絞るような声で呟くと、男は不思議そうな顔をした。
「どうしてだい? お嬢さんになら、ボクの城の一番いい部屋をあげるし、毎日退屈しないようにお菓子だって沢山焼いてあげるのに?」
焼き菓子についてはとても魅力的な申し出であったが、ティアが首を縦に振ることはなかった。
この城の菓子職人だって、毎日のようにまるで宝石箱につまった宝物のような美味しい菓子をティアのために腕を奮ってくれているのだ。
それに、もし自分がナイトメアに着いていって、エルメランドから居なくなったとしたら──。
ロロとは日課のような口喧嘩が出来なくなるし、シャルのお小言を聞けなくなるのもそれはそれで寂しい。
何よりティアを溺愛してくれている両親が悲しむかもしれない。
「私には大切な家族がいるんだ。あなたの所には行けない」
首を左右に振ってみせるティアにナイトメアは一瞬だけ不服そうな表情を浮かべるが、すぐに元の笑顔へと戻った。
骨張った手でぽんと軽くティアの頭を撫でると、何やら呪文のようなものを唱える。
「──やっぱり、ボクはどうしても君を手に入れたくなったよ。エルメランド王国のティアナ姫」
片方の目を瞑ってみせると、ナイトメアの姿が霞のようにすっと薄らいでいく。
驚きで声が出てこないティアに微笑みかけると、ナイトメアの姿は跡形もなくなっていた。
「あの人は……一体、なに……?」
魔法使いか何かだったのだろうか。
それにしては、おとぎ話に出てくるようなホウキにも乗っていなかったし、杖も持ってはいなかった。
未だに状況が上手く飲み込めないティアだったが、再び先ほどのような酷い頭痛に苛まれる。
ぐにゃりと視界が歪み、そのまま意識が黒い闇へと包まれていく。