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第八話

朝は、思っていたよりも静かに来た。


目を開けると、カーテンの向こうが白く明るい。

夜の続きのような空気が、まだ部屋に残っている。

私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって、それから、ゆっくりと思い出す。


遥の部屋。

昨日、恋人になった。


そう意識しただけで、胸の奥がきゅっとなる。

でも、恥ずかしさよりも先に、安心が来る。


体を起こすと、隣には遥がいた。

同じ毛布にくるまって、少しだけ丸くなって眠っている。

寝顔は、大学で見る遥より幼くて、無防備だった。


起こさないように、そっと息を整える。

それでも、私の気配に気づいたのか、遥が小さく目を開ける。


「……おはよう」


寝起きの声は、少し低い。


「おはよう」


そう返すと、遥は一瞬、私をじっと見てから、ふっと笑った。


「夢じゃなかった」


その言い方が可笑しくて、

私は小さく笑う。


「私も、起きてから確認した」


遥は、安心したように目を細めて、

もう一度、私のほうに体を寄せる。

昨日よりも、自然な動きだった。


「まだ、眠い?」


「ちょっと」


「じゃあ、もう少しだけ」


そう言って、目を閉じる。

でも、さっきより距離が近い。

肩と肩が、しっかり触れている。


私は、遥の髪を見つめる。

光の中で、少しだけ色が違って見える。

この距離で、こうして見るのは、初めてだった。


「ねえ、紗月」


「なに?」


「恋人ってさ……」


言いかけて、遥は言葉を探す。


「急に、何か変わるもの?」


私は少し考える。


「分からないけど……」


「うん」


「でも、今は、変わらなくていい気がする」


その答えに、遥はうなずく。


「私も、そう思ってた」


それから、ゆっくりと体を起こす。


「朝ごはん、簡単なのでいい?」


「うん」


キッチンに立つ遥の背中を、私はソファから眺める。

パジャマのまま、慣れた動きでお湯を沸かす姿。

それが、昨日までとは違って見える。


ただの友達の部屋じゃない。

恋人の生活の中に、私は立っている。


その事実が、静かに胸に広がる。


「パンでいい?」


「ありがとう」


テーブルを挟んで向かい合うと、

遥は少し照れたように視線を落とす。


「改めて言うの、変だけど」


「うん」


「来てくれて、ありがとう」


私は首を振る。


「私のほうこそ」


言葉は少ないけれど、

その間に、確かなものがある。


窓から差し込む朝の光が、

二人の間を、やさしく照らしていた。


昨日の続きが、

ちゃんと今日になっている。


それが、何より嬉しかった。



遥の部屋を出るとき、私は少しだけ名残惜しかった。

玄関で靴を履きながら、いつもなら早く外に出たくなるはずなのに、今日は動作がゆっくりになる。


「また、連絡するね」


遥がそう言う前に、私は言っていた。


「うん。……私からも、する」


自分でも驚くほど、自然な声だった。

遥は一瞬目を見開いて、それから嬉しそうに笑った。


外に出ると、朝の空気が冷たい。

アパートの階段を下りながら、胸の奥が静かに温かいのを感じる。


駅までの道を一人で歩く。

昨日までと同じ道なのに、足取りが少し違う。

信号を待つ間、スマホを取り出して、意味もなく画面を眺める。


――連絡、するって言ったな。


今までは、どちらかというと待つ側だった。

返事が来たら安心して、来なければ理由を探していた。

でも今は、理由はいらない気がする。


電車の中で、窓に映る自分を見る。

表情が、少し柔らかい。

それに気づいて、私は目を逸らす。


大学に着くと、いつもの講義。

いつもの席。

ノートを開きながら、ふと、遥に話したいことが浮かぶ。


――さっきのパン、思ったより美味しかった、とか。

――寝起きの声、少し低かった、とか。


どうでもいいことばかりなのに、

それを「伝えたい」と思っている自分に、はっとする。


私は、ノートの端に小さく文字を書く。

「あとで、遥に」


こんなこと、前はしなかった。

気持ちを後回しにする癖が、いつの間にか薄れている。


昼休み、学食で一人座っていると、

無意識に席を一つ空けている自分に気づく。

誰かが来るわけでもないのに。


それが少し可笑しくて、少し嬉しい。


午後の授業が終わるころ、

スマホが震える。


〈ちゃんと着いた?〉


短いメッセージ。

でも、心配しているのが分かる。


私は迷わず打ち返す。


〈うん。今、大学〉

〈遥は?〉


送信してから、胸がどきっとする。

自分から相手を気にかける言葉を、こんなふうに送ったのは久しぶりだ。


返信はすぐに来る。


〈私も。帰り、時間合ったら会う?〉


私は、少し考えてから、

でも考えすぎないようにして、返す。


〈うん、会いたい〉


画面を閉じて、深く息を吸う。

胸の奥で、何かがきちんと定まった感覚がある。


恋人になったから、世界が劇的に変わったわけじゃない。

でも、自分の選び方が、少しだけ変わった。


待つより、伝える。

迷うより、確かめる。


それができている自分に、私は少し驚いて、

そして、静かに誇らしくなる。


夕方の光が、校舎の壁に伸びている。

私は、その中を歩きながら思う。


この気持ちは、

一人でかみしめても、ちゃんと意味がある。


でも、誰かと分け合うことで、

もっとはっきり、形になる。


私はポケットの中でスマホを握りしめ、

今日も続いていく日常の中へ、歩き出す。


昨日より少しだけ、

自分の足で。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
タイトル通りとても静かに 二人の間で聞こえる音だけ この物語にはBGMはいらない そんな空間を思わせるお話でした じんわり良かった では続きを読みに参りますw
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