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恋友達  作者: 青砥緑
11/13

11.

 現実では秋生の言うように全てを割り切ることはできない。私は荻野谷さんを諦められないまま二度目の夏と秋と冬を過ごしたし、その間、木崎さんとの曖昧な関係も続いていた。彼はふらりと私の家に立ちより、何をするでもなく窓辺に座って過ごしたり、ちょっとした用事に私を連れ出したりした。そういうとまるで恋人同士のようだけれど、そうではない。私達はとても似た恋愛を共有しながらも、恋人ではなく、ただの友人でもない。恋の仲間のようなものだった。


「水槽」に通うのも変わらない。窓際のベンチで私は相変わらず与えられるまま甘いジュースを飲む。木崎さんと向かい合って座ることは無く、二人で並んで外から人が入ってくる廊下を眺めてぽつりぽつりと話す。教授ごとの試験の傾向や、明日の天気、最近のニュース。話題はいつもまちまちで、特に結論を求めるようなものはなかった。どの話も荻野谷さんが通りかかれば、その途端に中断され、何を話していたかなんてどうでもよくなってしまうからだ。

「そろそろ見納めかなあ」

「縁起の悪い言い方すんなよ」

 すでに後期の試験期間に入っていた。春休みに入れば荻野谷さんが通るのを待つことはできない。長い休みの前に彼の姿を見ることができる最後のチャンスは今日か明日だ。自分の試験が終わっているのに大学にやってきているのは、そのチャンスにかけてのことだった。木崎さんだったら、ちょっと連絡して荻野谷さんが学校に来ているかくらい簡単に調べられるのに、彼はそれをしない。いつもは抜け駆けされないことを歓迎しているけれど、こういうときはじれったかった。今日も、明日も会えないかもしれない。

「何時まで待とうかな」

 持ってきた小説は読み終わってしまったし、暇を持て余しそうだ。何か良い暇つぶしはないかと鞄を漁る私の横で、木崎さんの背筋がぴくりと震えた。

「よう」

 顔を上げるとちょうど荻野谷さんが廊下を通りかかったところだった。良かった、会えた。ほっとして、いつものように二人がしばらく話し込む声に耳を澄ませた。

 でも、その日はどういう風の吹き回しか荻野谷さんが私の方に向かって話しかけてきた。

「鶴田さんも、もう授業は終わり?」

 一瞬、荻野谷さんが自分を認識しているという事実が良く理解できなかった。透明人間になっていたのに急に声をかけられたみたいな感じだ。ちょっとしたパニックになった私は、答えは「はい」しかあり得ないのに咄嗟に木崎さんの顔を見上げてしまった。縋る視線の先で木崎さんは私を見下ろして軽く顎をしゃくって見せた。「答えてやれ」と言うみたいに。それでようやくはっと我に返って慌てて荻野谷さんに向き直った。彼は優しく笑って、まっすぐに私を見て、私の返事を待っている。夢みたいだ。

「はい。今日からお休みです」

「そう。お休み楽しんでね」

 それはまるで親戚のおじさんが小学生の姪っ子に向けるような笑顔だった。私だけに向けられた笑顔が嬉しくて、でもそれが木崎さんに向けるような大人の顔ではないことに、胃の底が沈む思いを味わった。これは夢ではない。

 荻野谷さんが去った後、私はイチゴ・オレの空パックを乱暴にゴミ箱に叩き込んだ。


 失意を引きずったままの春休みはあまり盛り上がることもなく、私は家でだらだら過ごした。すっかり昼夜が逆転した休みの一週間目に木崎さんがふらりと家にやってきた。そうやって不意に訪れる日は、たいてい木崎さんと荻野谷さんとの関係に何か良くないことが起きた日なので、私は少し嬉しい気持ちになる。もちろん、落ち込む木崎さんのために一緒に悲しい気持ちにもなる。

 夕食を食べていないという彼のためにありあわせで食事を出すと、彼は文句を言わずに綺麗に食べた。木崎さんは食事に文句をつけた試しがない。

「木崎さん、嫌いなものないよね」

「ない」

「じゃあ、好きなものは?」

「荻野谷」

 つまらない回答に、がっかりして私は食器を片付けた。荻野谷さんを用意するのは至難の業だ。だいたい手に入ってしまったら、とても分かち合えるとは思えない。

 私が木崎さんのお土産のプリンを冷蔵庫から取り出す頃には、彼はお気に入りの窓辺に腰を下ろして安い缶チューハイを飲んでいた。彼は暑くても寒くても窓を開け放って風を浴びるのを好んだ。まだ冷たい夜風にのって沈香の香りがする。家でお香を焚くのだと言っていた。喫煙していたころの習慣が抜けないのだそうだ。

 隣に腰を下ろすと、木崎さんはぼんやりと外を眺めたまま声をかけてきた。

「お前さあ、気が変わらないの?」

「木崎さん、その質問、飽きないね」

「そりゃ、お前。自分の恋敵の動静は気になるだろう」

 どこにも心の籠っていない返事を寄越された。

「おあいにく様。まだ気は変わりません」

 木崎さんは視線を窓の外から私へ移した。

「早くやめればいいのに」

「そっちこそ」

 両手がプリンとスプーンで埋まっていたから、裸足の足で彼の膝を押すように蹴ると、木崎さんは面倒くさそうに手で私の足を掴んで止めさせた。缶を握っていた指が冷たい。

「こんなこと、これ以上続けてどうする気だよ」

 私は答えられないことを誤魔化すために一生懸命にプリンを口に運んだ。口を忙しくしながら考える。既に成就しないことが分かっている私の片思いはどうなったら終わりなのだろう。そもそも私は荻野谷さんのことを諦めたいのだろうか。諦めたくないのだろうか。長い間葛藤し過ぎて、そんなことさえよく分からなくなってきている。

「ねえ、木崎さん。恋愛のゴールってなんなのかな?」

 すっかりプリンを食べ終えて、スプーンを咥えたまま首を傾げると痩せた肩に頭が当たった。

「さあ、なんだろうな。両想い。結婚。それか、死が二人を分かつまで」

「それ、本気で言ってるの?」

 彼が笑ったのが揺れる肩の感触で分かった。

「恋愛なんて欲望のかたまりだろ。一つ願いが叶えば、その次が欲しくなって、きりがない。好きになったら、振り返って欲しい。両想いになったら、結婚したい。全部自分のものにしたい。それもできたら、今度はずっといつまでも自分だけのものにしておきたいって。ゴールなんて達成感のあるもんが、本当にあると思うか?」

 彼の言い分は少し難しく、私はゆっくりそれを吟味した。どんな恋愛の果てにも輝かしいゴールはない。

「達成感のないものなら、あるの?」

「終わりはあるだろ、さすがに。相手を求め続ける欲求が消えたら、そこでおしまい」

「終わるまで休まるところがないなんて、手を放したら二度と戻らないジェット風船みたいね」

 大気圏に突入して塵になるまで燃え続ける隕石に例えた方がダイナミックで良かったかもしれない。私達の恋は小粒の隕石で、他の石よりも少しだけ早く燃え尽きてしまう。だから恋人としての楽しい日々や、結婚や、子供の顔を見るような時間がない。でも、燃えている間は同じように輝いている。そう言った方がずっと夢がある。


 私がプリンの容器と空き缶を片付けて戻ると、木崎さんは今日の帰り時間を言うみたいに簡単に、すごいことを言った。

「俺、四月から九州の大学に移るから」

 もともと今の大学は二年の契約だったから、契約が切れる前にちゃんと次が決まって良かった。向こうならうまくすればパーマネントの仕事を貰えるかもしれない。そう木崎さんが続けた言葉は頭を上滑りしていく。私はぽかんとして彼を見下ろした。

「え?」

「だから転職」

「荻野谷さんは?」

「知ってるよ、もちろん。決める前から相談してたし」

 見当はずれの答えがもどかしく、膝をついて木崎さんにつかみかかった。

「そんなこと聞いてるんじゃないよ。荻野谷さんは東京に残るんでしょう? どうするの? 諦めるの?」

 問い詰めると、彼は目尻を下げて小さく笑った。

「お前は本当にお人よしだなあ、俺の心配してどうすんだ」

 それから、いつも通りの顔に戻って続ける。

「どうもしないよ。お前が入学してくる前も違う学校に行ってる時期はあったし。結婚してるわけでもないんだから、いつまでも同じ場所にいるなんて無理に決まってるし。まずは働いて食ってかなきゃどうしょうもないだろ」

 木崎さんの言っていることが正論なのは分かる。でも気持ちがついていかなかった。何の約束もない二人が遠く離れたら、もう二度と同じところへは帰って来られない。

「忘れちゃうの?」

「忘れられるようになれば」

 私は置き去りにされてしまうようで心細くなった。恋敵なんて少ない方がいいに決まっている。でも彼はたった二人きりの仲間でもあるのだ。

 きっと涙を堪えて情けない顔になっているだろう私を見下ろして木崎さんは軽く笑った。

「お前が荻野谷を諦めるのを見届けられないのが、本当に心残りだよ」

 木崎さんは私の頭を乱暴に撫でると出発の予定も連絡先も知らせずに帰っていった。部屋に残っていた沈香の香りは翌日には消えてしまった。


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