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5、ザイ人ドレイ。

 私は命じられて、エントランスの大理石の床を磨いている。

 

 単純作業は嫌いじゃない。考え事ができるから。

 水拭きした床に、自分のぼんやりした顔が映り込む。

 今、こんな表情してたのか。

 まるで、自分の顔なのに少しだけ知らない人みたいに思えた。

 

 私は、ここへ来てからの数日間の出来事を反芻する。

 

 

 三日が経ち、歩けるようになった。

 足に打ち込まれた杭の辺りが、ときどきズキリと痛むけど、転んだりぶつけたりする普通の怪我とは明らかに違って、身体の奥深くに異物が突き刺さっているという、生々しい痛みだ。

 その痛みは、体だけでなく、心の奥にも響く気がした。

 だけど右手の痺れるような痛みに比べれば、全然まし。

 とにかく歩けるというだけで、今はただただ嬉しかった。

 

 ただ一つだけ残念なのは、カルロさんの送り迎えがなくなったことだ。

 

 さりげなく優しく扱ってくれるカルロさんの存在が、自分の中で想像以上に大きかった。

 だから、なくなることが寂しく感じた。

 多分、あまりにもさりげないからこそ、余計に心に残るんだと思う。

 

 それと、部屋も奴隷部屋へと移された。

 雑魚寝を想像していたけど大違いで、狭いけど個室だった。

 もちろんベッドは狭くて、毛布も粗末なものだったけど、それでも自分の空間を貰えたことが嬉しかった。

 

 

 五日目を迎える頃には、完全に歩けるようになった。

 多少違和感はあったけど、全然痛みは感じない。

 

 そして奴隷として、調教が始まったのも五日目だった。

 

 右手の怪我のため、労働的調教は免除されたが、その代わりに奴隷としての立ち居振る舞いや挨拶など、座学を中心に徹底的に教え込まれた。

 

 主人に対する挨拶の仕方や、人の傍に立つときの位置、謝罪の仕方。

「かしこまりました」

「ありがとうございます」

「申し訳ございません」

「ご指導、ありがとうございます」

 私は大理石の床に頭をこすり付けながら、発声を意識して、何度も練習させられた。

 しっかりできれば、ちゃんと褒められる。

 だから、私は褒められるために必死で努力した。

 

 七日目の朝、私はいつものようにミルと小声で会話しながら食事をしていた。

 そこへ、カルロさんがやってきて、「マダムの部屋に来るように」と告げた。

 なんの御用だろう? 私は急いで食事を終え、マダムの部屋へ向かった。

 

 マダムの部屋は、娼館側の奥にある。

 扉の前で一度、ゆっくりと深呼吸をしてから、静かにノックした。

『コンコン』

「レヴィ、参りました」

「入りなさい」

 声が返ってきたのを確認し、私は静かに扉を開け、部屋に向かって一礼する。

 中に入ってから、そっと扉を閉め、もう一度マダムに一礼。

 それから、慎重に進んだ。

 マダムはソファで寛いでいる。

 私は傍らに立ち、もう一礼した状態で問いかける。

「お呼びでしょうか」

 

「レヴィ、座りなさい」

 マダムはソファの隣をぽんぽんと軽く叩きながら言った。

 命令は絶対だ。

「かしこまりました」

 私は素直に返事をして、マダムの隣に静かに腰を下ろした。

 

 その時、私は初めて部屋の隅に誰かがいることに気づいた。

 そこに立っていたのは、背の高い女性だった。

 奴隷服を着ていることから、彼女も奴隷なのだと分かる。

 けれど、食堂では見かけたことがない顔だ。

 それに、彼女の首には、私たちにはない首輪がはめられていた。

 顔立ちは整っていて、切れ長の鋭い目をしている。

 館にいる他の奴隷たちとは、どことなく雰囲気が違って見えた。

 

 

 マダムは私の右手首を掴み上げ、包帯を外した。

 べったりと軟膏が塗られ、内出血で変色した手を眺めながら、マダムは言った。

「痛い?」

 人差し指で軽く触れられる。

「いいえ。今は薬が効いているので」

 実際、見た目ほどの痛みはなかった。

 ノーマさんの処方してくれた薬のおかげだ。

 ちなみにノーマさんは、【医術】というスキルを持っているらしい。

 

「サシャ、これなんだけどね、治せるかい?」

 マダムは部屋の隅にいる奴隷に声をかけた。

 サシャと呼ばれた女性は、腕を組んだまま近寄ると、そのまま腰を屈めて、私の右手を覗き込んだ。


 挿絵(By みてみん)


「跡を完全に消すのは無理。けど、普通に使える程度には治る」

 私はサシャさんの言葉遣いに驚いた。

 まず、私たちとは明らかに違う。

 どこか横柄で、目つきも尊大に思える。

 マダムに対しても、あまり礼儀正しくもなければ、媚びた様子もない。

 

「じゃあ、治してちょうだい」

 マダムの言葉にも、サシャさんは返事をしなかった。

 ただ無言で私の手を取ると、呪文のような言葉を唱えた。

「|Greater Salisグレータ・サリス

 その瞬間、部屋の空気が微かに震え、温かな気配が漂った気がした。

 私の手のひらの周りに、ほんのりと光の粒子が現れ、内出血した部分を包み込んだ。

 痛みが消えていく。

 次第に私の手は、元の色を取り戻していく。

 

 

 サシャさんは、捨てるように私の手を離した。

 歪な形までは治らなかったが、それでもしっかりと握りこめるほどに回復している。

 

「すごい」

 私の素直な感想が漏れた。その言葉が部屋に響いた瞬間、マダムが私をじっと見つめている。

 

「あ、」

 そうだ、忘れていた。

 私は直ぐに、床に降りて座り、頭を床にこすり付けた。

 

「ありがとうございます」

 マダムの手が、私の頭にそっと乗せられる。

「はい、よくできました。下がっていいよ」

 私はそのまま姿勢を保ち、うなずきながら膝を擦るように下がり、そして立ち上がった。

 

 

 するとサシャはつまらなそうに顔を背け、部屋の隅へと戻って行った。

 

 その無愛想な態度に、私は思わず目を向けるが、すぐに視線を外す。

 やっぱり、サシャの態度は不思議だ。

「失礼いたします」

 私は来た時と同じように、ゆっくりと礼をしてから部屋を後にした。

 

 

 夕食が終わると、私たちは桶に一杯のお湯をいただく。

 それでその日の汚れを落とし、就寝するという流れだ。

 

 私はお湯をいただきに給湯部屋の入り口に並んだ。

 前には三人ほど順番待ちをしている。

 私の番が回ってくると、

「お湯をいただきにまいりました」

 と、声をかける。

 

 

 その晩はカルロさんが給湯係をしていた。

 炉にある火の魔石は赤々として、本物の火のように揺れながら、大きな鍋でお湯を温めている。

 

 ちょうどいい温度でできあがるお湯を受け取るため、私は桶を両手で差し出し、頭を下げた。

 

「手、治ったのか。ちっと見せてくれよ」

 カルロさんが声をかけてきた。

 ちょうど私の後ろに並ぶ人はいなかったので、私は桶を小脇に抱え、右手を差し出した。

 カルロさんは私の手を掴むと、じっと手の甲を見つめながら、

「やっぱり、骨の形までは治らんか」

 と言って、私の手をひっくり返し、今度は手のひら側を眺めていた。

 

 

「あの、カルロさん」

「んー?」

「サシャさんは奴隷なのでしょうか」

 私は控えめな声で問いかける。

 正解が分からなかったから、すこし変な質問になった自覚はある。

 

「ああサシャか、あの娘は、お前たちと違って“罪人奴隷”だからな。首輪してたろ?」

「あ、はい」

 首輪をしている人が罪人奴隷なのか。

 初めて知った。

 

「罪人だが、……アイツは特別でな、マダムのお気に入りだから多少甘やかしてる節はあるな。なんせ“デュアリス”だからな」

 デュアリス?

 聞き慣れない言葉だ。

 前世が、異世界からの転生者ということかもしれない。

 

「あの……」

 好奇心から言葉が出かけたその時、

「お湯をいただけますでしょうか」

 と、背後から声がかかる。

「あ、ごめんなさい」

 私は慌ててカルロさんの手から逃れ、深く礼をして立ち去った。

 何となく、深入りした質問をしたことが、奴隷という立場で悪いことのように感じてしまったからだ。

 

「おーい、お湯っ」

 カルロさんの声が、私の背中に投げかけられる。

 逃げるように立ち去る必要はなかったとは思う。

 だから、ちゃんと明日謝ろう。

 

 

 その夜から、お湯をいただけなかったので汗は拭き取れなかったが、もう痛みに起こされることはないから、ゆっくり眠ることができた――。

 

 


 

 ――今日も、私は大理石の床を磨いている。

 

 私はただひたすら、床を磨き続ける。

 こびりついた汚れを、静かに、丁寧に、ひとつずつ落としていく。

 心の隅に居座るサシャさんの影を、そっと撫でるようにして。

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