4、ドレイ館ミモザ
奴隷館ミモザ。
館の主はマダムスカーレット。
何人かの従者と、十名ほど奴隷がいる。
御香のおかげなのか、私はいつの間にか眠っていた。
――夢ならよかったのに……。
もしかしたら、まだ夢の中なのかもしれない。
そうであってほしいと、ゆっくりと視線だけで辺りを見渡す。
見慣れない天井と壁。
微かに漂う御香の香り――それが現実と夢の境界を曖昧にしている気がする。
そっと息を吐き、左腕をゆっくりと動かした。
布の感触を確かめながら体を少し起こし、くるぶしへと手を伸ばす。
届いた人差し指に、肌とは違う硬い鉄の感触が伝わる。
微かな凹凸がざらつく。
途端に、息が詰まって、希望的思考が留まった。
『あぁ、やっぱり現実なのか……』
そう、否応なく自覚させられた。
天鵞絨のカーテンがふわりと持ち上げられた。
その瞬間、朝の柔らかな光が室内へとなだれ込み、薄暗かった部屋を一瞬で染める。
私は思わず目を細めながら、光の方へ視線を向けた。
そこには知らない男性が立っていた。
シャツをルーズに羽織り、腰にはショートソードがぶら下がっている。
ちらりと覗く肌は引き締まっていて、ただ立っているだけで存在感がある。
「レヴィお嬢様。お食事の時間ですよ」
そう言いながら、男性は私をひょいと抱え上げた。
突然のことで戸惑う私を見て、彼は顎髭のある顔で、片目を瞑って微笑んだ。
「洒落だよ。まあ、大事な商品だから、丁寧に扱うのは当然だけどな」
「あ、いえ、そうじゃなくて……」
「ああ、俺はカルロ。この館の用心棒兼雑用だ」
「カルロ様……? えっと……今からどこへ?」
困って言葉を探しながら尋ねると、カルロは肩をすくめて笑う。
「聞いてなかったのか? 食堂だよ。それと、俺は主人じゃないから“カルロさん”でいいぜ」
「……はい、分かりました」
抱え上げられるなんて初めてだから、なんだか気恥ずかしくて顔が熱くなった。
「おはようございますカルロさん」
「おっす」
「おはよう! カルロさん!」
「昨日は激しかったな。おはようさん!」
「もう」
「ははは」
私を抱いて進むカルロさんに、途中途中で声がかかる。
部屋から顔を出した女の人は、たぶん奴隷たちだ。
気さくな会話が交わされていて、少し不思議な感じがする。
「ん? どうかしたか? ああ、ここは娼館でもあるからな。レヴィは怪我をしてたからここのベッドに寝かされたが、本来こっちは寝られない場所だって覚えておけよ?」
あの寝心地の良いベッドはそういう理由だったのか、納得した。
そして、楽しげに笑う奴隷たちの表情を見て、やっぱりどこか不思議な感じがする。
そのままカルロさんは、開けっ放しの扉をくぐる。
そして私を長机の端、邪魔にならない最奥の席にそっと座らせてくれた。
周囲を見回すと、質素な服を着た奴隷の女性たちが食事をしている。
ここが食堂か。
ほどほどの広さで、壁は素朴な木目のまま。
装飾は控えめで、質素すぎず華美でもない感じ。
長机が並び、シンプルな食器が置かれている。調理場の奥からは、スープのような匂いがほのかに漂っていた。
カルロさんは私の頭に軽く触れると、
「お嬢様、今持ってくるから待っててな」
と言いながら部屋の隅へ向かった。
カルロさんが、食器に何かを入れる様子が見える。
その間、聞こえるのは食器が触れ合うカチャカチャとした音、それより小さな話し声。
誰かのすすり泣く声もある。
程なくして、私の前にトレイが置かれた。
そこには、ありふれた黒パンと、それを浸すためのスープが並んでいた。
私はカルロさんを見上げた。
「あの、食べてもいいのでしょうか」
「うん? お前の分だからな。まあ、食い物は普通だ。良くも悪くもない。しいて言うなら、高級なものは一切ねぇぞ。良い物になれると辛いのは、奴隷達だからな」
カルロさんの言葉を聞き、私はパンとスープを眺めて思った。
これが当たり前の食事なのか。
叔父夫婦の家で出されていた食事よりも、見た目も香りもずっといい。
「食べ終わった頃に迎えに来るからな。ちゃんと食べるんだぞ」
カルロさんはそう言い、私の頭を軽く撫でてから食堂を出て行った。
しばらく扉の辺りを眺めていたら、入ってきた女の子と目が合った。
私は視線を外してパンをちぎり、スープに浸した。
すると、さっき目が合った女の子がトレイを持って隣に座った。
「ねぇ、あなたの名前は?」
おそらく、私と同じくらいの年齢だろう。
「はい、あの、レヴィです」
「よろしくね、レヴィ。あたしの名前はミル。タメ口でいいよ。私も奴隷だから、でも……」
そう言ってミルは周囲を見渡してから、
「怒られるかもしれないから、会話は小声でね?」
と笑った。
私はスプーンで浸したパンをすくい、
「うん。よろしく」
ミルの笑顔につられ、私も微笑む。
食事が楽しいと感じるのは、久しぶりだった。
誰かと話しながら食事をするのは、あまり経験がなかったからだ。
ミルは、まず自分のことを話してくれた。
貧しい農村で育ち、親に売られたこと。
ここでは、奴隷専用の天賜の儀式があることも教えてくれた。
そして、彼女のスキルが【調香師】だということも知った。
すぐに気が付いた。
あの安らぐような香りの正体。
「あ、じゃあ、あの甘くていい匂いって」
「そうよ、私が作ったの」
ミルは得意げに笑う。
彼女のスキルは、この場所で生かされている。
なぜかそれが羨ましく思え、私は包帯を巻いた右手を見つめた。
それから、私も自分の生い立ちや、奴隷になるまでの経緯を話した。
するとミルは眉をひそめ、口をへの字に曲げて言った。
「その幼馴染、ほんと最低! なんか気持ち悪い!」
私も同感だった。
事実とはいえ、人の悪口を言うのは楽しくて、共感されたことがとても嬉しかった。
カルロさんが迎えに来た。楽しくて、時間がすぐに過ぎた気がする。
私がカルロさんに抱きかかえられると、ミルがこっそり手を振る。
私もそっと手を振り返す。
さっきミルに『小声でね?』と言われた理由、それは奴隷の交流があまり推奨されていないからだと思う。
でも、カルロさんは見逃してくれた。
なぜそれが分かったかというと、カルロさんは手を振る私を横目で見てから、ふっと微笑んだからだ。
私は、カルロさんのことも少し好きになった。
その後、浴場に運ばれた。
まだ午前中だとは思うけど、館の中は静かな感じだった。
天気は良くて、窓の外の光が少し強くなった気がする。
カルロさんは、私を大きな浴槽の縁に座らせると、浴場を出て行く。
私は、出て行くカルロさんの背を目で追う。
置いて行かれるのが少し不安だったのだ。
すると、今度は桶を手に持った長い黒髪を後ろで束ねた女性が入ってきた。
そして、私の顔を覗き込んできた。
「顔立ちはまだ幼いけど、悪くは無いわね」
キョトンとしている私に、その女性はにっこり微笑み、私の服の腰紐を解き、そのまま服を剥ぎ取った。
その動作があまりに自然だったので、私はつい見入ってしまったが、
「あ、あれ? あのっ」
服を脱がされていることに気づき、遅れて恥ずかしくなった。
「はいはい、騒がない。ここはお客用だからね、手間をかけさせないでね」
と言われて、私は大人しくするしかなかったのだ。
さっきは娼館の客室で、今度はお客様の浴場なのか。
恥ずかしさを感じながらも大人しくしていると、肩からお湯が掛けられた。
熱すぎず、ぬるすぎず、それは驚くほど心地よい湯加減だった。
その後、いい香りの石鹸で体が丁寧に洗われていく。
「大人しいのね。奴隷になったばかりの子は大抵暴れるか、泣くかよ。死にたがる娘もいるわね」
と、女性が言った。
そして私の体を丁寧に洗いながら確認しているようだった。
普通は“暴れるか、泣くか”なのか。
言われて初めて、そういうものか、と思った。
私には、まだ現実味がないのだ。
「あの、想像してるのと、少し違って、もっと“ひどい”扱いを受けるかと……」
「ああ、なるほどね。もちろん、ひどい扱いを受けることもあるわよ。 それよりも、未来が無いことが一番つらいんじゃない?」
「……ああ、そっか」
言われて気が付いた。
そして気づくたびに、現実味が少しずつ増していく。
私に突きつけられた現実が、“私には、もう奴隷と言う未来しかないのか”と、静かに語りかけてくる。
「あなた、まるで他人事みたいに言うのね。ああ、私はノーマ。あなたたちの体調管理が仕事よ」
私の体を隅々まで洗い流し、ノーマさんはハサミを手に持った。
「特に指定はないから、髪を整えるわね」
『シャクッ』
ハサミの通る音が耳元で聞こえた。
そして、遅れて髪束が床に落ちた。
黒くて艶やかな長い髪は、私の誇りだった。
思い出の中の母親も、髪が長く艶やかな黒色だったのだ。
荷物に詰め込んだ母さんの髪飾り、あれはどこに行ったんだろう?
でも行方が分かったところで、もう髪は長くないのだから必要ないか。
そう納得した瞬間、涙が溢れて止まらなかった。