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恋友達  作者: 青砥緑
8/13

8.

 木崎さんとの仲直りをきっかけに私は教育研究棟に通い詰めるようになった。二年生になって、とうとう荻野谷さんに会える授業がなくなってしまったので、そうでもしなければ彼の姿をちらりと見ることさえ難しい状況だった。以前に木崎さんが教えてくれたオープンスペースに課題を持ち込んで待ち伏せる。そこで窓際に座って廊下の方を見ていると廊下を通る人の顔が見えるのだ。同じ場所を隠れ家的に利用しているらしい木崎さんとはよく鉢合わせることになったけれど、他の人目が少ないことも好都合だった。


「またやってんのか。暗がりであいつが通るのを待ち伏せて、じっと見て黙って帰るって。それを世間でなんて言うか知ってるか、鶴田。ストーカー、ちょっと良く言ってもストーカー予備軍だ」

 もっと早く木崎さんが毒舌家だということを知っていれば、彼に平手打ちを食わせないで済んだかもしれないと思う。彼のものいいには常に遠慮がない。

「廊下側からはこっちにいる人間の顔なんて影になってろくに見えないからサブリミナル効果を狙っても無駄。お前のしていることはただの覗きだ」

 ぽいと何かを放られて振り返ると、手の中にパックジュースが飛び込んできた。黄色い箱のバナナ・オレ。衝撃的なまでに甘い飲み物を人に押し付けて木崎さんは私の隣に陣取る。そちらの手の中は普通のウーロン茶だ。

「何でいつも私だけイチゴ・オレとか、バナナ・オレなんですか」

「奢ってもらって文句言うな。お子様にお似合いだろ」

「子供じゃありません」

 言い返した声に思い切り力が籠っていて、まるでムキになった子供の反論だった。絶対に気が付いたはずなのに、木崎さんは敢えてそれを指摘しないで「はいはい」と受け流す。口ではこの人に勝てる気がしない。私は悔しくなってそっぽを向いた。

「あ」

 ちょうど顔を向けた先、廊下を荻野谷さんが歩いてくる。外出していたのか珍しくジャケット姿だ。水色のネクタイを外そうとして首を傾げている。斜めになった顔がこちらを向いた。

「荻野谷、おかえり。おつかれさん」

 木崎さんの声に導かれるように荻野谷さんの視線がはっきりと焦点を結んだ。

「ただいま」

 歩み寄りながら荻野谷さんは目を細めて笑う。私がずっと欲しがっている子供向けじゃない笑顔だ。真横にいる木崎さんに向かっていると分かっていても、自分に微笑みかけられたように感じてどきどきする。私はそっとバナナ・オレを鞄の影に隠した。

「今日はジャケット暑いだろ」

「でもクールビズは六月からってところもあるし」

 荻野谷さんと木崎さんは、ときどきなんてことない立ち話をする。その間、私は全身を耳にしたつもりで荻野谷さんの声に聞き入り、彼が浮かべる笑顔を抱きしめるように吸収した。

「じゃ、後で」

 こうやって二人が話す横に私がいると、荻野谷さんは去り際に私にも会釈をしてくれる。これだけが私に残された彼との交流だ。私も会釈を返して彼を見送った。お気に入りのカーディガンを着ている日で良かった。


「ふわあ」

 荻野谷さんの姿が見えなくなってから、ベンチに上半身を投げ出した。すかさず木崎さんの声が降ってくる。

「見つめるだけで昇天しちまってるみたいだな」

 私は彼の言葉の意味するところを半分も理解しないで頷いた。荻野谷さんの存在に触れれば、本当に天にも昇る心地がするのだ。その後に、それが絶対に自分のものにならないという絶望を伴うものではあるのだけれど。

「今晩、ちょっと飯でも行くか」

 まだ少し荻野谷さんの笑顔の余韻に酔ったまま顔を上げると、木崎さんは「たまには甘くないのがいいんだろ」と笑った。




 過去の教訓を生かして、あまり学生が選びそうにない、雰囲気の良い居酒屋に入った。平日の夜でもそれなりに混み合っていてカウンター席に通される。綺麗なお店のカウンターなど初めてで、改めて今日はお気に入りの服を着ていて良かったと思う。

「お前さあ、恋人いないのは知ってるけど、友達もいないの?」

 前回よりもハイペースで飲み始めた木崎さんは、やはり無遠慮に聞いてくる。

「いますよ、友達くらい」

「でも、ここんとこずっと研究棟の「水槽」にいるじゃん。一人ぼっちで」

「水槽?」

「お前がストーキングに使ってる研究棟のテラスだよ。ガラス張りで、四角くて、水槽みたいだろ?」

 ガラスの向こう、中庭側から見ればそう見えるかもしれない。魚の代わりに私達が泳いでいる巨大な水槽。

「あんなところにずっと一人でいて、友達がいますって言っても説得力ってもんがない」

「そこに一緒にいかないだけですよ。お昼とかは友達と食べてます」

 友達をあの場に連れて行こうと思ったら、荻野谷さんのことを説明しないとどうしても筋が通らない。勉強をする場所なら、他にもっと条件がいい場所がたくさんあるし、お友達とおしゃべりするにも「お静かに」という張り紙のある場所は相応しくない。でも荻野谷さんのことを話すわけにもいかない。そうなると、どうしても一人で行くしかなくなる。

「本音で相談できる友達は?」

 私が言い訳をしなくても、木崎さんは事情を察しているようだった。分かっているならもうちょっとオブラートに包むとか、歯に衣を着せて表現してほしい。

「それは、いないんじゃなくて、敢えてしてないんです」

 敢えて、と強調すると木崎さんは「ふん」と笑った。

「敢えて、ね」

 意図して話していないのは本当のことだ。誰かに打ち明けて、無責任に同情されたり簡単に諦めろと言われたりするのが嫌だから。

「木崎さんが相談に乗ってくれたっていいんですよ」

 彼の揶揄する調子を聞かなかったことにして私が言い返すと、木崎さんは真顔で首を傾げた。

「俺がお前に優しくしてやったとして、お前は俺に何を返してくれるつもりだ」

 自分が木崎さんに何かしてあげるなんて考えたこともなかったから、言葉に詰まった。

「俺はお前のお父さんじゃないだから、一方的に甘えさせてくれってのは図々しいと思わないか?」

 いつもは嫌がっても子供扱いを止めないくせに、と理不尽に思うけれど、「子供じゃないんだろ」と重ねられたら退けるわけがない。

「分かりました。じゃあ、何がいいですか?」

「何だろうなあ」

 木崎さんは私を見下ろして薄く笑った。含みがある笑顔だった。欲しいものが決まっているのだと思った。

 それは私自身なのではないかと思ったのは、単純でポジティブなただの閃きだった。しかし、その前提に立てば、数々の親切も、暴言もすっきり辻褄があう。私は、どうしても確かめなければならないと思った。もしもそうなら、こうやって並んでのんびり食事なんかしていてはいけない。返せない想いを受け取ることはできない。

「その前に、木崎さん。一つだけ確認させてください」

「あん?」

 その質問は、思ったよりもするりと口から滑り出た。

「私のこと、好きですか?」

 荻野谷さん相手でなければ私は随分と勇気ある率直な人間になれるようだ。しかし、木崎さんが真顔に戻ってまじまじと見つめてくると、急に恥ずかしくなった。耐えられなくなってグラスに逃げた。

「いや、違う」

 木崎さんの返事に顔を上げると、彼は苦笑いを浮かべていた。

「そういうんじゃないよ」

 彼の声が私の勘違いを嘲笑うものでなくてほっとした。自意識過剰をあげつらわれたら、また彼をひっぱたいて逃亡しなければいけなくなっていたかもしれない。それでもそわそわと落ち着かなくて深く考えずに次の質問をした。自分の馬鹿な質問を誤魔化すつもりの問いかけだった。

「好きな人はいます?」

 今度の質問には答えがなかった。ただ笑った顔が、あまりにも悲しくて彼も恋をしているのだと思った。私相手に無防備に悲しい笑顔をみせるくらいに辛い恋なのだと思った。だから私は言ったのだ。

「じゃあ、こうしましょ。木崎さんが私があの人のことで辛いのを慰めてくれるんだったら、私も木崎さんが辛いときには慰めてあげますよ。等価交換でいいでしょ?」

 名案だと一つ指を立てて見せた私の頭を、彼は指で思い切り突いた。

「お前は馬鹿だな。そして、そうとう嫌な奴だな」

 あんまりな言い様に文句を言ってやろうと振り返った先の木崎さんは、がっくりと俯いていた。曲がった首の後ろで頸椎が浮いている。骨の先に電灯の灯りが当たって白く光っていた。喉元まできていた文句は霧散して、私はそれをぼんやり見つめた。骨が目立つ背中が呼吸に合わせてゆっくりと揺れる。寂しい背中だと思った。

「ほんとにむかつく」

 力ない声に続いた長いため息は震えていた。

 それっきり、すっかり無口になった木崎さんと一緒に店を出ると、彼は当たり前のように私についてきた。どこまでついてくるのだろうと振り返ると木崎さんは口の片端を釣り上げて笑った。

「慰めてくれんだろ? もうちょっと付き合え。今日はやっこさん、結婚記念日なんだよ」

 そうか、やっと分かった。彼の想い人も既婚者なのか。だからこそ彼は荻野谷さんに横恋慕する私に同情して諦めろとうるさく言うのだろう。

 そういうことならば、と私は彼を追い返すのを止めて一緒に飲みなおすことにした。


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