第一話
春の終わり、大学の中庭はいつも少し騒がしい。
昼休みになると、ベンチは誰かの居場所になり、誰かの居場所でなくなる。私はその端に座って、紙パックの紅茶を両手で持っていた。冷たさが手のひらに残るのが好きだった。
私の名前は相原紗月、文学部の三年生。特別に成績がいいわけでも、目立つわけでもない。自分のことを説明するとき、いつも言葉が足りなくなる。好きなものは静かな場所と、決まった時間に飲む紅茶。それくらいだ。
向かいのベンチに、宮野遥がいる。
遥は教育学部で、同い年。肩までの黒髪を無造作に結び、いつも少しだけ眠そうな顔をしている。笑うと目尻が下がる。誰かと話しているときの声は柔らかくて、聞いていると安心する。
私と遥は一年生の春から一緒だった。
最初は、履修登録のやり方を教えてもらっただけだったと思う。そのあと学食で偶然会って、雨の日に同じバス停で立ち話をして、気づけば隣にいるのが当たり前になっていた。
遥は人に好かれる。
それは努力ではなく、体温みたいなものだと思う。本人は気づいていないけれど、彼女の周りにはいつも誰かが集まる。今日もそうだった。
「遥ー、今度の飲み会さ、来るでしょ?」
遥の隣で、知らない女の子が笑っている。私は視線を逸らし、紅茶のストローを噛んだ。味が薄くなる。
「どうしようかな」
と遥は言って、私のほうを見る。
その一瞬だけ、目が合う。私は曖昧に笑った。
「無理しなくていいよ」
自分でも驚くほど、ちゃんとした声が出た。
でも胸の奥では、別の言葉が沈んでいた。
——行かないでほしい。
——私の隣にいてほしい。
そんなこと、言えるはずがない。
遥は私の言葉にうなずいて、女の子に「また連絡するね」と言った。女の子は軽く手を振って去っていく。その背中が見えなくなるまで、私はなぜか息を止めていた。
「紗月、今日このあと空いてる?」
遥が聞く。
「うん、特に予定ない」
それは本当だったし、嘘でもあった。
予定がない時間は、遥と過ごすために空けている。
「じゃあ、図書館寄ってから帰ろう」
「うん」
それだけの会話なのに、胸の奥が少し緩む。
私は自分が安心しているのが分かった。そして同時に、さっき感じたざわつきが、消えていないことにも。
歩きながら、遥の肩がときどき私の腕に触れる。
触れるたびに、心臓が一拍遅れる。
こんなふうに並んで歩くのは、もう三年目なのに。
——どうして私は、こんな気持ちになるんだろう。
友達なんだから、当たり前なのに。
遥が誰と話しても、笑っても、それは普通のことなのに。
私は、遥の横顔を盗み見る。
何も知らない顔で、春の光の中を歩いている。
このときの私はまだ知らなかった。
この小さな違和感が、ちゃんとした名前を持っていることを。
そしてそれを、いつか口に出す日が来ることを。
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図書館は冷房が効きすぎていて、夏の始まりなのに少し寒い。
遥は入口で立ち止まり、私に「上着持ってきた?」と聞いた。私は首を振る。遥は自分のカーディガンを脱いで、何も言わずに私の肩にかけた。
「ありがとう」
そう言いながら、私は目を合わせなかった。
遥の匂いが近すぎて、落ち着かなくなる。洗剤と、少し甘い何かの混ざった匂い。前にも何度もこうして借りたことがあるのに、そのたびに新しい気持ちになるのが、少し怖い。
二階の奥、文学書の棚の前で、私たちは並んで立った。
遥は背伸びをして本を取る。私はその横で、背表紙を眺めるふりをする。触れそうで触れない距離が、ずっと続けばいいと思う。
「ねえ紗月、この作家、好きだったよね」
遥が一冊の本を差し出す。
私はうなずく。
「前に、好きって言った」
「そうだよね。なんか、紗月っぽい」
紗月っぽい、という言葉が何を指すのか、私は未だによく分からない。でも嫌いじゃなかった。遥の中に、私の輪郭がちゃんとある気がしたから。
閲覧席に座ると、遥のスマホが震えた。
画面を見る遥の表情が、ほんの少し変わる。柔らかくて、誰かに向けた顔。
私は本のページをめくりながら、その変化を見逃さない。
見てはいけないものを見ている気がして、でも視線を外せない。
「誰から?」と聞きそうになって、やめた。
代わりに、紙の音を立ててページを閉じる。
「どうしたの?」と遥が聞く。
「ううん、なんでもない」
私は嘘をつくのが、少しだけ上手くなった。
遥の前でだけは、嘘をつかないでいたかったのに。
遥はメッセージを打ち終えると、スマホを伏せた。
「ごめんね」と言って笑う。その言葉の意味を、私は測りかねる。
夕方になり、図書館を出ると空は薄い橙色だった。
並んで歩きながら、私は何度も言葉を飲み込む。
——さっきの人、誰?
——最近、楽しそうだね。
——私のこと、どう思ってる?
どれも口に出せなかった。
駅前で別れるとき、遥は手を振った。
私は振り返る彼女の背中を見ながら、胸の奥がじんと痛むのを感じる。
これは、ただの独占欲なんだろうか。
それとも、もっと別の——。
答えが出ないまま、私は帰りの電車に乗った。
窓に映る自分の顔は、少しだけ知らない表情をしていた。
全8話でお届けします。
この先の直接的な描写については、規約の関係上『ノクターンノベルズ』の方へ掲載していきます。R18版を読みたい方は、そちらをご確認ください。作品名「紗月と遥」、作者名「海良」で検索してください。




