第五話
翌週、大学の中庭で遥を見つけたとき、私は少しだけ戸惑った。
理由は分からない。服装も、髪型も、いつも通りだった。
「おはよう」
先に声をかけてきたのは遥だった。
いつもより、ほんの少し近い距離で。
「おはよう」
私がそう返すと、遥は一瞬だけ私の顔を見て、すぐに視線を外した。
その仕草が、なぜだか胸に残る。
ベンチに並んで座る。
間に置くはずだった距離が、自然と縮まっている。
私は足の位置を動かさなかったし、遥も動かさなかった。
「昨日、よく眠れた?」と遥が聞く。
「うん。遥は?」
「……うん」
少しだけ、間があった。
それだけで、私は色々なことを考えてしまう。
講義中、遥は何度か私のほうを見た。
以前から、見ていなかったわけじゃない。
でも今日は、視線が合うと、すぐに逸らされる。
ノートを取る手が、少しだけ速い。
行間が詰まっている。
私は、そんな細かい変化を、無意識に数えている自分に気づく。
昼休み、学食で向かい合って座る。
遥はいつもより食べるのが遅かった。
「食欲ない?」
「あるよ。ただ、熱かった」
そう言って息を吹きかける仕草が、少しぎこちない。
私は、それ以上聞かなかった。
帰り道、改札前で立ち止まったとき、
遥はいつもならすぐに手を振るのに、今日は一拍置いた。
「……また、ああいう日、つくろうか」
ああいう日、が何を指すのか、説明はない。
でも、私は迷わなかった。
「うん」
遥は安心したように笑う。
でも、その笑顔は、前より少しだけ慎重だった。
別れたあと、私は歩きながら考える。
遥は、何かに気づいたのだろうか。
それとも、私のほうが変わってしまったのだろうか。
答えは分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
遥は、私との距離を、
以前の場所に戻そうとはしていない。
それは、近づいたまま、
どう扱えばいいか考えている人の態度だった。
その夜、遥から短いメッセージが来た。
〈今日は、ありがとう〉
何に対してのありがとうなのか、書いていない。
私は少し考えてから、こう返した。
〈こちらこそ〉
それだけで、十分だった。
ベッドに横になり、天井を見る。
心臓は静かだ。
不安よりも、落ち着きのほうが大きい。
関係が変わるときは、
大きな出来事が起きるものだと思っていた。
でも実際は、
視線の長さや、言葉の間、
立ち止まるタイミングが、少しずつ変わるだけなのかもしれない。
私は目を閉じる。
次に会うとき、何が起きるかは分からない。
それでも、
もう前と同じではいられない、
その予感だけが、静かに胸に残っていた。
===
それから数日、私は遥の中に、前よりもはっきりした「間」を感じるようになった。
言葉と言葉のあいだ。
歩く速度がそろうまでの一瞬。
何かを言いかけて、やめる沈黙。
それらはすべて、私に向けられている気がした。
ある午後、ゼミが早く終わった。
中庭に出ると、遥がベンチに一人で座っていた。
私に気づくと、軽く手を上げる。
「早かったんだね」
「うん。遥は?」
「待ってた」
その言い方が、胸に残る。
誰を、とは言わなかった。
でも私は、自分の足が自然と彼女のほうへ向かうのを感じた。
隣に座ると、距離はほとんどなかった。
触れていないのに、触れているみたいな近さ。
「最近さ」と遥が言う。「紗月の部屋のこと、よく思い出す」
「何もしない日?」
「うん」
遥は笑う。
でも、その笑い方は少しだけ真剣だった。
「落ち着いたんだよね。なんか……安心した」
私はうなずく。
同じ言葉を、胸の中で何度も繰り返していたから。
風が吹いて、遥の髪が揺れる。
私は反射的に、その先を押さえそうになって、手を止めた。
その仕草を、遥は見ていた。
何も言わずに、でも確かに。
「触ってもいいよ」
冗談とも、本気とも取れない声。
私は一瞬、息を忘れる。
「……いいの?」
「うん」
それだけだった。
私はそっと、遥の髪を指で押さえる。
絡まったわけでも、乱れていたわけでもない。
ただ、そこにあったから触れた。
指先に伝わる感触が、思ったより柔らかくて、
すぐに手を離してしまう。
「ありがとう」
遥はそう言った。
何に対してのありがとうなのか、分からなかったけれど。
そのあと、二人とも少し静かになった。
気まずさではなく、整える時間みたいな沈黙。
帰り道、駅まで並んで歩く。
いつもより、歩幅が揃っている。
改札の前で、遥は足を止める。
私は、先に行かない。
「ねえ、紗月」
「なに?」
「……今度、うちにも来る?」
唐突なのに、不自然じゃなかった。
私はすぐにうなずく。
「うん」
遥は安心したように息を吐く。
それを見て、私は確信する。
遥も、気づいている。
名前はつけていなくても、
もう前と同じ場所には立っていないことに。
電車に乗って、窓に映る自分を見る。
表情は、穏やかだった。
大きな変化は起きていない。
でも、戻る道は、少しずつ消えている。
それが怖くないのは、
一緒に進んでいるからだ。
私はつり革を握りながら、静かに思う。
次に会うとき、
もう少しだけ、近くに行ける気がしていた。




