1話〜そりゃ、最低だわ!〜
突然、目の前に星が弾け、次いで背中に強い衝撃を受けた。頭も強く打った様で、軽い脳震盪を起こしている。目を開けても、世界がグニャリと歪んで見えた。
なん、だ?何が…起きた?
思考も纏まらない俺の視界に、ひょこっと清楚なブレザーを着た黒髪のお嬢さんが映り、その可愛らしい顔に似つかわしくない険しい目付きでこちらを睨み下ろしてきた。
怒り心頭といった様子で、こちらに罵声を浴びせてくる。
「さいっ、ていっ!もう二度と、私に話しかけないで。このブタ兄貴!」
(何だと!?この愚妹が!)
俺の心の中で、激しい怒りの感情が膨れ上がる。
でも俺は、それを何とか押し留める。状況が全く理解出来ず、何故こんな怒りを感じたかも分からなかったから。
取り敢えず俺は「済まん」とだけ少女に呟く。
怒られている理由は一切分からない。でも、目の前の少女は顔を真っ赤にして、薄らと涙まで浮かべている。それ相応の失態を犯してしまったのは火を見るより明らかである。ならば、先ずは謝るのが得策だろう。
「ふんっ!」
それでも、少女は俺の謝罪に心を許さず、鼻を鳴らして踵を返した。
立ち去る少女の背中を、俺は呆然と見送る。
余程のことをしてしまったんだな、俺は。そもそも、俺は誰なんだ?
そう思うと同時に、頭の中に様々な情報の断片的が思い浮かぶ。それはこの体、黒沢虎二の記憶だった。
色々とあるが、簡潔に言うと…。
虎二は16歳の高校2年生。黒沢グループと言う大きな会社社長の次男坊として生まれ、何不自由なく人生を謳歌していた。
そうして、苦労らしい苦労もせずに富を得てしまったから、相当付け上がった悪ガキに成長した様だった。
その悪ガキっぷりは、学校でも存分に発揮されていた。俺は金持ちだと自慢し、威張り散らし、でも苦手な教科や勝てない奴からはさっさと逃げ出す始末。
ダサい。最高にダサいぞ、虎。
しかも、それに対して本人は罪悪感も何も感じておらず、薄らとしか覚えていなかった。
余計にタチの悪い奴だな、お前さんは。
覚えていないと言えば、こうして思考している俺自身についても記憶がない。虎二の記憶を客観的に見ているこの俺は、一体誰なのだろうか?
分かるのは、虎が今までやってきた事は間違っているぞ!と、断言出来るくらいの常識を持ち合わせている事くらい。
「いてて…」
ああ、あと。美少女に殴られても喜んだりしない、ノーマルな趣向の持ち主って事も把握した。
俺は上半身を起こしたと同時に感じた痛みに、顔を顰める。患部に手を当てると、少量の血が手のひらに付着していた。
華奢な少女にビンタされて、背中から倒れたらしい。どんだけ貧弱なんだよ、このブヨブヨの体は。
俺が腹に溜まった脂肪を摘んでいると、パタパタと足音が聞こえた。
「大丈夫ですか!?お坊ちゃま!」
「頬から血が…すぐにお医者様を!」
見上げると、顔面蒼白のメイドさんが数人、俺を取り囲んでいる。
この人達は、我が家のメイドだ。どうやら俺は、学校から帰ってきた所を妹に叩き倒されたらしい。
俺は立ち上がりながら、手を貸そうとする彼女をやんわりと断る。
「大丈夫です。少し部屋で休めば治りますので、医者は結構ですよ」
「えっ?」「虎二…様?」
(ぎゃぁあ!血だ!早く医者を呼べ!死んじゃうぅ!)
そう、俺の内側でうるさく喚く感情を叩きのめしながら、俺はメイドさん達の横をすり抜ける。
この程度の擦り傷、唾でも付ければ治る。耳も取れていないんだから、ギャアギャア騒ぐな。
心の弱さに呆れながら歩いていると、廊下の先に誰か立っているのが見えた。
高級そうなスーツを着た長身の男性だ。キリリとした目元とスっと通った鼻筋が、彼のイケメンオーラを倍増させている。
そんなイケメンが、俺に向かって軽く手を上げる。
「やぁ、虎。どうした?その頬…ああ、舞花の奴にやられたのか」
「兄貴…」
その人は、虎の4つ上の兄である龍一であった。黒沢グループ時期社長と期待され、背も高く顔も整っており、頭脳明晰で運動も出来るスーパーマン。そのくせ、弟や妹にも優しいと記憶されている。
「あまり気にするんじゃないぞ?虎。お前は人生の勝ち組なんだ。多少の無理を強いても、許される立場にいるんだからな」
優しい…のか?
「舞花も舞花だ。兄が自分の友達に手を出そうとしたくらいで怒るとは、男の甲斐性と言うものがまるで分かっていない」
「そりゃ、最低だわ!」
おっと、つい感情が漏れちまった。
「うん?どうした虎。お前らしくない発言だな。舞花の肩を持つのか?」
優しく微笑んでいた龍一の目が、一瞬鋭くなった。
あら?この人、自分の意見を否定されるのが気に食わない人かな?優しいのは、自分の意向に沿う人間だけと言うこと?
うん。だったら…。
「いやだな、兄貴。舞花の事を言ったんだ。ここまで強く殴るなんて、最低だとね」
俺は両手を振って、弁明する。
俺の考えを曲げてでも、ここは兄と敵対するべきでない。少なくとも、今はまだ。
「ああ、そう言う意味か。全くお前は、独特な言い回しをするな」
兄貴は少しだけ目元を緩めて去っていく。大学生3年生の彼は、学業の傍らに経営についても父から教わっているらしい。
忙しい人みたいだ。
「だが、人間性は怪しい、と」
俺は兄についての印象を上書きする。
虎の悪行を肯定するなんて、どうかしている。それが本心なら、随分と特権階級の悪い面に浸かってしまったのだろう。
そして、もしもそれが彼の本心でないとしたら…。
「虎二と言う悪童を作ったのは、あの人かもしれねぇな」
まぁ、もしもそうだとしても、間違いを起こしたのは虎自身だ。
ならば、先ずやるべきは…。
「あら?虎二様、どちらにお出かけですか?」
自室でジャージに着替えた俺が、玄関でシューズを履いていると、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、また別のメイドさんが立っていた。
ええっと…彼女は誰だ?虎のデータベースにアクセスしてっと…ああ、メイド長の長谷川さんね。
「ちょっと散歩でもしようかと思いましてね。学校の制服もキツくなってきたし」
嘘だ。今から俺は、自分を罰する為に走り込みをしようとしていた。この怠けきった体に気合いを入れる為にも、厳しめのトレーニングを課すつもりである。
そんな事を思い描いていると、長谷川さんが廊下の方を手で指した。
「でしたら、1階にトレーニング室がございますよ?」
マジか。そんなのまであるの?どんだけ豪邸なんだよ、この家。
俺が呆れていると、急に長谷川さんがこちらに頭を下げてきた。
どしたの?
「差し出がましい発言でした。申し訳ございません。虎二様でしたら、トレーニング室の事など既にご存知でしょうに…お許し下さい」
「ああ、いや。俺は知らなかったんで助かりましたよ。良ければ、案内してくれませんか?」
「えっ…?」
長谷川さんは驚き過ぎて、頭を少し上げたところでフリーズしている。
どうやら、虎の素行の悪さは学校だけに留まらないらしい。
全く、困ったものだ。
「こちらがトレーニング室です。私はあまり詳しくありませんので、30分お待ち頂けたら専属のトレーナーを手配致します。勿論、トレーナーは女性をお呼びしますので」
「勿論…だと?」
おいおい。どれだけ欲丸出しだったんだ、今までの虎は。
俺が呆れていると、長谷川さんは「何か?」と不安そうな顔をする。なので、俺は慌てて首を振る。
「トレーナーは結構です。器具の使い方はある程度分かりますし、ベンチプレスみたいに1人では危険な物は避けますので」
トレーニング室はかなり広いけど、置いてある機器は一般的なスポーツジムの物と大差ない。これなら、怪我にさえ気を付けていれば問題なかろう。
トレーニング開始前の俺はそう思っていた。
だが、
「嘘だろ…お前…ダンベル2㎏でこれは、シャレになんねぇぞ…」
開始早々に問題が続出した。
先ず、内なる感情がうるさい。一番軽いダンベルを持った瞬間に(箸より重い物を持ちたくない!)という軟弱な心が暴れ出しそうになり、トレーニングの邪魔をした。それを叩き潰してトレーニングを始めたが、ダンベルを10回も上げ下げしただけで腕が悲鳴を上げ始めた。
どんだけ筋力無いの?この体。腕立て伏せすらマトモに出来ねぇじゃねえか…。
自分の脆弱さに打ちひしがれていると、トレーニング室のドアが開く。そこから、厳ついお兄さん達がゾロゾロと入って来て、俺を見るなり目を見開いた。
「えぇっ!ぼ、坊ちゃん?」
「なんで、こんなとこに…?」
うん?なんだ、この男性達は。虎二データベースにも載ってないぞ?
まさかこの部屋、公共施設なのか?一般の方も利用している?
俺が必死に現状を読み解こうとしていると、その表情を読み取った1人が自己紹介をしてくれた。
「ボディーガードの久保っすよ。こっちはガードマンの弥富」
「休憩に入ったんで、体を動かしに来たんです。ほら、俺達って体が資本ですから」
(そんなの知らん!)という冷たい心を押し留め、俺は「そうなんですね」と相槌を打つ。
なるほど。従業員の福利厚生も兼ねたトレーニング室だったのか。通りで、こんなに広い訳だ。
しかし、この虎の頭脳は信用ならないな。メイドさん達の事はスリーサイズまでインプットされているのに、男性の事となると名前すら浮かばない。
きっと、今まで興味がなかったのだろう。相手が男性というだけで、情報を全てシャットアウトしていた様子だ。これは家の中だけでなくて、学校でも同じ状況と考えるべきか。
とんでもないエロブタに転生してしまったと、俺は今日何度目か分からないため息を吐き出した。
次は20時に。




