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第六話

約束の日は、特別な日みたいに晴れていたわけじゃなかった。

朝から薄い雲がかかっていて、洗濯物を外に出すか迷うような空だった。


私はいつもより少し早く目が覚めた。

目覚ましが鳴る前に起きるのは、久しぶりだった。


天井を見ながら、今日の予定を頭の中でなぞる。

遥の部屋に行く。

それだけなのに、言葉にすると少し落ち着かなくなる。


起き上がって、顔を洗う。

鏡に映る自分は、いつもと変わらないはずなのに、

なぜか「行く前の顔」をしている気がした。


クローゼットを開けて、服を眺める。

派手すぎないもの。

でも、どうでもよく見えないもの。


結局、何度か手に取っては戻し、

一番よく着ている白いシャツと、柔らかい色のスカートを選んだ。

遥が「変わらないね」と言いそうな組み合わせ。


アイロンをかけながら、私は考える。

遥は、どんな気持ちで私を呼んだんだろう。

深い意味はないのかもしれない。

それでも、意味がないとは思えなかった。


髪を乾かして、少しだけ丁寧に整える。

耳にかける動作を、何度かやり直す。

誰に見せるためでもないのに。


バッグの中身を確認する。

財布、スマホ、鍵。

それから、本を一冊。

遥の部屋で読むかどうかは分からないけれど、

何も持たずに行くのは落ち着かなかった。


部屋を出る前、窓を開ける。

空気は少し湿っていて、遠くで鳥の声がした。

このまま、何も考えずに出かけられたらいいのに、と思う。


玄関で靴を履きながら、

私は自分に言い聞かせる。


今日は、ただ遊びに行くだけ。

何かを決める日じゃない。

何かが起きなくても、がっかりしない。


でも、その言葉の裏側で、

起きてほしい何かを、確かに抱えている。


駅までの道は、いつもより長く感じた。

歩きながら、遥の部屋を想像する。

どんな匂いがして、どんな音がするんだろう。


改札を通る前に、スマホが震えた。


〈もうすぐ?〉


短いメッセージ。

それだけで、胸の奥がきゅっとなる。


〈今、駅〉と返す。

すぐに〈気をつけて〉が返ってくる。


気をつける、という言葉が、

今日に限っては色々な意味を持っている気がした。


電車に乗り、窓際に立つ。

流れていく景色を見ながら、

私は深く息を吸う。


準備は、もう十分だ。

服も、心も。


それでも、

遥の部屋のドアを開ける瞬間までは、

きっとこの落ち着かなさは消えない。


それでいい、と私は思う。

この感じを、大切にしたい。


次に降りる駅が、近づいていた。



駅を出ると、空気が少しだけ違った。

同じ街のはずなのに、遥の住んでいるほうは道が静かで、人の気配が薄い。


メッセージに書かれていた通りの道を歩く。

古いアパートの前で立ち止まると、表札に「宮野」とあった。

その文字を見ただけで、胸が一度、跳ねる。


インターホンを押す前に、息を整える。

押す。

短い音のあと、少し間があって、ドアが開いた。


「いらっしゃい」


遥は、部屋着のままだった。

いつも大学で見る遥とは違う、柔らかい色のTシャツ。

髪も、きちんとまとめられていない。


その姿に、私は一瞬、言葉を失う。

それは、想像していなかったわけじゃない。

でも、実際に見ると、距離の種類が変わる。


「どうぞ」


部屋に入ると、思っていたよりも物が少なかった。

もっと雑然としていると思っていた。

でも、床はきれいで、窓辺に小さな観葉植物が置いてある。


「意外と、整ってるね」


そう言うと、遥は少し照れたように笑った。


「人来るときだけ」


私は靴を脱ぎながら、部屋を見回す。

本棚には、教科書の隣に、私の知らない小説が並んでいる。

その中に、一冊だけ、見覚えのある背表紙があった。


「それ……」


思わず指差すと、遥は一瞬、目を見開いた。


「分かる?」


「私、前に好きだって言ったやつ」


「うん。気になって」


何気ない言葉なのに、

胸の奥に、小さく熱が灯る。


自分の知らないところで、

自分の言葉が残っていたこと。

それが、こんなにも意外で、嬉しいなんて。


「まだ、途中だけどね」と遥は言う。


「どう?」


「……紗月が好きそう」


その言い方が、少し慎重で、

私はそれを、前とは違う慎重さだと感じ取る。


部屋の奥から、かすかに洗剤の匂いがした。

私の部屋とは違う、でもどこか似ている匂い。


「座っていい?」


「うん、どうぞ」


床に置かれたクッションに腰を下ろすと、

遥が私の向かいに座る……と思ったら、

自然に、隣に座った。


それが、今日いちばんの意外だった。


間に、ほとんど距離がない。

肩が触れそうで、触れない。


「……近いね」


私がそう言うと、遥は少しだけ迷ってから言った。


「嫌だった?」


「……ううん」


その返事をした自分にも、私は少し驚く。


遥はそれ以上動かなかった。

でも、離れもしなかった。


私は思う。

今日、ここに来てから、

小さな意外が、いくつも重なっている。


それは、不安よりも、

確かに、期待に近い。


私は、隣にある体温を意識しながら、

この先、もう一つくらい意外なことが起きても、

受け止められる気がしていた。




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