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恋友達  作者: 青砥緑
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6.

 秋生の家庭教師は夏休み以降も続いている。私が木崎さんに平手打ちを食らわせた挙句に逃亡した翌日、本当は休みにしたくて仕方なかったけれど、こんなことで休んだらまるで子供だと歯を食いしばって秋生の家に向かった。


「今日はもうやだ、もう終わりにしようよ、先生」

 私が自分を叱咤して家を這い出てきたと言うのに、秋生はまったくやる気がなかった。何を言っても聞かずに屁理屈にもならない言葉で逃げ回る。普段は宥めたり脅したりと根気よく付き合うところだけど、その日ばかりは余裕がなかった。

「ほんとに嫌ならやらなくていい」

 自分で思ったよりずっと冷たい声が出た。甘えて駄々を捏ねていた秋生は驚いたようにこちらを見て、すぐに見たこともないほど激昂した。

「何その言い方。すっげえむかつく」

 これまで、秋生が何を言っても怖くなかった。文句を言ってもじゃれているようなものだと分かっていたからだ。でも、このときの秋生は本当に怒っていた。彼は笑みをすっかり消して、私を見据えた。

「じゃあ、やらない。先生、帰って」

 失敗したと分かっていた。ここで帰るふりをして、うまいこと戻って、彼に改めてお説教をできるほどに私は教師というものに熟達していない。ここで席を立てば、私は秋生のお母さんに「秋生と喧嘩して帰れと言われたので今日はもう帰ります」と報告しなければならなくなる。そうなったら、阿呆丸出しだ。

「帰らない。私の仕事は秋生の先生だから。秋生がまた気が向いて勉強したくなるまで待ってる」

 辛うじての言い訳だった。でも、怒った秋生は納得しなかった。

「帰れよ!」

 私がその場を動かないと見ると、秋生は立ち上がり、私の腕を掴んで引きずり出そうとした。そのとき、私は力で秋生に負けるつもりはなかった。身長は追いつかれたとはいえ、小学生だし、体つきもまだ華奢なものだ。互角くらいには渡り合えるつもりでいた。たぶん、秋生もそう思っていたと思う。二、三か月前、私は逃げる彼を捕まえて、強引に机の前まで引き立てた実績があったからだ。

 でも、私達の考えは間違っていた。

「帰れってば!」

 秋生が乱暴に私を引っ張ったとき、私は予想をはるかに超える力にバランスを失って派手に床に倒れた。足が絡まって椅子を倒し、腕をまともにつく余裕もなくて自分の腕で鳩尾を強打するという最高に間抜けな倒れ方をした。

 あまりの痛みに声も出ず、私は蹲って咽た。呼吸が乱れて涙が出た。あまり派手に転んだので、大きな音がしたのだろう、階下からお母さんの声がした。私は床に寝ころんだまま、秋生を見上げたが、彼は真白い顔をして目を見開いたまま言葉もでないようだった。私が何と体を起こして立ち上がったところで、お母さんが扉を開けた。

「大きな音がしたけど、大丈夫?」

 声をかけながら部屋に入るなり、彼女は今が大丈夫ではないことを見抜いたようだった。秋生は、まだ全く自分を取り繕えていなかったし、私の目には涙が残っていた。そして椅子は部屋の真ん中に倒れたままだ。

「秋生!」

 そのときのお母さんの声は恐ろしいものだった。秋生はびくりと震えて、縋るように私を見た。私達の間にはもう先ほどまでの苛立ちはなかった。それよりも、目の前であらゆる恐ろしい出来事の可能性を考え、案じ、同じだけ怒っているお母さんの誤解を解くことが二人にとって大事なことだった。

「大きな音を立ててすみません。私が転んだんです」

 お母さんの目はまっすぐに私を捉えた。どんな嘘偽りも見逃さないという強い瞳だった。

「どうして? 先生が部屋の中で転ぶようなことがありました?」

 私は一度、秋生を振り返った。秋生はまだ激しく混乱しているように見えた。私がしっかりしなくてはこの場は収まらない。

「喧嘩をしたんです。私の言い方が良くなくて、秋生くんを怒らせてしまって、それで、今日はもう帰ってほしいって。軽く、引っ張るつもりだったのよね?」

 秋生は壊れたおもちゃみたいにぎこちなく頷いた。

「でも、私がよろけてそのままバタンと派手に転んでしまったものですから、驚かせてしまいました。秋生くんも、お母さんも」

「本当なの? 秋生」

 お母さんは怖い顔のまま秋生の前までいって両肩を掴んで彼の顔を覗き込んだ。母親に触れられた瞬間、秋生がびくりと震えた。お母さんの表情はますます硬くなる。

「先生、申し訳ないけど、今日はここまでにしてもらえますか。この子と少し、話をします」

 私の方を見ないまま、お母さんがそう言った。私もそうするべきだと思ったので従った。

「本当に申し訳ありませんでした」

 私はお母さんにも秋生にも何度も頭を下げて、妹尾家を出た。歩き出してすぐに涙が止まらなくなって、真冬の夜道を二駅も歩いて帰る羽目になった。

 何もかも、ちっとも上手く行かない。




 秋生の件は、彼の両親や派遣会社を含めた協議の末に、軽微な事故という扱いになり特に担当の変更もされなかった。お母さんからは、何度も謝られた。秋生の父親も交えて時間をかけて話し合い、起きた出来事は私が説明した通りであることを確認したそうだ。

 翌週、授業を始める前に私は秋生に改めて謝ったけれど、秋生は私よりも小さくなって謝ってきた。見たこともないほどしょぼくれていた。

「先生が、吹っ飛ぶなんて思わなかったんだ」

 飛んだ覚えはないが、秋生にはそう感じられたのだろう。彼は私を床に引きずり倒したのではなく、吹っ飛ばしたのだ。それはほんの少しだけ救われる発見だった。


 秋生は最近ペン回しに嵌っている。勉強するためにペンを取り出すとそのまま延々とペンを回し始めるのでちっとも勉強が進まない。パタン、パタンとペンがノートに落ちる音ばかりが続く。

「ねえ、宿題くらいやりなよ」

 生意気な小学生はわざとらしく鼻歌を歌いだした。

「ペン回しても、宿題終わんないよ。中学生になれないよ」

 ぴっと指を出してペンを弾いてやると、秋生はようやくむっとした顔をこちらに向けた。そのままペンを取りあげて代わりに教科書をめくってやる。宿題がどこかは知らなくても、現在履修中の単元くらいは知っている。

「わあったよ。違う、違う。宿題はワークの方」

 私が開いた教科書を脇に避けると、秋生は四色刷りのワークブックを開いて、ここからここまで、と宿題の範囲を示す。

「ふうん。ちょっとじゃない。すぐ終わるわよ」

「他人事だと思って」

「秋生ならできるって意味よ」

 言いくるめられた秋生が黙って宿題を始めたので、私は手持無沙汰になった。

 待っている間、秋生のボールペンをくるくる回した。四本の指を辿って、ペンはぴたりとあるべき場所に戻る。そういえばこれは、もともと私の癖だった。なんだ、秋生もかわいいところがある。真似をしていたのか。

「先生がペン回しても、宿題終わんないんだけど」

「秋生がペンを回してたら宿題は絶対に終わらないけど、私がペンを回していてもあんたは宿題できるでしょ」

 秋生はまたぶすっと黙ってワークブックに向かい直した。


 授業が終わると帰り支度をする私の脇で、秋生は立ち上がって机の上から携帯と、もしかするとそれが彼の全財産である小銭入れをとってポケットに突っ込んだ。頭を乱暴に手ぐしで整えながら部屋を出ていく。大通りのコンビニや、レンタルビデオショップに行くためだ。でも、たぶんそれが口実に過ぎないと言うのは私も、秋生のお母さんも知っていた。この習慣はあの事件の後ではじまったもので、彼は住宅街から大通りに出るまで人通りの少ない道を歩く私を送ってくれているつもりなのだ。冷たい雨が降る日でも、文句を言いながら秋生は必ず私と一緒に家を出た。私が恋にまごついている間にも、少年は着実に青年へと成長している。


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