7.
散ってしまった桜の花びらの上、街灯の光の下。大学のバス停で見慣れたシルエットを発見した。ひょろりとした猫背の立ち姿は、焼鳥屋に置き去りにした日以来避けていた木崎さんだ。後期の授業は残り僅かだったのをいいことに他の学生を間に挟んで誤魔化して春休みまで避け切ったけれど、他に並ぶ人のいないバス停では隠れることもできない。私は黙って少し離れたところに並んだ。振り返った木崎さんは暗がりに留まっている私を発見して「おっ」と声をあげてから話しかけてきた。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってます」
本格的に腹が立ち始めたのは、あの日、家に帰って一人になった後だった。無理にでも他の男に目を向ければ、そのまま荻野谷さんのことを忘れると思っているのだとしたら、私の想いを甘く見過ぎている。誰でもいいから付き合えとも聞こえる言い方は私を軽く見過ぎている。頭に血が上ってしまった理由を整理する度に、何度も苛立って意味不明な呻き声をあげることになった。あれは、あんまり失礼な言い草だった。今でも許していない。つんとして顔を逸らすと、横から小さく「ごめん」という声が降ってきた。横目で見やると、木崎さんはパーカーの襟に顎を埋めたままじっとこちらを見下ろしていた。
謝ったって一生許してやるものか。確かにそう思っていたはずなのに真顔で謝られてしまうと急に怒りがしぼんでしまう。
「許しません」
力の抜けた私の返事を聞いて木崎さんは眉尻を下げて小さく笑った。
「お前はお人よしだな」
ほどなくバスがやってきた。ライトに照らされた木崎さんの横顔にはもちろん漫画じみた紅葉マークはない。
「ひっぱたいて、ごめんなさい」
ぼそぼそと謝ると、木崎さんはわざとらしく頬を撫でた。
「いやあ、女の子に殴られたのは久しぶりだったなあ。学校の近くの店なんか行くんじゃなかったってすげえ後悔したよ」
そこでようやく私はこの人も教員で、荻野谷さんと同じように女子学生との問題を歓迎しないのだということを思い出した。うちの学生御用達の店の真ん中で平手打ちされた挙句に置いてけぼりを食らった木崎さんは、あの後一人で店に残って会計しなければならなかったのだ。恥ずかしかっただろうし、噂になればやりづらいこともあるだろう。
「誰かに、何か言われました?」
さすがにまずかったかとバスに乗り込む木崎さんの背中に問いかけると、彼はにやにや笑って振り返った。
「荻野谷に怒られた」
最悪だ。私はつり革にぶら下がるように項垂れた。木崎さんに降りかかる面倒事や不幸よりも、こちらの方を先に心配すべきだった。
「なんて言われたんですか?」
「別に普通のことだよ。本気なら付き合うことも仕方ないけど、本気だったら泣かせるような真似はするなとか」
誤解だ。よりによって荻野谷さんに誤解されるなんて。私はますます打ちひしがれて、つり革から手が滑り落ちた。折悪くバスが曲がり角に差し掛かり、思い切りよろけたところで木崎さんが腕を掴んで支えてくれた。ぐいと引き寄せられた距離が近すぎて、私は慌ててつり革につかまり直して身を離す。木崎さんは苦笑いして私を見下ろした。
「今のは不可抗力だろ」
分かってはいるけれど、タイミングが悪すぎる。何も言い返せなくて黙ったままバスに揺られる。荻野谷さんがどう思っているか心配でならない。木崎さんはちゃんとはっきり否定してくれただろうか。余計なことは言わなかっただろうか。
しばらくして隣でふき出す声がした。
「怖い顔し過ぎ。ガラス越しでもバスの中って道路からは良く見えるぞ」
はっとして窓ガラスに映る自分の顔を確かめる。にこっとしてみるとまた小さな笑い声が聞こえてきた。笑われたことには腹が立ったけれど、新鮮な怒りは長らく燻っていたべっとりとした恨みを追い出してくれて、私は密かにほっとした。私は人を恨むことに向いていない。怒り続けているだけで、とても疲れた。