第七話
しばらく、私たちはそのまま座っていた。
会話が途切れても、急いで言葉を足す必要がない沈黙だった。
遥は、膝の上に手を置いている。
指先が少しだけ緊張しているのが、分かる。
私も同じだった。
「お茶、入れるね」
そう言って立ち上がろうとした遥が、少しだけバランスを崩す。
私は反射的に、遥の腕に手を伸ばした。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
触れたのは、ほんの一瞬だったはずなのに、
その感触が、指先に残る。
遥は立ち上がるのをやめて、
そのまま、もう一度クッションに腰を下ろした。
今度は、さっきより近い位置に。
「紗月ってさ」
「なに?」
「こういうとき、すぐ手が出るよね」
責めるような言い方じゃなかった。
むしろ、確かめるみたいな声。
「……無意識」
「そっか」
遥は、私のほうを見る。
目が合って、すぐには逸らされない。
その距離で見る遥の顔は、
いつもより輪郭がはっきりしていた。
まつげの影、唇の色、息をするたびの小さな動き。
私は、目を逸らすタイミングを失う。
「ねえ」と遥が言う。「さっきから、近いね」
「遥が、隣に座ったから」
「……そうだっけ」
そう言いながら、遥は少しだけ体を寄せる。
逃げ道がないほどではない。
でも、偶然ではない距離。
肩が、触れた。
触れた瞬間、
どちらも動かなかった。
「嫌だったら、言って」
遥の声は、低くて静かだった。
私は首を振る。
「嫌じゃない」
それは、考えるより先に出た言葉だった。
遥は、ほっとしたように息を吐く。
その息が、私の腕にかかる。
「私も」
その一言で、
部屋の空気が、少し変わった。
遥の肩が、私の肩に預けられる。
重さはほとんどないのに、
そこにあると、はっきり分かる。
私は、どうしていいか分からず、
でも離れたくなくて、
そっと、体の力を抜く。
「前にさ」と遥が言う。「紗月の部屋で、こうやってたよね」
「……うん」
「安心したんだ」
その言葉が、胸に落ちる。
安心、という響きが、こんなに深いなんて思わなかった。
遥の髪が、私の頬に触れる。
私は、ためらいながら、
でも今度は止めずに、
指先でそっと、その髪を整える。
触れているのに、撫でているとは言えないほどの動き。
それでも、遥は目を閉じた。
「やっぱり、落ち着く」
その声は、私に向けられていた。
私は、初めて自分から、
遥の肩に頭を寄せる。
お互いに寄りかかる形になる。
境目が、分からなくなる。
どこからが遥で、どこまでが私なのか。
心臓の音が、少しだけ速い。
でも、不安はなかった。
「ねえ、紗月」
「なに?」
「……今、無理してない?」
私は、正直に答える。
「してない」
「よかった」
それだけで、十分だった。
私たちは、そのまま動かずにいた。
抱きしめるほど近くはない。
でも、友達と言い切るには、もう戻れない。
その距離が、
怖くもあり、
同時に、とても自然だった。
私は思う。
たぶん、もう気づかないふりはできない。
でも、急がなくていい。
この近さを、ちゃんと感じていたかった。
遥の体温が、
私の呼吸と、少しずつ重なっていく。
それは、選んだ距離だった。
しばらくして、遥の呼吸が少しゆっくりになる。
眠っているのかと思って身じろぐと、遥は小さく首を振った。
「起きてる」
その声は、もうささやきに近い。
「ごめん、重くない?」
「ううん」
私は正直に答える。
この距離が、もう「重い」と感じられないことを。
遥は、少しだけ体勢を変えて、私のほうを向く。
顔が近い。
視線が、逃げ場を失う。
「紗月」
名前を呼ばれるだけで、
胸の奥がきちんと反応する。
「私さ……」
遥は、一度言葉を止める。
その間が、今までで一番、長く感じられた。
「友達って言うの、もう無理だなって思ってて」
私は、うなずく。
驚きはなかった。
たぶん、ずっと待っていた言葉だった。
「私も」
そう言うと、遥の目が、少し潤む。
「好きだよ、紗月」
はっきりとした声だった。
迷いのない言い方。
その瞬間、
胸に溜まっていたものが、きれいにほどける。
「……私も、遥が好き」
それは、告白というより、確認だった。
お互いが、同じ場所に立っていることの。
遥は、ゆっくりと笑う。
いつもより、安心した顔で。
「じゃあ、恋人、だよね」
「うん」
その一言で、
世界が少しだけ、落ち着く。
遥は、そっと私の手を取る。
指を絡めるほど強くはない。
でも、離す気もない力。
「急がなくていいから」
「分かってる」
「こういうの、初めてで……」
「私も」
二人で、同時に息を吐く。
緊張が、ようやくほどける。
私は、遥の肩にもう一度、頭を預ける。
今度は、迷いなく。
遥の腕が、そっと背中に回る。
抱きしめる、というより、包む感じ。
それで十分だった。
窓の外では、夜の音が静かに流れている。
遠くの車の音、誰かの笑い声。
世界は変わらず動いている。
でも、私の中では、
ちゃんと一つ、答えが出た。
「明日も、会える?」
遥が言う。
「うん。会いたい」
「よかった」
その言葉を聞いて、
私は、初めて完全に力を抜いた。
恋人になった、という事実は、
大きな変化のはずなのに、
不思議なくらい、自然だった。
たぶん、私たちは、
ずっと前から、ここに来る途中だった。
遥の体温を感じながら、
私は目を閉じる。
何もしない日が、
ちゃんと意味を持つ日になった。
それだけで、
今は十分だった。




