8、ドレイのカチ
トマスから解放された翌日、突然の呼び出しに私は応接室へ行った。
どうやらトマスの使いが来ているらしい。
豪華な調度品が並ぶ応接室では、妙な静寂の中でマダムの穏やかな笑顔と執事風の男の渋い顔が向き合っていた。
私は隅に立つと、呼び出された理由が気になった。
マダムは静かに微笑み、使いは不機嫌に眉を寄せている。
『コンコン』
ノックの音に、無意識に体がドアへ向かって動いた。
マダムが頷くのを見届け、私は引き戸を開ける。
すると給仕奴隷とカルロさんだった。
彼の顔を見て私は少しだけホッとした。
給仕奴隷はテーブルにトレイを置き、一礼して出て行く。
私は軽く会釈して扉を閉め、元の隅に戻った。
カルロさんも、私の横に並ぶ。
マダムがカルロさんに視線を向ける。
それが合図だ。
カルロさんは一歩進み、トレイの布を外した。
トレイの上に、十枚ほどの金貨が五つの山に分けられていた。
見たこともないような大金だった。
カルロさんが布を畳みながら私に目を向けた。
そしてそっと微笑んでくれた。
私は少し照れながら、小さく微笑み返す。
「では、ご確認ください」
マダムが使いの男性にそう言うと、男性は何も言わずに金貨の山をトレイごと手持ちの鞄に流し込んだ。
「ふふ、トレイは含まれないから、返していただけますか?」
笑いながらマダムがそう言うと、使いの男性は顔をしかめ、はっきりと舌打ちをした。
すぐに、彼はトレイを乱暴にテーブルへと投げた。
使いの人が立ち上がった。
私は先に出口の扉に向かい、開けて差し上げた。
だが、待ちきれなかったのか、
「邪魔だっ!」
と、私を押しのけて出て行った。
一瞬、体がよろめいたが、すぐに立て直し、私は無言で礼をして見送った。
その後、静かに扉を閉める。
振り返ると、マダムが手招きしている。
「レヴィ、座りな」
「かしこまりました」
私は、速やかにマダムの傍らの床に膝をついて座った。
マダムは優しく私の頭に手を置きながら、
「さっきの金貨が、お前の値段だよ」
と言い、視線をテーブルのトレイに向けた。
びっくりはしたが、金額の大きさのせいで余り実感は湧かなかった。
マダムは置いた手で私の髪を撫でながら、
「デュアリスのサシャだって、あそこまでの高額にはならない。レヴィ、お前にその価値はあるかい?」
と、口の端を持ち上げる様にマダムは笑う。
私は頭をフル回転させて回答を探す。
平凡に過ごしてきた過去を顧みても、答えは見当たらない。
奴隷としても、きっとまだ未熟だ。
私に価値になんてあるんだろうか。
授かったスキルだって、クズスキルに過ぎないのだ。
「その、分かりません」
と、しどろもどろに答えるのが精一杯だった。
マダムの撫でる手が止まった。
心臓が早鐘のように鳴り、全身が強張る。怒られる……!
私は思わず目を瞑った。
「ふふ。身構える必要はない。アタシにも分からないからね。ただ、まあ、無駄ではなかったと、アタシが思えるよう頑張っておくれ。……しかしレヴィ?」
「……はい」
「痛みには、あんなに強いのに、怒られるのがそんなに怖いのかい?」
「はい、……とても怖いです」
私は素直に頷いた。
するとマダムは、私の鼻の頭を軽く押した。
「ふふ、そうかい。ここはもういい。部屋の移動が終わったら、今日はノーマの手伝いをしな」
「かしこまりました」
私は了承の意味を込め、深く頭を垂れる。
そして、部屋を出た。
私の価値……。
価値があったとして、どうやって示せるんだろう。
私は少しだけ立ち止まり、考えを巡らせた――。
――ノーマさんの仕事は、本当に忙しい。
午前中、特に予定がなければ、いつも奴隷の子たちに勉強を教えている。
十五歳未満の子には、とくに丁寧に、読み書きの基礎を何度もくり返す。
私もその教室の端っこに座って、手伝いという名目で混ざっている。
小さな子たちに交じって勉強するのは、ちょっとだけ恥ずかしい。
でも、奴隷に読み書きを教える理由は、単純だ。
それができるだけで、奴隷の有用性が跳ね上がる。
有用性が上がれば、値段も上がる。
値段が上がれば、同時に生存率も上がる。
午後になると、さらに忙しくなる。
娼館で使う消毒薬の製作に、奴隷たちの体調を確認する健診。
私は、ノーマさんの鞄を持って、そのあとをついてまわる。
すべてが終わってノーマさんが自室に戻ると、私は部屋の掃除に取りかかる。
診療ベッドのシーツも、このタイミングで取り替える決まりだ。
そのあいだ、ノーマさんは書類に目を通しながら、カリカリとペンを走らせている。
そして、私が諸々を終えると、ご褒美という名目で焼き菓子を一枚いただける。
これは私達二人だけの秘密だ。
ここ数日、私はノーマさん専属でお仕事をさせてもらっている。
そして今日も、焼き菓子をいただいた。
私は他の奴隷たちに申し訳ない気分になりながら、その焼き菓子を頬張る。
申し訳ないとは思うのだが――止められない。
これは魔性の食べ物なのだと、自分に対して変な言い訳をするところまでが一連の流れだ。
それからしばらくの間、忙しくはあったが、充実した日々が続いた。
だが、ある日――
「ノーマ! 急いでくれ!」
突然、カルロさんが奴隷を抱えてノーマさんの医務室に飛び込んできた。
その奴隷は、見たことのない顔だった。
次の瞬間、ノーマさんが言った。
「レヴィ、お湯を沸かして。必ず沸騰させてちょうだい」
「畏まりました!」
私は備え付けの魔石炉で、お湯を沸かす。
その間、運び込まれた奴隷はベッドに寝かされた。
血だらけの少女、おそらく私と同じくらいの歳だ。
ノーマさんがナイフで手早く服を裂くと、脇腹には大きな裂傷があった。
そして、酷い出血だ……。
次の瞬間、私は目を疑った。
ノーマさんが、その奴隷の裂傷に指を差し込んだのだ。
「うぅッ」
奴隷の少女が唸る。
「……ないわ」
ノーマさんが、言葉を絞り出すように言った。
ないとはどういうことだろう。
この状況がまったく理解できなかった。
カルロさんは顔を歪めている。
そしてノーマさんが静かに首を横に振った。
「サシャがいても駄目ね。根元からないわ」
サシャさんのヒールでは、欠損は治らないと聞いたことがある。
本来お腹の中にあるはずのものが、“ない”ということだろうか。
それからすぐ、奴隷少女の息遣いが消えた。
「残念だけど」
ノーマさんが静かに告げる。
『カタカタ』
と、お湯が沸き、鍋の蓋が踊る音が響いた。