第四話
しばらくすると、遥の体の力が、ゆっくり抜けていくのが分かった。
呼吸が一定になり、肩に預けられた重さが、ほんの少し増える。
眠りかけている。
そのことを意識した瞬間、私は身動きが取れなくなった。
起こしたほうがいいのか、このままでいいのか。
考えるふりをして、どちらも選ばない。
遥の前髪が、私の鎖骨に触れている。
その感触が、くすぐったくて、あたたかい。
私は無意識に息を浅くする。
「……紗月」
小さな声が、聞こえた。
夢の中なのか、現実なのか、分からないほど弱い声。
「なに?」と返す。
返事を期待していないことは、分かっていた。
遥は何も言わない。
ただ、私の肩に額を寄せる。
それだけで、胸の奥が静かに満たされていく。
私は、遥の髪を見つめる。
触れてはいけないと分かっているのに、
手が少しだけ、動いてしまいそうになる。
触れたら、何かが変わる。
そう思うから、触れない。
代わりに、私は体の力を抜く。
遥が落ち着いて眠れるように。
外から、遠くのサイレンの音が聞こえた。
現実が、まだ続いていることを知らせる音。
それでもこの部屋だけは、別の時間が流れているみたいだった。
遥の呼吸が、完全に眠りのものになる。
規則正しくて、無防備で、信じきっている呼吸。
私は思う。
この人は、私のことをどれくらい信じているんだろう。
友達として。
それとも、それ以上でも以下でもない何かとして。
答えは出ない。
でも、胸の奥にある気持ちは、否定できなくなっていた。
私は、そっと遥の肩に頭を預ける。
初めて、私のほうから距離を詰める。
それは、抱きしめるほどの近さではなくて、
でも、偶然とは言えない距離だった。
このまま時間が止まればいい、と一瞬だけ思う。
でも、止まらないからこそ、この時間は特別なのだとも分かっている。
遥は眠ったまま、少しだけ身じろぎする。
私の肩に、ぴったりと体重を預けてくる。
私は動かない。
この重さを、受け止める。
心臓の音が、うるさくならないように、
私はゆっくり呼吸をする。
この距離に、名前をつけてしまったら、
もう戻れない気がした。
だから今は、何も言わない。
何もしない日、のままでいる。
ただ、確かに分かっていることが一つだけあった。
私は、遥を手放したくない。
どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
カーテンの隙間から入る光が、少しだけ角度を変えている。
遥は、私の肩で目を覚ました。
一瞬、状況を理解できない顔をして、それから小さく笑った。
「……寝ちゃってた」
「うん」
「ごめん」
「いいよ」
それだけのやり取りで、十分だった。
遥は体を起こし、軽く伸びをする。
名残惜しそうでも、そうでなくてもない、いつもの遥だった。
「そろそろ帰るね」
「うん」
玄関まで見送る。
靴を履く遥の背中は、少しだけ現実に戻っている。
「今日は、ありがとう」
「何もしなかったけど」
「だから」
遥はそう言って、ドアを開けた。
振り返って、軽く手を振る。
私は手を振り返す。
ドアが閉まる音は、思っていたより静かだった。
部屋に戻ると、空気が少し広くなった気がした。
さっきまであった体温の名残が、クッションに残っている。
私はその場に座り込む。
何かを失ったというほど大げさじゃない。
でも、確かに一つ、満ちていたものが引いていった。
マグカップを片づけながら、
遥が口をつけた場所を、無意識に避けて洗う。
それが少し、もったいない気がして、洗い直す。
夕方になって、部屋が薄暗くなる。
電気をつけるほどでもなく、つけないと少し不安な、その境目。
私はベッドに腰掛けて、今日のことを思い返す。
何も起きなかった。
それなのに、心の中では、たくさんのことが起きていた。
私は、遥のことが好きだ。
そう言葉にしてみる。
声には出さない。
頭の中で、そっと置く。
その言葉は、思ったよりも軽くて、
でも、消そうとすると、ちゃんと重さを持っていた。
好き、というのは、
触れたいとか、独占したいとか、
そういうことだけじゃない。
一緒にいて、静かになれること。
何もしない時間が、足りていると感じられること。
私は、遥の寝顔を思い出す。
無防備で、信じきっている顔。
あの距離を、偶然だと言い切ることは、もうできなかった。
でも、すぐに何かを変えたいとも思わない。
急いで名前をつけると、
大切なものを壊してしまいそうだった。
窓を開けると、夜の空気が入ってくる。
昼間より、少し冷たい。
私は深呼吸をする。
心臓の音が、ようやく落ち着いてきた。
「好きだな」
今度は、声に出して言ってみる。
誰にも聞かれないように、小さく。
その言葉は、部屋に残って、
すぐには消えなかった。
私はまだ、遥に何も言わない。
言わなくても、今日の時間は嘘にならないから。
明日も、きっと普通に会う。
ベンチに座って、他愛ない話をする。
それでいい。
それがいい。
でも、私はもう知っている。
この気持ちは、なかったことにはできない。
部屋の灯りをつける。
夜が、ちゃんと始まる。
静かな部屋で、私は一人、
それでも確かに前より少しだけ、満たされていた。




