第三話
「何もしない日」は、思っていたよりあっさりやって来た。
前日の夜に雨が降って、朝にはすっかり止んでいた。空は白くて、予定を立てる気にならない色だった。
私は少し遅く起きて、カーテンを半分だけ開ける。
部屋の中に、やわらかい光が落ちた。
時計を見ると、まだ十時前。大学に行かない土曜日としては、ちょうどいい時間だ。
スマホを手に取ると、遥からメッセージが来ていた。
〈起きてる?〉
〈起きてる〉
〈今から行っていい?〉
〈うん〉
それだけのやり取りなのに、胸の奥が静かに動く。
急いで片づける必要もなかった。どうせ、遥は私の部屋の散らかり具合を知っている。
お湯を沸かして、マグカップを二つ出す。
コーヒーは入れない。遥は苦手だし、今日は苦いものを選ぶ日じゃない気がした。
インターホンが鳴る。
私はスリッパのまま玄関に行き、ドアを開ける。
「おはよう」
遥はそう言って、少し眠そうに笑った。
髪はまとめていなくて、肩にそのまま落ちている。いつもより私的な姿に見えて、私は一瞬、言葉を探した。
「おはよう。早かったね」
「目が覚めちゃって」
そう言いながら、遥は靴を脱ぐ。
その動作を見ているだけで、今日がもう始まっていると感じる。
部屋に入ると、遥はぐるりと見回した。
「変わってない」
「掃除してないから」
「それがいい」
遥は床に座り、クッションにもたれる。
私はマグカップを持って、その隣に腰を下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
窓の外で、遠くの車の音が聞こえる。
お湯の湯気が、ゆっくり消えていく。
「本当に、何もしないね」と遥が言う。
「そういう日でしょ」
「うん。悪くない」
遥はそう言って、目を閉じた。
私は横顔を見る。まつげが影を作っている。
この時間に、意味を持たせなくていいことが、少し不思議だった。
一緒にいる理由を説明しなくていい。
何かを決めなくていい。
私は、マグカップを両手で包みながら思う。
もしかしたら私は、こういう日を待っていたのかもしれない、と。
何も起きない。
でも、何かが静かに進んでいる。
そのことに、まだ名前をつけなくてもいいと思えた。
しばらくして、遥が目を開けた。
「喉かわいた」
「まだ残ってるよ」
そう言ってマグカップを指すと、遥は少し困った顔をした。
「それ、紗月のじゃない?」
「いいよ。気にしない」
一瞬のためらいのあと、遥は私のカップを手に取った。
飲み口に口をつける、その仕草がやけに丁寧で、私は視線を落とす。
「……甘い」
「砂糖入れすぎたかも」
「でも、嫌いじゃない」
そう言って返されたカップを、私はそのまま受け取る。
ほんの少しだけ、位置をずらして口をつける。
意味のないことだと分かっているのに、胸の奥が熱くなる。
遥はクッションに寄りかかり、足を伸ばした。
私の太ももに、彼女の足が軽く触れる。
「ごめん」
「いいよ」
どちらも動かなかった。
触れている部分だけが、はっきりと存在を主張してくる。
テレビをつけるでもなく、音楽を流すでもなく、
私たちはそのまま、同じ方向を見て座っていた。
「ねえ、紗月」
「なに?」
「こういうの、好き?」
こういうの、が何を指すのか、遥は説明しない。
でも私は、聞き返さなかった。
「……うん」
「そっか」
それだけで、会話は終わる。
でも、空気は終わらない。
遥が少し体勢を変えた拍子に、肩が触れた。
今度は、はっきりと。
私は反射的に息を止める。
「寒い?」と遥が聞く。
「ちょっとだけ」
嘘ではなかった。
でも本当の理由は、寒さじゃない。
遥は何も言わず、私の肩にそっと寄りかかる。
重さはほとんど感じない。
それなのに、全身がそれに意識を奪われる。
「こうすると、あったかい」
遥の声が、近い。
耳元で囁かれているわけでもないのに、距離の近さだけで十分だった。
私は動けなかった。
動いたら、この形が崩れてしまう気がして。
遥の髪が、私の頬に触れる。
くすぐったくて、でも避けたくなかった。
このまま、何時間でもいられる。
そんなふうに思ってしまう自分が、少し怖い。
「紗月の部屋、落ち着くね」
「……遥がいるからだよ」
言ってから、言いすぎたかもしれないと思う。
でも遥は、すぐには離れなかった。
「そっか」
短くそう言って、遥は目を閉じる。
私は、彼女の呼吸がゆっくりになるのを感じる。
友達同士なら、きっとここまでだ。
それ以上は、踏み込まない。
でも、今この距離は、
その境界線を、少しだけ曖昧にしていた。
私は天井を見つめながら思う。
この気持ちに、まだ名前はつけられない。
でも、戻れなくなるほど遠くへ行っている気も、しなかった。
ただ、今は。
この近さを、失くしたくないと思っている。
遥の体温が、確かにそこにあった。




