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リングのプロフェッサー 世界ミドル級王者 マイク・ドノヴァン(1847-1918)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/02/22

マイク・ドノヴァンは選手生活の全盛期をベアナックルファイターとして過ごしていたことで、近代ボクシングの世界チャンピオンというカテゴリーからは外れることが多いが、クインズベリールール浸透後にもリングに上がり、選手生活の晩年までヘビー級の世界チャンピオン経験者たちとエキジビションを行っていたことを考えれば、初代世界ミドル級チャンピオンの資格は十分であろう。あれほど強かったマイク・タイソンでさえ50歳の坂を超えると、格下相手のエキジビションでさえもたついているのが現実で、ドノヴァンは当時の人々の眼には超人に映ったに違いない。


 一八四七年、アイルランド移民の両親のもとに生まれたマイク・ドノヴァンは、母が商っていた酪農業が堅調な頃は比較的裕福な生活を送っていたが、七歳の時に母が亡くなってからというもの、人生は一気に暗転した。

 父と何人かの兄弟が家を捨てて出て行ったため、生まれ故郷のシカゴから少し離れた郊外の親戚に預けられたドノヴァンは、親戚ともあまりそりが合わず両親のいない貧しい移民の子の悲哀を存分に味わうことになる。

 一八四〇年代から南北戦争(一八六一~一八六五)の頃にかけて、アメリカでは先住民と称する人々(元をたどれば移民だが)と増加するアイルランド系移民の対立が激化しており、「ネイティヴ・アメリカンズ」などというアイルランド人排斥運動を掲げる右翼的ギャング集団まで跋扈していた。

 そういった連中からのいじめや嘲笑は幼いドノヴァンにも容赦なく向けられ、時折家出をしては、低賃金の肉体労働や路上での物乞いまでして空腹をしのいでいた。

 やがて南北戦争が始まるとドノヴァンも従軍し、部隊の大勢の仲間が戦死するという激戦も潜り抜けて無事帰還した。南北戦争中はボクシングが野営地の兵士たちにとって格好の息抜きになっていたこともあって、肉体的にも精神的にもたくましくなっていたドノヴァンは、退役後はかつて自分をいじめた連中を探し出しては片っ端から報復の鉄拳を振るう日々を送りながらストリートファイトの腕を磨いた。

 やがて怪しげな酒場でのプライズファイトに出場して賞金を稼ぐのを生業とするようになったドノヴァンの記録の上での最初の公式戦は、一八六六年六月三日にセントルイスで行われたクローリー・デイヴィス戦で、五十九ラウンド反則負けという記録が残っている。

 ドノヴァンのリングキャリアの初期は、懸賞ボクシングに対する風当たりが強くなっていた時期で、州によっては法律で禁止されていたため、官憲の監視の目を逃れるようにして非合法な興行が行われていた。したがって、一八七〇年代以前のローカルファイトの多くは断片的な記録しか残っておらず、ドノヴァンの正確な戦績は不明のままとなっている。

 十九世紀の前半までは、ボクシングというと、一七七三年に制定されたブロートン・ルールに基づくボクシングとプロレスの融合体のようなものだったが、一八三八年にはロープを張った四角いリングでラウンドごとに休息を入れる今日のルールに近いロンドン・プライズ・ルールというものが生まれたのを機に、ボクシングは健全なスポーツとして青少年に奨励されるようになった。

 男らしさを競うスポーツとして一八五〇年代のイギリスではアマチュアボクシングが大流行した。プロは素手で戦ったが、アマチュアはグローブをつけてもよく、試合というよりスパーリングのような形式でボクシングを楽しんでいた。

 ドノヴァンのボクシングが旧態依然とした殴り合いの延長から科学的ボクシングへと進化をとげるきっかけとなったのが、セントルイスのボクサー、パトリック・ケンドリックとの出会いである。

 ケンドリックからロンドン・プライズ・ルールを教わったドノヴァンは、これまでのナックアウト狙いから、スタミナと駆け引き重視のボクシングへとスタイルを変えていった。中でもケンドリックから防御技術とフットワークの効用を学んだことは大きかった。これによって一七三センチ、七〇キロという当時のアメリカ人男性の平均的な体格に過ぎなかったドノヴァンは、自分よりも大きな相手との戦いも苦にならなくなった。

 体格に優る者や腕力に優れた者が圧倒的に有利だったボクシングは、ルールの近代化と技術の進歩によって、戦い方次第で体格差と腕力差を縮めることができる芸術的なスポーツと見なされるようになったが、このことは近代的ボクシングの広告塔としてのドノヴァンの功績抜きには語れないだろう。 

 ドノヴァンはケンドリック仕込みの技術をさらに進化させるために、これまであまり省られなかったトレーニング方法にも改良を加えた。ロードワーク、サンドバッグ、スパーリングといった今日のスタンダードなトレーニングメニューも、その原型はドノヴァンが発案したものと言われている。

 科学的トレーニングの成果を試す舞台は、当時主流となっていたロンドン・プライズ・ルールに基づいた実戦である。全米各地を巡業する中、なるべく経験豊富な者、体格に優る者を選んで戦い、その全てに勝利したことで、ドノヴァンの知名度は一気に上がった。

 初のビッグファイトは、一八七八年四月六日、ウィリアム・マクレランとの全米ミドル級王座決定戦である。

 当時は、イギリスとアメリカで独自のタイトルマッチを行っていたが、全米チャンピオンの方が実力的にも上回っていたため、「全米タイトルマッチ」と銘打ってはいても、今日の世界チャンピオンと同等の権威があった。

 この一戦はドノヴァンが再三ブレイク後に加撃したことで反則を取られ、十二ラウンド反則負けで涙を飲んだが、五月十八日のリターンマッチではマクレランが七ラウンドの途中でレフェリーに反則を取るよう抗議するも、認められず、半ば試合放棄のような形で失格負けを宣せられている。

 ドノヴァンにとっては不本意な勝利ではあるが、ついに栄光のチャンピオンの座を手に入れることができた。両者は翌年八月十八日にも対戦しているが、なんと九十六ラウンド引き分けという気の遠くなるようなマラソンファイトを演じている。

 近代ボクシングにおける初代世界ミドル級チャンピオンは、ジャック・ノンパレル・デンプシーというのが一般的な認識だが、ドノヴァンが初代チャンピオンと見なされることがあるのは、反則負けを除いて一八八〇年頃までは無敵だったことと、実質的な世界一といわれる全米タイトルを獲得したことを根拠としている。

 特に注目すべきは、マクレランとの第二戦は素手ではなくグローブ着用で行われたことである。

 一八六五年にイギリスでグローブ着用を義務づけたクインズベリー・ルールが制定されて以降、ベアナックルファイトは次第に廃れてゆき、一八八〇年代にはグローブファイトが主流となっていた。

 キャリアの大半をベアナックルファイトで過ごしてきたドノヴァンは、マクレランとの第一戦こそ素手で戦ったが、第二戦、第三戦は時代の趨勢に合わせてクインズベリー・ルール下で試合をしているため、これをミドル級における最初の近代的世界選手権試合と見なす専門家も少なくないのである。

 とはいえ、世界ミドル級タイトルという権威づけは後年に行われたものであり、ボクサードノヴァンの最盛時には、防衛戦とノンタイトル戦の区別も曖昧だった。したがってドノヴァンを実質的な世界ミドル級チャンピオンと見なす意見はあっても、チャンピオンとしての在位は推測の域を出ない。

 一八八四年七月三十日に自称世界王者のジョージ・フルジェームズを二十二ラウンド判定で下したデンプシーを初代ミドル級チャンピオンとするのは、正式な防衛戦の記録も残っているからであろう。

 もっともフルジェームズに勝った時点でのデンプシーは全米ミドル級チャンピオンであり、“世界”という権威付けはもう少し先の話である。

 

 ドノヴァンが科学的ボクシングの祖と言われるのは、攻防において当時としては斬新なスタイルの持ち主だったことによる。ゆったりと構えて、隙を見てはパンチを交換するといういささかスローモーな戦い方が主流だった一八七〇年代において、首を左右に小刻みに振りながら足を使ってかき回すというデイフェンススタイルは、概してスピードの遅い当時のボクサーには容易に捉えられるものではなかった。

 一方、パンチの出し方も急所を狙って大振りのストレートやフックをむやみに繰り出すのではなく、左ボディで相手の上体を下げてから右アッパーという古典的なコンビネーションを得意とした。

 しかもベアナックルファイトあがりのボクサーには珍しく、ナックアウト狙いの攻撃技術よりも防御技術を重視し、スタミナ配分に気を遣いながら長丁場を見据えた戦略的駆け引きを好んだ。

 またトレーニング方法の研究にも余念がなく、当時は一般的だった固定式のサンドバッグを吊り下げ式にすることで、攻撃と防御の練習を同時に行えるようにした。今日のスピードバッグの原型を作ったのもドノヴァンである。

 一八八四年からニューヨーク・アスレチッククラブでボクシングのインストラクターを務めていたドノヴァンは、トレーニング方法の専門化に取り組み、その科学的根拠に基づいた指導方法はトップアスリートやクラブ会員から高い評価を得た。「プロフェッサー」の称号で呼ばれるようになったのは、彼の卓越した指導力に対する賞賛の表れであった。

 ドノヴァンの時代を先取りした高度なテクニックは齢を重ねてからも健在で、一八八六年一月十五日には無敗の世界ミドル級チャンピオン、ノンパレル・ジャック・デンプシーと対戦し、四ラウンド無判定の記録がある。

 この二人は二年後の十一月十五日にも六ラウンドで引き分けているが、この時四十九勝無敗(二十二KO)のデンプシーに対してドノヴァンは四十一歳のロートルである。記録上は公式戦とはいうものの、実際はエキジビションマッチの趣きだったようだが、この年齢で無敵王者の誉れも高いデンプシーの動きについてゆけただけでも賞賛に値する。 

 一八八〇年二月には若き日のジョン・L・サリヴァンとエキジビションで手合わせしたこともある。

 科学的ボクシングの第一人者として有名なドノヴァンがボストンに巡業でやって来るのを待ち構えていたサリヴァンは、是非自分とエキジビションをして欲しいと直談判してきた。

 ドノヴァンはまだプロになって一年かそこらのサリヴァンに、「ただがむしゃらに強いだけではダメだ。リングの上では経験と駆け引きがモノを言う。私は君のような前途有望な若者を大衆の前で打ち据えたくはないんだ」と紳士的な態度で諭したが、サリヴァンがあまりにもしつこく食い下がるので、半ば根負けした形で「誰か君がリングの上でも惨めな姿をさらすことはないという保証をしてくれる人がいれば、不本意だが試合に応じよう」という条件を出した。

 結果、一流レスラーのウィリアム・マルドゥーンがサリヴァンの保証人となったことで、試合は実現したが、いざ蓋を開けてみると、初回からサリヴァンが猛打を振るい、ドノヴァンはKOを免れるのがやっとという有様だった。

 サリヴァンの強さに脱帽したドノヴァンは「本当に恐れ入ったよ。君はきっと近い将来、世界ヘビー級チャンピオンになるよ」と言って若き英雄を称えたが、二十キロ以上もの体重差というハンデがありながら、そのわずか二年後にはベアナックル世界ヘビー級チャンピオンになったサリヴァンの強打に耐えたドノヴァンの防御技術も実際のところ大したものだった。

 ミドル級では一級品のドノヴァンのテクニックをもってしても、ナチュラルヘビーウェイトのサリヴァンの突進を抑えることは出来なかった、と書いても、ミドル級の世界チャンピオンがヘビー級の下位ランカーにさえ歯が立たないのは今日でも常識であり、何ら驚くべきことではない。

 ところが、サリヴァンの名が全国区になったのは体格で遙かに劣るドノヴァンを打ちのめしたことによるものとなると話は別だ。いかにドノヴァンが階級を超越した強豪であったかがわかる。

 このエキジビションがすこぶる好評だったため、これを機会に二人は一八八一年から一八八四年にかけて全米各地でエキジビション興行を行っている。サリヴァンが少々手加減しているとはいえ、これだけ体格の違う二人が観客が盛り上がる試合を演じられたのは、ドノヴァンにそれだけの力量があったからだ。

 サリヴァンとはウマが合ったのか、一時期はトレーナーを務めていただけに、コーチしたことがあるコーベットがサリヴァンを破った時は、複雑な思いがあったと思われる。

 四十代後半になってなお、ジム・コーベットやボブ・フィッシモンズといったヘビー級チャンピオン経験者たちとのエキジビションをこなしているところを見ると、一流の殺陣師さながらの演技力にも長けていたのだろう。

 

 一八九〇年限りで現役を引退したドノヴァンは、インストラクターの傍ら、ボクシングの技術書の執筆にも携わっており、後半生は後進の育成に捧げた。その時の教え子の一人が後の合衆国大統領セオドア・ルーズヴェルトである。

 『棍棒外交』で知られる武闘派大統領のルーズヴェルトは、腕力の方も歴代大統領の中で最強と言われているが、意外にも少年時代は運動が苦手で博物学に没頭する秀才肌だった。身体を鍛える目的で始めたボクシングによってマチョイズムに目覚めると、学者になる夢を捨てて軍人となり、陸軍士官時代にドノヴァンと出会っている。

 ドノヴァンのコーチでメキメキと腕を上げたルーズヴェルトは、米西戦争の激闘の最中に素手でスペイン兵を絞め殺したことを終生誇りとするほどの腕力自慢となったが、史上最年少四十二歳の若さで大統領になってからも、アマチュア大会に出場するなどボクシングにのめりこんだ結果、左目を失明している。

 私生活でもドノヴァンと親交を結んでいたルーズヴェルトは、趣味のハンティングにも師匠に同行してもらっていたが、ドノヴァンは射撃の腕も一流でライオンを何頭も仕留めていることから、ルーズヴェルトが自慢していた狩りの戦果の多くは、師匠のアシストによるものと言われている。

 七十歳を過ぎても若いボクサーの指導に従事していたが、世界的にインフルエンザを流行している時期に換気の悪い工場の倉庫を練習場にしていたのが災いしたか、悪性の感冒で体調を崩し、寝込んでからわずか一週間後に亡くなった。

 葬儀は南北戦争中に所属していた第71イリノイ歩兵連隊での功績を称える形で、軍隊式で盛大に執り行われた。

 生涯戦績(判明分)27勝 4敗(13KO)11分

 敗戦記録の中にはエキジビションなのか公式戦なのか曖昧なものが2試合、反則負けが1試合含まれており、ほぼ無敵状態だった。なお一八六〇年代から一八七〇年代の試合記録がかなり抜け落ちているため、あくまでも参考記録の域を出ない。

ルーズベルトはホワイトハウスでドノヴァンとスパーリングしていたらしいが、ホワイトハウスにスポーツヒーローが表敬訪問することはあっても、プロボクサーと殴り合ったのはルーズベルトだけだろう。アイゼンハワーもアマチュアボクサーとしては相当なレベルだったそうだが、大統領時代は普通の初老の男というイメージで、短気で喧嘩早いところなど微塵も伺えなかった。

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