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恋友達  作者: 青砥緑
5/13

5.

 荻野谷さんが既婚者であり、彼が妻を愛している以上、私は彼を諦めるしかない。頭では重々承知していても、気持ちはそうあっさりと切り替えられるものじゃない。荻野谷さんに会える授業では相変わらず彼の姿ばかり見ていたし、廊下や、バスのロータリーで真っ直ぐに伸びた背中をみると、それが荻野谷さんではないかと目が追った。ごく稀に、それが本当に荻野谷さんだったときに彼が一人なら安堵したし、女子学生と並んでいようものなら嫉妬した。しかし、その女の横顔に穴をあけてやらんばかりに睨むことはできても、彼らの間に割り込むことは一度もできなかった。何も知らなかったときでさえ勇気が出なかったところに、彼が結婚しているという事実と、「誤解する」という言葉の重い楔が加えられたのだ。私は全く身動きもできなかった。

 挨拶以外の会話ができたのは一度だけ。コーヒーを被った次の授業の前に、荻野谷さんから声をかけてもらったときだけだった。

「鶴田さん。先週の、本当に大丈夫だった? 本人に言いにくいことがあれば、僕が聞くけど」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 千載一遇の機会をふいにしたやりとりは、何度思い出しても自分の機転の利かなさに腹が立つ。おかげで私と彼の関係には何の進展もない。前に進めず、後ろに退けず。次の一歩を踏み出すべき方向さえ決められず。私が足踏みを続けている間に冬期休暇も終わってしまった。


 いつも授業の後、帰り支度を終えて廊下へ出ると木崎さんに呼び止められた。「ちょっと話があるから、一杯付き合え」と言われてしまえば、弱みを握られている身としては逆らえない。私はわざわざ木崎さんの仕事が終わるのを待って、学校の近くの安い焼鳥屋に向かった。

 料理が出てくるのも待たずに切り出された話は予想通り荻野谷さんのことだった。

「お前、なかなか諦めが悪いな」

 私が諦められていないことまでしっかり見抜かれている。こうなると呼び出しの目的は分かったも同然だ。

「もしかして、これまでも荻野谷さんの周りの女の子追っ払ってきたんですか?」

 私はウーロン茶とウーロンハイを間違えないように自分のグラスを慎重に見極めてから彼を見上げた。

「わざわざ俺が追い払わないでも、あいつは浮気なんかしないよ。ちょっと年上の男に憧れた女の子も、あいつの愛妻家ぶりに呆れてすぐにいなくなる」

 木崎さんの言葉に私は首を傾げた。それなら私を呼び出しているのは何のためだというのだろう。

「お前に忠告するのはあいつのためじゃない。お前のためだ。感謝しろよ」

 質問するより前に回答を寄越した木崎さんはぞんざいな口調で謝意を要求してきた。確かに彼に感謝すべきことは多々あるとはいえ、諦めろと言われたことに素直に礼を言う気にはなれなかった。

「あのな、あいつが結婚してるのは俺のせいじゃない。恨みがましい顔するならあいつにしてくれ」

「できるわけないじゃないですか。嫌われちゃう」

「その分、俺を睨むのはどういう理屈だ。つうか、嫌われたらいいじゃねえか。いい加減に諦めろよ。あんな既婚の三十男、未練がましく追いかけなくても他があるだろ、他が」

 その言葉は腹の真ん中あたりに深々と突き刺さった。そんなことは言われなくても知っている。ちゃんと祝福されて両想いになれる恋愛ができるならきっとその方が良いのだろう。だからと言って、簡単に自分の想いを捨てて楽な方に舵を切ることはできないのだ。

 私は生まれて初めて「飲まなきゃやってられない」気分になって手近にあった木崎さんのウーロンハイを強奪した。

「おい」

「うるさい」

 思い切り顰め面してから顔を背けると、それ以上木崎さんが止めないのをいいことに、私は思ったより苦いその飲み物をなんとか飲み干した。喉から胃へ、指先へ、じわじわと熱が行き渡っていく。熱は力になって、戦え、と私を駆り立てた。

「簡単に他があるなんて言わないでください」

 くるりと振り返って木崎さんの顔を見上げると、彼は正面から私の目を見つめ返した。目が暗く翳って、問い詰めるように私を見ている。私は身を乗り出して挑戦に応えた。

「木崎さんだったら諦められます? 好きな人が、結婚できない相手だってだけで諦められます?」

「だけってお前、結構な大ごとだぞ」

「あの人の奥さんが、あの人のことを好きだっていう気持ちと、私があの人のことを好きだっていう気持ちに、なんの違いがあるの? どうしてあっちは良くて、こっちは悪いの?」

 一度口に出したら、止まらなくなった。

「どうして諦めなきゃならないの? どうして好きでいたらいけないの? 私だって本気なのに。出会うのが、少し遅かっただけなのに」

 我先にとせりあがってくる感情に喉が詰まって、声が掠れた。荻野谷さんが結婚していると知ってからずっと問い続けてきた。ずっと答えが見つからなかった。だからずっと諦められないでいる。

「だからさ、俺はあいつのために忠告したんじゃないって。お前のためだよ」

 前のめりになった私の頭を指先で押して、元の場所まで戻しながら木崎さんが言う。

「そのままじゃ辛いだろ。諦めろって言われ続けるのは」

 口調はずっと穏やかになったけれど、木崎さんの言葉はやっぱり遠慮なしに私の心の中に入り込んで、怒りの中に隠れていた不安を暴きだした。

 人を好きになるのはいいことのはずなのに、荻野谷さんを想えば想うほど自分が許されない間違いを犯しているように思えてしまう。好きになればなるほど、荻野谷さんを不幸に近づけているように思ってしまう。

「早く手を放しちまえよ。我慢しないでいい相手にしておいた方がいいって」

 悪魔の囁きに飛びついてしまいたくなった。悪魔は更に続ける。

「どうしても、あいつじゃないと駄目か? 手近な大人に憧れてるだけじゃないって言いきれるか?」

「違います」

 しかし、問いかけられれば否定の言葉が反射のように口から出た。

「じゃあ、お前。あいつの何がそんなにいいんだ?」

 その言葉の裏側には荻野谷さんのことを何も知らないだろうという意味が潜んでいる。寂しいけれどその通りだ。私と荻野谷さんの間には特別なドラマなんて何もない。昔の約束も、偶然の再会も。勝手な一目惚れの他には何もない。

「まっすぐに伸びた背筋とか、静かな気配とか、優しい笑顔とか、穏やかな口調とか」

 私は彼の姿を思い起こして私を惹きつけるものを指折り数え上げた。数少ない私の恋の証拠たち。

「見た目ばっかりだな」

 それが真実だったから余計に腹が立った。

「それじゃ駄目なんですか? 何でも知ってなきゃ、好きになったらいけないんですか?」

 喧嘩腰で言い返すと、木崎さんは機嫌を損ねた様子でもなく私を見返した。

「知りたいと思わないの? 見てるだけで満足してんの?」

「満足してるかどうかじゃなくて、これで満足しなきゃいけないんでしょう?」

 彼はなおも私を見つめて思案顔をしていたけれど、しばらくして突然「ああ」と納得したような声を出した。勢いよく椅子の背もたれに寄りかかって右手の人差し指で私を指す。

「お前、あれだろ。誰かと付き合ったことないだろ。一度でも男を手に入れたことがないから、そうやって無欲でいられんだよ。でもなきゃ、そんなお行儀よく我慢できるはずねえわ」

 口ごもる私に向かって、彼は提案した。

「鶴田さあ、悪いことは言わないから、いっぺん他の男と付き合ってみれば? そしたら、今やってることがどのくらい不毛かよく分かるよ」

 他の誰かと付き合うという言葉が意味を持って理解されるのと、ほとんど同時に右手にべたついた人の肌の感触を感じた。木崎さんは頬に手を当てて「地味にいてえ」と呟いている。ああ、そうか。私がこの人をひっぱたいたんだ。数瞬、バラバラになっていた感覚と思考が急速にまとまっていく。

「馬鹿にしないで」

 私のことも、私の恋も。それだけ言い返すと、食べかけの料理を全部放り出して店を出た。木崎さんは追いかけてこなかった。


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