表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

第一話

春の終わり、大学の中庭はいつも少し騒がしい。

昼休みになると、ベンチは誰かの居場所になり、誰かの居場所でなくなる。私はその端に座って、紙パックの紅茶を両手で持っていた。冷たさが手のひらに残るのが好きだった。


私の名前は相原紗月、文学部の三年生。特別に成績がいいわけでも、目立つわけでもない。自分のことを説明するとき、いつも言葉が足りなくなる。好きなものは静かな場所と、決まった時間に飲む紅茶。それくらいだ。


向かいのベンチに、宮野遥がいる。

遥は教育学部で、同い年。肩までの黒髪を無造作に結び、いつも少しだけ眠そうな顔をしている。笑うと目尻が下がる。誰かと話しているときの声は柔らかくて、聞いていると安心する。


私と遥は一年生の春から一緒だった。

最初は、履修登録のやり方を教えてもらっただけだったと思う。そのあと学食で偶然会って、雨の日に同じバス停で立ち話をして、気づけば隣にいるのが当たり前になっていた。


遥は人に好かれる。

それは努力ではなく、体温みたいなものだと思う。本人は気づいていないけれど、彼女の周りにはいつも誰かが集まる。今日もそうだった。


「遥ー、今度の飲み会さ、来るでしょ?」


遥の隣で、知らない女の子が笑っている。私は視線を逸らし、紅茶のストローを噛んだ。味が薄くなる。


「どうしようかな」

と遥は言って、私のほうを見る。

その一瞬だけ、目が合う。私は曖昧に笑った。


「無理しなくていいよ」


自分でも驚くほど、ちゃんとした声が出た。

でも胸の奥では、別の言葉が沈んでいた。

——行かないでほしい。

——私の隣にいてほしい。


そんなこと、言えるはずがない。


遥は私の言葉にうなずいて、女の子に「また連絡するね」と言った。女の子は軽く手を振って去っていく。その背中が見えなくなるまで、私はなぜか息を止めていた。


「紗月、今日このあと空いてる?」

遥が聞く。


「うん、特に予定ない」


それは本当だったし、嘘でもあった。

予定がない時間は、遥と過ごすために空けている。


「じゃあ、図書館寄ってから帰ろう」


「うん」


それだけの会話なのに、胸の奥が少し緩む。

私は自分が安心しているのが分かった。そして同時に、さっき感じたざわつきが、消えていないことにも。


歩きながら、遥の肩がときどき私の腕に触れる。

触れるたびに、心臓が一拍遅れる。

こんなふうに並んで歩くのは、もう三年目なのに。


——どうして私は、こんな気持ちになるんだろう。


友達なんだから、当たり前なのに。

遥が誰と話しても、笑っても、それは普通のことなのに。


私は、遥の横顔を盗み見る。

何も知らない顔で、春の光の中を歩いている。


このときの私はまだ知らなかった。

この小さな違和感が、ちゃんとした名前を持っていることを。


そしてそれを、いつか口に出す日が来ることを。


==


図書館は冷房が効きすぎていて、夏の始まりなのに少し寒い。

遥は入口で立ち止まり、私に「上着持ってきた?」と聞いた。私は首を振る。遥は自分のカーディガンを脱いで、何も言わずに私の肩にかけた。


「ありがとう」


そう言いながら、私は目を合わせなかった。

遥の匂いが近すぎて、落ち着かなくなる。洗剤と、少し甘い何かの混ざった匂い。前にも何度もこうして借りたことがあるのに、そのたびに新しい気持ちになるのが、少し怖い。


二階の奥、文学書の棚の前で、私たちは並んで立った。

遥は背伸びをして本を取る。私はその横で、背表紙を眺めるふりをする。触れそうで触れない距離が、ずっと続けばいいと思う。


「ねえ紗月、この作家、好きだったよね」


遥が一冊の本を差し出す。

私はうなずく。


「前に、好きって言った」

「そうだよね。なんか、紗月っぽい」


紗月っぽい、という言葉が何を指すのか、私は未だによく分からない。でも嫌いじゃなかった。遥の中に、私の輪郭がちゃんとある気がしたから。


閲覧席に座ると、遥のスマホが震えた。

画面を見る遥の表情が、ほんの少し変わる。柔らかくて、誰かに向けた顔。


私は本のページをめくりながら、その変化を見逃さない。

見てはいけないものを見ている気がして、でも視線を外せない。


「誰から?」と聞きそうになって、やめた。

代わりに、紙の音を立ててページを閉じる。


「どうしたの?」と遥が聞く。


「ううん、なんでもない」


私は嘘をつくのが、少しだけ上手くなった。

遥の前でだけは、嘘をつかないでいたかったのに。


遥はメッセージを打ち終えると、スマホを伏せた。

「ごめんね」と言って笑う。その言葉の意味を、私は測りかねる。


夕方になり、図書館を出ると空は薄い橙色だった。

並んで歩きながら、私は何度も言葉を飲み込む。

——さっきの人、誰?

——最近、楽しそうだね。

——私のこと、どう思ってる?


どれも口に出せなかった。


駅前で別れるとき、遥は手を振った。

私は振り返る彼女の背中を見ながら、胸の奥がじんと痛むのを感じる。


これは、ただの独占欲なんだろうか。

それとも、もっと別の——。


答えが出ないまま、私は帰りの電車に乗った。

窓に映る自分の顔は、少しだけ知らない表情をしていた。



全8話でお届けします。


この先の直接的な描写については、規約の関係上『ノクターンノベルズ』の方へ掲載していきます。R18版を読みたい方は、そちらをご確認ください。作品名「紗月と遥」、作者名「海良」で検索してください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ