4.
俯いたままの私を連れて木崎さんが向かった先は、こともあろうに教授の部屋がある教育研究棟だった。そこは荻野谷さんを含む助教や大学院生が年中出入りする場所で私はぞっとした。研究室なんかで話していては誰に聞かれるか分からない。じわりじわりと足が遅くなった。
「こっち」
しかし、木崎さんが指で示したのは研究室が並ぶ上階に続く階段ではなかった。彼について廊下の脇にある腰ほどの高さの壁の裏側へ回り込む。ゴミ箱でもあるのかと思っていた場所は、床が廊下から更に三段ほど下がっていて廊下を行き来する人の視界から隠された休憩所になっていた。狭い教室ほどのその空間をぐるりと取り囲むようにベンチが置かれている。口の字型の建物の中庭に向かった一辺が全てガラス張りになっているというのに日あたりが悪く薄暗かった。
「ここなら滅多に人が来ないから。座って、ちょっと待ってて」
彼は壁際のベンチを指して私を座らせると足早に立ち去った。私は歩きながらでは拭いきれなかったコーヒーをふき取るために、髪の毛や首筋を何度も拭った。服の中に入ってしまった分はもたもたしている間にシャツが吸ってしまったようだ。
木崎さんはどこからかウェットティッシュを調達してきた。薬品の匂いのするティッシュで、べたついていた手や首を拭う。頭の中は、まだふわふわと落ち着かなかったけれど、彼が次に何か決定的なことを言うと分かっていた。それから逃れたいのに、私は話を逸らすことも、立ち去ることもできないということも、分かっていた。ただその瞬間を先延ばしにするために、私は執拗に十本の指を拭い続けた。
手にしていたティッシュがぼろぼろに千切れて、もう手を拭うこともできなくなって顔を上げれば、木崎さんとぴたりと目が合った。人に頭からコーヒーをかけた罪悪感とは無縁の、静かで、憐れみを込めた視線がぐんと胸の奥まで入り込んでくる。それだけで、息が苦しくなった。
「知らなかったんだろ? 荻野谷が結婚してるって」
彼は全て知っているかのようにそう言った。そして、私の返事を待つことなく先へ進む。
「なくしそうだからって普段は指輪つけないんだよ。でも、結婚してるのは嘘じゃない。荻野谷の嫁さん、あいつに稼ぎが無くても、生活が不安定でも自分が稼ぐからいいって言ってくれる頼もしい女で、荻野谷はべた惚れ。実際、そんな気風のいい女なかなかいない。大事にしなけりゃ罰が当たる」
そういうわけだから変に欲をかいて彼との間に波風を立てるような真似をするな、という意味なのはすぐに分かった。男性の教職員と女子学生の関係は特に注意を払わなければいけない。私が付きまとえば、荻野谷さんは不利益を被るのだ。不倫ならば尚のこと。
私はハンカチとウェットティッシュを握ったままの手で作った拳を目にあてて、ぼろぼろ泣いた。両手にこもった力が抜けずに、握りこんだ親指の爪が痛んだ。
この恋があるべきではないものだなんて、考えたこともなかった。あってはいけない恋ならば、最初から発生しないように世界が上手にできていればいいのに。世界の不備のお蔭で、私は挑むよりも前に、恋を否定される羽目になった。
私に悲しみは無かった。その代り激しくやり場のない怒りが腹の底でうねっていた。
何分泣いていたのか、ようやく涙が止まって呼吸を鎮めている最中に誰かが声をかけてきた。
「ここにいたのか、電話したのに。もう四限終わったぞ」
その声に私はびくりと跳ねた。現れたのは荻野谷さんで、近づいて私と木崎さんを見比べると眉を寄せた。私がさっきまで泣いていたのは薄暗いその場所でも明らかだっただろう。見られたら全てを知られてしまう気がして、思わず顔を伏せた。
「お前、鶴田さんに何したの」
尖った声音に、泣き疲れた体の内側が鈍く震えた。その瞬間、私はヒーローに守られるヒロインだった。
「お前も見ただろ。うっかり蹴っ躓いて頭からコーヒーぶっかけたから、謝ってたとこだよ」
木崎さんの声は荻野谷さんに劣らず硬く、彼の介入を拒む。そっと顔を上げると荻野谷さんは私に視線を向けて本当に大丈夫なのか問いかけてきた。
大丈夫じゃない。ちっとも大丈夫じゃない。助けて欲しい。あなたにしか私を助けられない。他の誰でもなく、あなたでなければ。
すべて、心の中にあった言葉はその場所で崩れ落ちた。私は、ヒロインでない。
「大丈夫です」
他に何と言えただろう。私は確かめるように注がれる視線に耐えられずに俯いた。あれほど望んだ荻野谷さんの視線だというのに、今は早くそれから逃れたいとしか思えなかった。惨めな私を見て欲しかったわけじゃない。
「木崎。せめて、もうちょっと明るいところで話しなよ。知らない人が見たら誤解する。」
小さなため息の後、諦めたらしい荻野谷さんの口調からは女子学生とこみ入った関係に見られることを彼も警戒していることが明らかだった。私がもう何か月も宝物のように抱いていたものは、彼にとっては無価値で厄介なもの。まるで降りかかる災難だ。
私は荻野谷さんの足音が十分遠くに去ったところで我慢の限界に達して、また泣いた。こんなの失恋じゃない。そんな綺麗なものじゃない。
今度は怒りすら残らなかった。
二度目に涙が枯れた後で、ようやく木崎さんに声をかけた。
「どうして、私にコーヒーなんかかけたんですか?」
鼻声で掠れて酷い声だったのに、携帯から顔を上げた彼は痛ましい顔をするでもなく、当たり前みたいに答えた。
「お前が泣いてたから。あの場でばれたら面倒くさいことになっただろ」
それはもちろん、そうだっただろう。荻野谷さんにも教室中の全ての学生にも私の片思いが一斉に知れ渡ってしまうと想像しただけでぞっとする。嫌な想像を止めるために、染みにがついてしまったお気に入りのシャツを見下ろした。これが私を救ってくれた。でも、やっぱりコーヒーまみれは格好悪い。思わずため息をつくと、他に良い方法が思いつかなかったと彼はしらっとして付け加えた。クリーニング代くらい出すよというのを、首を振って断った。何にしても、もうこの服を着る気にはならない。
「どうして気づいたんですか」
虚ろに壁に背をもたれて問いかけると、木崎さんは小さく笑った。
「泣いてたことの方? それとも荻野谷のこと?」
「両方です」
今更、隠し様がない。隠す力も残っていない。すべて認めると、彼は薄い笑いを留めたままで答えた。学生の中で、私だけが荻野谷さんを呆れるほどに真剣に見つめていて、それは傍目にも明らかな慕情だったのだと。だから彼はあのとき、咄嗟に振り返って俯いたきり固まってしまった私を見つけられたのだ。
「あんなの。気づかない方がどうにかしてる」
私はその言葉の意味を深読みするのを意識してやめた。もしも荻野谷さんも最初から全て気づいていたのだとすれば、私の道化ぶりは救いようがなくなってしまう。