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恋友達  作者: 青砥緑
3/13

3.

 九月下旬。彼を連れてくる教授の授業の第一回を緊張して迎えた。前期に比べて教室の大きさが小さくなっている。もう助教の手を必要とするほどの規模ではないだろうか。あの人は来ないだろうか。不安はべしょりと湿ったタオルのように頼りなく、それを握りしめる私に纏わりつく。

 教室に入った途端、何かが軽快に体の内側を駆けあがっていく感触がした。夏の間中、思い描いていた人がそこにいた。

 前から三列目あたりの席を目指しながら、私は勇気を振り絞った。近づいてくる人の気配に彼が顔を上げる。一瞬に足りるかどうか、彼が自分に質問にきた学生かどうか相手を見極めている間が勝負だ。

「こんにちは」

 媚びを売っていると思われないように、落ち着いて、自然に。当たり前の挨拶に心臓が痛むほど緊張した。

 荻野谷さんは私の目を見てにっこり笑った。

「こんにちは」

 体中の血が顔に向かっていく気がして、私は慌てて俯いて席に着いた。何も書かれていないノートに視線を落としながら彼の笑顔と声を反芻する。やっと一言、口をきくことができた。彼の目に私を映すことができた。心臓は、耳の真横にやってきているのではないかと思うほど大きな音で打ち続けていた。

 呼吸も鼓動も平常運転に戻ったところで、私はようやく顔をあげて彼の姿を斜め後ろから見つめた。窓の向こうの銀杏の緑は褪せ初めているけれど、荻野谷さんは何も変わっていない。まっすぐな顎の線。凛とした横顔。

 私の見つめる前で、シャツから覗く彼の頸の筋が浮き出した。斜め上に向かって逸らされる荻野谷さんの視線を追えば、そこに見慣れない男性の姿があった。がりがりに痩せて、目つきの悪い男。軽く手を挙げて挨拶を交わす様子から、彼があちら側の人間だと分かった。そのまま、男は荻野谷さんの隣に座る。

「準備任せちゃって悪かったな」


 以来、教室に入って席に着くまでに荻野谷さんと目があったら「こんにちは」、去り際には「失礼します」の挨拶を繰り返した。それでも、どうしてもその次の一言に繋げることはできなかった。会話に詰まったり、つまらないことを言ったりすることが怖かった。普通の十八歳と思われるのでは物足りない。でも、背伸びした十八歳だなんて思われるのは、もっと嫌だった。私はただ、毎週木曜日は念入りにおしゃれをして学校に通った。


 講義中、私は荻野谷さんに夢中だったので、教授を含めた教室にいる他の人のことにはほとんど注意を払っていなかった。それでも、覚えた人がいる。それが木崎さんだった。木崎さんは学生ではない。荻野谷さんと同じく辛うじて教職員側に籍を置く人だ。彼はときどき講義についてきて、やってくると必ず荻野谷さんの隣に座った。二人は仲が良いようで、講義の最中に時おり顔を寄せるようにして何か囁いて笑っていた。そのときの荻野谷さんの笑顔は、学生に向ける大人の顔ではなかったので、初めて見たときにどきりとして、すぐに木崎さんを嫉妬の対象としてはっきりと認識した。私が挨拶の度に返してほしいのは木崎さんだけが受け取っている、あの笑顔だ。無防備に心を許した、あの顔だ。


 やがて授業はグループに分かれての作業が主体になった。二人の助教と教授が分担して各グループの面倒を見る。授業形式がグループワーク主体となってから、教員と学生の距離はぐっと近くなった。三十路そこそこの二人の男性は、女子学生たちの罪のない噂の対象にもって来いで、授業の後には暇つぶしのように荻野谷さんと木崎さんについての論評が行われた。

「荻野谷さんはジェントルマンって感じ。清潔感があるし、とにかく優しいよね。あの困っちゃったな、みたいな笑顔はおじさんだと思ってもちょっときゅんとする」

「おじさんって、あの人、まだ三十歳くらいじゃなかった?」

「そうだっけ? でも雰囲気がさ。もう落ち着いちゃってんだもん。ぎらついてないっつーか」

「言えてる。それ言ったら木崎さんなんかもっとそうじゃない? 顔は悪くないけど枯れてる感じ」

「枯れてるっていうか、おじいさん? あの人、痩せすぎだし」

「分かるー! 今日なんて見た? Tシャツの背中に背骨がぼこぼこ浮いてたよ」

 私はそれを一つも聞き漏らさないように丁寧に時間をかけて帰り支度をして、興味のないふりをして教室を出る。

 私の方が先に気づいたのに。私はずっと前から好きだったのに。階段を下りながら苛立ちを紛らわすようにイヤホンを耳に突っ込んで音楽をかけた。私のグループの担当は残念なことに木崎さんで、私には相変わらず荻野谷さんに話しかけるチャンスがない。困ったなあなんて顔をして笑わせることもできない。

 音楽のボリュームを上げて、足早に歩いた。

 みんな、本当はがちゃがちゃして自己顕示欲丸出しの男の子達が好きなくせに。遊びのように荻野谷さんを品定めしないで。彼を見ないで。

 悔しい。悔しい。あの人は、私のものよ。


 私は自分の独占欲が不当なものだと知っていたので、声高に他の学生を牽制するようなことはしなかった。遠まわしに「無責任な噂はやめなさいな」なんて優等生ぶったことを言って痛々しい女を演じることもなかった。そして、相変らず二人は学生の便利な話のネタであり続けた。

 ある日、半ば自習となっていた作業の途中でディスカッションよりも雑談に興味の向いた女子学生から決定的な質問が出た。

「荻野谷さんって、彼女いるんですか?」

 それはこれまでに尋ねられていなかったのが不思議なほど、ありがちな質問だった。しかし、私にとってはとんでもなく重要な質問だった。自分のグループで資料を回し読みしていた私は顔を俯けたまま、思い切り耳をそばだてた。彼の左手に指輪がないことは知っていたけれど、それ以外のことを私はほとんど知らないままだった。

 合格発表の日のように緊張し、資料の文字の上を視線が滑っていく。返事はそれほど間をおかずに返された。

「恋人はいないけど、妻がいます」

 学生たちから意味のない歓声が上がった。私は思わず手に力が入って皺を作ってしまったプリントを慌てて伸ばした。無心にその作業を続けながら、耳に入った言葉の意味を何度も、何度も反芻する。

 なんてことだろう。あの人は、最初から他の誰かのものだった。この思いは成就した瞬間に不倫になる望まれない恋だ。私の恋は最初から敗戦決定の、横恋慕だったのだ。

 もう私の目は文字など一つも追ってはおらず、指は執拗に折れた紙の皺をこすっていた。目に映るものがだんだんぼやけていく。耳に触れる音が意味を失っていく。


 目の前に茶色い何が飛び込んできたのは、その時だった。コーヒーの香りを認識したのと、何かぬるいものが首筋を滑り落ちていくのを感じたのが、ほとんど同時だった。

「あ、やべ」

 頭の上で零れた声は、木崎さんのものだった。

「鶴田、ごめん。大丈夫か?」

 驚きのあまり、直前まで心を占めていたものが何だったか一瞬忘れた。ただ目の端で、口の開いたコーヒーのボトルが机に置かれるのを見て、彼が私の頭の上でそれをひっくり返したらしいと考える。周りの学生も私の惨状に気づいて話題は荻野谷さんからあっという間に離れた。木崎さんへのブーイングと、私を気遣う声がざわざわと波のように広がり、押し寄せる。硬直したままの私にハンカチを差し出して囁いた木崎さんの声だけがはっきりと聞こえた。

「そのままでいいから、とりあえず、顔拭きな」

 その声で脳は正常な活動を再開し、私は自分がどうして俯いていたのか思い出した。そして同時に、これは故意かもしれないと思った。俯いたままでいるのも、コーヒーの被害を広げないためと思えば不自然じゃない。今なら洗面所に駆けこんで顔を洗っても、服が汚れたからとそのまま帰っても、誰も疑わない。木崎さんのハンカチで、私は真っ先に涙を拭った。きちんとアイロンのかかったハンカチからは沈香の香りがした。

「先生、すいません。ちょっと、抜けます」

 木崎さんの声がして、彼は私の腕を支えるように立ち上がらせた。

「そのまま俯いてた方がいい」

 彼の声はやはり低く抑えられていて、私は確信を深めた。彼は私が顔を上げたくない理由に気づいている。羞恥で余計に顔を上げられなくなった。


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