第二話
それから数日、私と遥の日常は特に変わらなかった。
朝の講義、昼の学食、夕方の図書館。どれも前から知っている景色で、だからこそ安心できた。
学食で、遥はいつものようにカレーを頼む。
私は迷った末にうどんを選ぶ。遥は私のトレーを見て、「それ、前も食べてたよね」と言う。
「そうだっけ」
「うん。雨の日はだいたいうどん」
そんなふうに覚えられていることが、少し嬉しい。
同時に、私も遥のことをどれくらい覚えているか、数えてみたくなる。
遥は、眠いときに語尾が伸びる。
暑い日はアイスコーヒーを選ぶけれど、半分くらいで必ず氷を残す。
人に頼られると断れない。
私といるときは、少しだけ静かになる。
それらを思い浮かべていると、胸の奥がやわらかくなる。
これは嫉妬とは違う、と私は思った。ただの親しさだ、と。
午後、ゼミが終わると、遥からメッセージが来た。
〈帰り、スーパー寄ってもいい?〉
〈いいよ〉と返すと、すぐにスタンプが届く。
そのテンポが、ちょうどいい。
スーパーでは、遥が真剣な顔でヨーグルトを選んでいた。
「どれが一番おいしいと思う?」と聞かれる。
「それは遥の好みでしょ」
「でも、紗月の意見も聞きたい」
二つを交互に見比べる横顔を見て、私は思う。
こういう時間が、ずっと続けばいい。
レジを出て、袋を持つ手が自然に入れ替わる。
重さを分け合うのが、当たり前みたいに。
帰り道、夕焼けがきれいだった。
遥は立ち止まって、空を見上げる。
「今日、いい日だったね」
「何が?」
「なんとなく」
理由のない「いい日」を、遥は大切にする。
私もそうなりたいと思った。
部屋に戻ると、遥は床に座って買ってきたものを並べる。
私はお湯を沸かす。
二人でいると、役割が自然に決まる。
夜、テレビをつけないまま、私たちは並んでアイスを食べた。
遥が「寒い」と言って笑う。
「じゃあ、なんで食べたの」
「今しか食べられない気がしたから」
その言葉に、私は少しだけ引っかかる。
今しか、という感覚。
それは、この関係にも当てはまるんじゃないか、と。
眠る前、布団の中で、遥がぽつりと言った。
「紗月といると、落ち着く」
「……私も」
それ以上、言葉は続かなかった。
でも、その沈黙は冷たくなかった。
私は目を閉じながら思う。
もし、この気持ちに名前をつけるとしたら、
それはきっと、誰かを失いたくない、という願いに近い。
まだ言葉にはしない。
けれど、確かにここにある。
===
それからも、私たちはよく一緒にいた。
約束をしなくても、気づくと同じ場所にいることが多かった。
朝の講義が早い日は、駅の改札前で待ち合わせる。
遥はいつも少し遅れてくる。走ってくることはなく、申し訳なさそうに小さく手を振る。その仕草を見るたびに、私は不思議と腹が立たなかった。
「ごめん、昨日ちょっと夜更かしして」
「何してたの?」
「動画見てた。どうでもいいやつ」
どうでもいい、という言い方が好きだった。
大事なことばかりじゃない時間を、遥はちゃんと持っている。
講義中、私はノートを取るふりをして、遥の字を盗み見る。
丸くて、少し右に傾く字。内容よりも、その形が頭に残る。
ペンを持つ指が止まると、遥は一瞬だけ天井を見る。その癖も、私は知っている。
昼休み、外のベンチでパンを食べる日もあった。
風が強くて、紙袋が音を立てる。
「飛ばされそう」と遥が言う。
「ちゃんと持って」
そう言って差し出した私の手に、遥の指が触れる。
一瞬だったけれど、私はその感触を必要以上に覚えてしまう。
「ありがと」
遥は何事もなかったようにパンを食べ続ける。
その自然さに、少しだけ救われる。
夕方、帰り道が同じ方向の日は、遠回りをする。
コンビニに寄って、どうでもいいお菓子を選ぶ。
遥は新しいものを試したがり、私は結局いつものを買う。
「変わらないね、紗月」
「安心するから」
「私も」
そう言われると、変わらないことが、少し誇らしくなる。
ある日、ゼミが長引いて、私たちは遅くまで大学に残った。
校舎を出ると、空気がひんやりしている。
「静かだね」と遥が言う。
「もうみんな帰ったんだね」
歩く音がやけに大きく響く。
私は、隣にいる遥の存在を、いつもよりはっきりと感じていた。
駅に着くと、反対方向の電車が先に来る。
遥はホームの端で立ち止まり、私を見る。
「じゃあ、また明日」
「うん」
それだけなのに、別れが少し名残惜しい。
電車が来るまでの数分、二人で並んで立つ。
「ねえ」と遥が言う。「今度、何もしない日つくろうよ」
「何もしない日?」
「うん。どこにも行かないで、だらだらする日」
私はうなずく。
その日が、未来のどこかに置かれる。
電車に乗り込む直前、遥は小さく手を振った。
私はそれを見送ってから、席に座る。
窓に映る自分の顔は、少しだけやわらいでいた。
何かを欲しがっている顔ではなく、
もう十分に持っている人の顔に近かった。
それでも、胸の奥にある気持ちは、静かに重さを増していく。
まだ形にはならない。
ただ、日々の中に溶けて、確かにそこにあった。




