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6、シアワセのカタチ

 春の余韻をわずかに残す初夏の風が、ミモザの庭に咲くジャスミンという花の香りを運んだ。

 甘く淡いその香りが、私の鼻先をくすぐる――。

 

 

 奴隷館での生活も一ヶ月が過ぎていた。

 辛いときもあったけど、あっと言う間だった。

 

 今日、私はトマス様の元へ行く。

 かつての幼馴染は、今や私のご主人様だ。

 トマス様はなぜ、変わってしまったんだろう。

 スキルのせいなのか、何度も考えた。 

 けど、わかったところで、たぶん何も変わらない。

 

 これからは、このミモザで学んだ、生きるための技術を実践していく――。

 

 

「そっかぁ、レヴィは貰い手が決まってる奴隷なんだ?」

 朝食中、いつものようにミルと会話する。

「ミルは違うの?」

「私はね、この館の所有物だからね」

 ああ、そういう場合もあるのか。

 思えばミルのスキルは調香師。いつもあの香りには癒された。

 館の所有物というのも納得だ。

 

『この館って、いろんな顔があるんだよ』

 私が来たばかりの頃、ミルがそんなふうに話していた。

 娼館としての顔、奴隷を育てる教育所としての顔、奴隷を売買する商店としての顔、そして貸し出す賃借主としての顔――。

 私はその中で、“教育される奴隷”としてここにいたんだ。

 

 

 ここでの最後の朝食。

 パンをスープに浸しながら、ひと口、またひと口と口に運ぶ。

 今日でこの静かな朝食が終わると思うと、胸が締めつけられるような寂しさがある。

 ミルの顔をぼんやりと眺めながら、手元でパンを切り分ける指の動きがどこか無意識でぎこちなく感じる。

 最後のひとときだとわかっているから、何度も何度も手が止まる。

 

「うん?」

 ミルが微笑んで首を傾げる。

「ううん、何でもない」

 笑顔で返したけれど、本当は“寂しい”と伝えたかった。

 けれど、それを口にすれば、きっともっと辛くなると思った。

 

 

 もちろん、辛い事もあった。

 調教の中で一番つらかったのが、護身術だった。

 護身術と言っても戦うわけじゃない――。

 

「レヴィ、いい? 主人や主人と同等の人たちの中には、奴隷をいたぶる事が好きな人もいるんだ。そう言う時、どうするか。今日はそれを教えるからね」

 大理石の床に正座する私に、マダムが言った。

「はい、よろしくお願いします」 

「じゃあ、服を脱ぎなさい」

「かしこまりました」 

 言われるままに、私は服を脱ぎ傍らに畳んだ。

「土下座」

 私は直ぐに頭を地面にこすり付けた。

 その時だ。

『ビシィッ』

 突然、背中に鋭い痛みが走り、全身が硬直して息が詰まる。

 背筋を伸ばすどころか、無意識に肩が丸まり、身体も小さく縮こまる。

 私は、耐えなきゃ、そう自分に言い聞かせ、歯をぎゅっと食いしばった。

 

「そう、一度目は我慢でもいい。けど、問題はその後だ。いたぶる事が好きな主人には二通りあってね? のたうち回る奴隷を見るのが好きな主と、奴隷を叩いて“自分が正しい”と思いこみたい主。あるいはその両方だ」

『ビシィッ』

 また鞭が、私の背に落ちた。

「叫んで、のたうち回りながら謝罪」

「はぎぃ、お許しぃくださぁい!」

 私はのたうち回った。

 もちろん演技じゃない。本気で痛くて、本気の謝罪だ。

 

「よし次だ、こっちが難しい。いいかい? 鞭を受けながら、涼しい声で、お礼を言うんだ。早く出来ないと、今から何発も鞭を受ける事になるからね。ほら土下座」

 のたうち回っていた私は、言われて直ぐ土下座する。

『ビシィッ』

「ひぎぃ」

「ダメ、声を出すな、出すなら優雅にお礼」

『ビシィッ』

「ありがどぅござ……び……ます」

「ダメ、上ずってる」

『ビシィッ』

「ありがとうございます!!」

「ダメだ。叫ぶな」

『ビシィッ』『ビシィッ』『ビシィッ』

 直ぐにはとてもできなくて、何発も鞭を“いただく”うち、私は意識を手放していた。

 

 その夜は痛みがひどく、高熱が出た。

 マダムは私のベッドの横で、ずっと頭を撫でていてくれた。

 夜半にはサシャが現れ、私の背中をヒールで癒してくれた。

 私は起き上がってお礼をしようとしたが、マダムは私を抱きしめて、

「今はそのままでいい。辛いな、でも頑張るんだよ」

 と、耳元で囁いてくれた。

 私は、それだけで十分幸せな気持ちになれた。

 

 

 

『ビシィッ』

「ご指導、ありがとうございます」

「よし、上出来だ」

 微動だにしない、なんてことは出来ない。

 けれど、受け止め、きちっとお礼を言う。

 ここまではできる様になった。

 

 マダムは本当に嬉しそうに私を抱きしめてくれた。

 抱きしめられるたび、私は何でもできるような気がするのだ。

 

 ――そんな一ヶ月の思い出。

 

 朝食を終えると、私は化粧室へと呼ばれた。

 ここは娼館の奴隷たちが、身じたくをする場所だ。

 

 私は鏡の前に座らされ、レリンさんに化粧をしてもらう。

 レリンさんは娼館のマネージャーで、【化粧士】のスキルを持っている。

 長い金髪の女性だけど、いつも口より上を仮面で隠していたから素顔は見たことがない。

 それに娼館にはあまり来る事がなかったから、あまり喋った事もない。

 

 レリンさんは薬指で紅を取ると、私の唇に引いた。

 鏡に映る私の表情は、赤色が差して華やかになった。

 レリンさんは仮面の下の瞳を細め、かすれた声で言う。

「美人だね」

 私は、素直に嬉しかった。

 

 化粧を終えると、今度は上等な布で縫われたドレスを着せられた。

 露出は少し多くて恥ずかしくもあったけど、自分まで上等になった気分だった。

 

 それからミモザの正面入り口、エントランスの大理石の床に座らされた。

 御主人様が見えたらすぐにお礼をするよう教わった。

 私はいついらっしゃっても良いように、床に手を付いて待つ。

「来たら、教えてあげるから、今はリラックスしてな」

 そうマダムがエントランスの上の階から降りてくる。

 私は頷いて少しだけ姿勢を崩し、膝に手を置いて待つことにした。

 

 マダムはそんな私の傍らに立ち、眺めながら整えられた私の髪を極力崩さないように撫でる。

 

「マダム。私、この一ヶ月、とても幸せでした」

 本当の気持ちを口にすると、マダムは目を細めて微笑んだ。

 

「嬉しい反面、それは――悲しいことだね」

「悲しい……のですか?」

 自分でも不思議だった。

 あの厳しさの中に、たしかに私は幸福を感じていたはずだった。

 けれどマダムは、私の耳の輪郭をそっと撫でながら、静かに言った。

 

「……ここで幸せだと思えるってことはね。

 それはもう、心まで奴隷になったってことさ」

 

 その言葉が、胸の奥に重く沈み、思わず指先が膝を強く握っていた。

 痛みが胸に広がり、ひとしきりその重さに耐えた後、静かに息といっしょに意味を飲み込む。

 その瞬間、胸の中で何かが少しだけ砕けた気がした。

 

「調教士としては、嬉しいさ。あんたは本当によくやった。

 だけどね、それは決して褒め言葉じゃない。

 “それでいいのか”って、私は今も、自分に問い続けてる」

 

 マダムの手が、整えられた私の髪を崩さないように、もう一度そっと撫でた。

 

「願わくは、今後――愛されて生きてほしいと思ってるよ。

 ……お前に、幸せがあらんことを」

 それは優しい祈りだった。

 

 私はくすぐったくて目を細める。

 するとマダムが正面からそっと私の顔を覗きこんだ。

 その瞳は、どこまでも静かで、優しかった。

 そしてマダムから微笑みがこぼれる。

 

 ――この微笑みこそが、私にとっての幸せなのだ。

 だから私は、そっと微笑み返した。

 

 

 ――私は大理石に座して待っている。

 正午を過ぎ、そしてそのまま夜になった。

 初夏とはいえ、夜になるとまだ寒くて、大理石に体温が奪われている。

 

 しびれを切らし、マダムがトマス様の屋敷に使いを向かわせた。

 その日、トマス様は現れなかった。

 

 使いは戻って来るなり、マダムの耳元で呟いた。

 静まり返ったエントランスで、使いの小声が私にも聞こえた。

「忘れていた。との事でした」と。

 

 

 マダムに化粧を落とすようにと命じられたとき、胸の奥で何かがほどけた気がした。

 待つあいだに、私は知らず知らずのうちに、身体を緊張で固くしていたのだ。

 ほっとする。

 でも、それはきっと喜んではいけない種類の安堵だ。

 喜んではいけないのはわかってる。

 けれど、私はもう一日、館にいられる事になったのが、とても嬉しかった。

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