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恋友達  作者: 青砥緑
2/13

2.

 私は自分の不甲斐なさに大変落ち込んだ。しかし、一目惚れの恋の行方を悲観して人間らしい生活を放棄するほど恋に溺れていたわけでもなかった。キャンパスライフを充実させる要素は恋愛だけではない。幸い東京では大学生のためのアルバイトの選択肢は広い。私は短時間で実入りの良い仕事、という触れ込みに惹かれて派遣会社に登録し、家庭教師を始めた。


 最初の生徒は小学六年生の妹尾(せのお)秋生(あきお)という少年だった。綺麗な一戸建てを派遣会社の担当者と並んで初めて訪問したとき、暑さのせいだけでなく手のひらに汗が滲んだ。自分が人見知りする性質であることは知っていたけれど、相手が小学生でも同じように緊張とするということは、この時に初めて知った。

「この子ときたら、もう、糸の切れた凧みたいに遊んでばっかりで。こんなんで中学に入ったらすぐに落ちこぼれてしまうんじゃないかって心配してるんですよ」

 秋生のお母さんはおおらかな雰囲気の明るい人で、いわゆるモンスターペアレントに化けそうなタイプではなかった。秋生は私立中学を受験する気はなく、地元の公立学校へ行くから受験対策も不要と言われた。一定の時間、机に向かう習慣づけをさせるために家庭教師の時間というイベントを設けることが最大の目的。難易度が低いから新人に回された物件なのかもしれなかった。

「秋生くん、好きな科目は何ですか」

 大人たちの脇で忙しなくよそ見していた少年に同行していた派遣会社の男性社員が声をかけると、彼はくるりと振り返った。まだ子供らしい線の細さが目立つ、正真正銘の少年だ。

「勉強は好きじゃない」

「こら、秋生」

 間髪入れずにお母さんが声をあげたものの、男性社員はこんな子供は慣れたもののようで「そうか、そうか」と笑っていた。

「外で遊ぶ方が好き? それともゲームかな?」

 彼の質問に、秋生は少し眉を寄せた。質問者に向けられた視線は疑わし気で、見知らぬ大人が自分のご機嫌取りをしているのではないかと疑っている。私は、彼は正しく少年なのだと思った。幼児のように無邪気ではなく、青年のように器用でもない。

「別に」

「もう、すみません。お友達と外に出たら暗くなるまで帰って来ないし、かと思うと、ゲームを始めたら私か父親が止めるまで絶対やめませんから、どっちも大好きなんだと思うんですけど」

「絶対ってことはないじゃん」

 一生懸命にフォローする母親にぶすっとした秋生が水を差す。

「外で遊ぶのもいいことだし、ゲームも時間を守っていれば悪いものじゃない。でも、勉強もやってみれば面白いものだよ。勉強って名前にすると、うわって思っちゃう子も多いけど、秋生くんにも楽しみ方を見つけて欲しいな。これから、先生が一緒に考えてくれるからね」

 すっかり油断していたところで急に話題に上げられた私は慌てて背筋を伸ばし、条件反射で愛想笑いを浮かべた。ばちりと目が合った秋生がそんな私を馬鹿にしたように、にやっと笑う。大人たちの中に弱点を見つけたぞとばかり。生意気な。私は秋生のお母さんと男性社員に見えない方の目を少し細めてやった。すると秋生はぎくりとして笑みを引っ込め、新しい生き物を見つけたように私を見つめた。

 この子は愚鈍な子供じゃない。私は初めての生徒が良い少年であることに満足した。


 夏休みの間、週に二日、九十分ずつ。私は秋生の家に通って彼に夏休みの宿題をやらせた。余った時間はこれまでに彼が取りこぼしたらしい苦手科目の復習に充てる。予想通り、秋生は賢かった。そして、これまた予想通りに生意気な子供でもあったので、私はいつの間にかお転婆な実家の妹を相手にする気安さで彼に接することができるようになった。

「先生」

 声変わりもしていない綺麗な声が私を呼ぶ。私がまだ大学生だと知っているのに、先生と呼ぶことに何のためらいも、疑問もない。前期に自分の未熟さを思い知らされていた私には、秋生の呼ぶ「先生」の声は特別にくすぐったく、甘かった。

「先生、あれやってよ」

「またぁ? そんなに面白い?」

「うん、面白い。何それ、すげえ、どうなってんの? 気持ちわりい」

 両目を交互につむるウィンクや、片目ずつを別々の向きに動かすより目、離れ目などの変顔が秋生のお気に入りで、やってみせるとゲラゲラ笑って喜ぶ。

「気持ち悪いって言うな。だいたい秋生がやって欲しいって言ったんでしょ」

 軽く拳骨を落としてやると、やれDVだ暴力教師だと喚きたてる。最初に叫ばれたときはどきっとしたけれど、秋生のお母さんは子供の軽口に慣れているようで、飛んできたりはしなかった。

「練習すれば誰でもできると思うけど」

「えー、まじで。俺もやってみよっかな」

「うん、その前にここまで十個ずつ、書きとりやってからね」

「じゃあ、右目だけでやる」

「はいはい」

 ウィンクの練習と漢字の書き取りを同時に始めた秋生を放っておいて、彼の絵日記をぱらぱらとめくる。

 ラジオ体操も家族旅行もなかった私の夏休みももうすぐ終わりだ。大学に戻れば私は先生ではなく未熟な多くの学生の一人に過ぎない。どうしたら早く大人になれるのだろうか。私はまだ彼の横に並ぶ用意ができていない。


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