29、カンジナイ
スキル成功から三日、万全の状態でこの日を迎えた。
私は、深く息を吸ってゆっくり吐き出す――。
サシャさんの体調は、以前より悪化している。
お腹の子供が成長していくにつれ、サシャさんが衰弱しているのだ。
おそらく魔力的負担が増加しているからだ。
このままいけば母子ともに、最悪の状態に陥ることになる。
だから、今日、決行する。
部屋には張り詰めたような沈黙が満ちている。
皆の緊張が、肌で感じるほど伝わってくる。
マダムとノーマさん、そしてトウマさんが見守る中、私は息を整える。
「サシャ。アンタと子供を助ける方法は、これしかない」
マダムはベッドの傍らからサシャさんに向けて言った。
サシャさんはわずかに微笑み、絞り出すような声で返した。
「ん。意外だった」
「何が意外だったんだい?」
ベッドのサシャさんの視線がまっすぐマダムを見上げている。
「子供は見捨てられると思った」
「……。ああ、もちろん。恨まれる覚悟でそうするつもりだった」
マダムの、あけすけな言葉は間違いなく本音だ。
「けどね、レヴィが希望をくれた。ノーマに診察してもらったんだがね、レヴィの足にあった杭は完全に“なかったこと”になっていた」
と、マダムが私に視線を向けた。
私は、片足をベッドの高さに持ち上げ、サシャさんに杭のなくなったアキレスの窪みを撫でて見せた。
「なんか、片方ないと変な感じですけど」
サシャさんの息が少し荒い。そして辛そうなのに微笑みながら、目を瞑って頷いた。
「ん。レヴィ、お願いします」
トウマさんの視線も同時に私に向けられていた。
「どうか、サシャを頼む」
私はありったけの笑みで頷き返した。
「はい! 畏まりました!」
以前、私が足で試した時、とても苦しかったことは覚えている。
けれど私はいつの間にか気絶していた。
つまり痛みの限界で、意識が落ちてしまえばなんとかなる。
だけど、私は何か大事なことを忘れている気がしていた。
それをなんとか思い出そうとしても、忌々しい幻聴にかき消されたのか、意識が途切れたこと以外は思い出せない。
だけど、考えても分からないことは後にしよう。
今は少しでも急がなくてはいけないのだ。
『ぱんぱん』
私は、気合を入れるため自分の頬を挟むように叩いた。
「では、行きます」
私は、サシャさんの服の紐を解き、合わせを開いて胸を覗き込んだ。
美しかったサシャさんの胸はやせ細り、今は肋骨が浮いて見える。
杭を確かめるために、指先を当てる。
ひやりと冷たい金属の感触と、その下で懸命に鼓動するサシャさんの温かさが、指先から伝わってきた。
そして、杭はしっかりと認識できた。
冷静に、冷静に、私は息を吸い、そして吐き出す。
深呼吸の後、私は目を閉じ、文字の羅列を呼び出した。
カチ
【拳打レベル3:任意の物を消し去る程度の能力:発動しますか? >>>はい】
標的はサシャさんの胸にある“罪人奴隷の杭”。
目を開く。
落ち着いて拳を握り込む。
前回よりもイメージがうまくできている気がする。
そして視界の中央、杭の真上に十字のマークが見える。
私は十字の中心、サシャの胸に拳を乗せた。
拳を起点に、ふわっと淡い光が広がった。
そしてサシャさんの内側で、胸の辺りが光り始めた。
サシャさんの胸の光は、杭の形をかたどって浮き上がってきた。
そして空中にしばらくとどまってから一拍おいて、『パッ』と弾けて宙に溶けた。
「……息苦しさが、消えた」
サシャさんが呟いた。
「やった! 成功した!!」
私は喜びの声をあげ――、
『プツンッ……』
と、私の中で何か、糸が切れるような音が響いた。
違う。
音が、響いてなどいない。
私の声も、マダムたちの声も、船が軋む音も、何もかもが消えていた。完全な沈黙。
次に、目の前の光景が色を失い、真っ黒な闇に塗りつぶされる。
サシャさんの顔も、マダムの姿も、何も見えない。
肌を撫でる空気の感触も、潮の香りも、自分の体の重みさえも、すべてが嘘のように消え去っていく。
あれ?
動けない。
見えない。
聞こえない。
匂いもない。
感覚がない……!
何もない。
何もないはずの暗闇の中心で、ぞわりと、肌ではなく意識そのものが粟立つような冷たい気配がした。
『ふふふ、あぁ、おっかしぃ。ねぇ、どう? 五感を失った感じって。ちなみに、私が奪ったわけじゃないのよ? ふふふふ、どうなるかは知ってたけど』
声が直接脳に響いている。
けど、私は一切何も反応することができない。
『私はぁ、優しいから、教えてあげようか? お教えくださいイースルール様って言ったら教えてあげる。でも、お前は言えないから願うといいわ? さぁ』
……、教えてください、イースルール様。
『はーい。よくできました。じゃあ教えてあげる。
前にレヴィが杭を消した時、私ねぇ細工したの。
どんな細工かって? うふふふふ、それはねぇ、気絶したと錯覚させたのよぉ。
なんのためにって? うふ。苦しみに逃げ道があるって思いこませるため。
だから貴女は“気絶すればいい”と思いこんだ。
方法があるって素敵よね? だからすぐにすがっちゃう』
どこからとは明確に説明できないが、声がすぐ近くから聞こえる。
むしろ内側から響いている。
『まぁ、細工なしで、助けたことを恩に着せてから、はい、落とす!
って方法も考えたけど、こっちの方が驚く感じが好きだったし?
というか別に思いこませなくても、お前は自己を犠牲にすると思うけど。
まあそこに確実性を持たせるためよね。
あとはぁ、理由は色々あるのよ?
一番は、お前が壊れないため』
壊れない、ため?
『だって壊れたら、レヴィが手に入らないじゃない?
実はね、私、レヴィが欲しいの。
何のためのかって?
次の王にするためってのもあるけど、実はもっと大事な理由があるのぉ。
けど、壊れたら壊れたで、それでもいいのよ。
また他を探すから。
じゃあ、なぜ他を探さないかって? ふふ、ははははは。あーっはっはっは』
なんにも分からないのに、声だけが私の中を駆け巡る感覚……。
そして不快な笑い声。
『だってね、貴女が苦しむ姿がぁ好きなんですものぉ、くふふ、あはははっ』
そうか、不快になるよう仕向けているんだ。
そんな……、私が一体何をしたんですか?
『何も?
お前がぁ、心の底から、嗚呼、どうか私を助けて下さいぃイースルール様、下僕になりますぅぅぅぅ、って言ったら慈悲をあげる。
もともと奴隷なんだし得意でしょ? 服従』
女神の声色はとても冷たい。
響く度に心の彼方此方が凍っていく。
『ふふふのふ、ねぇレヴィ? 五感はないのに意識は絶対落ちない。
眠ることもできない。
何もできず、動けず、聞けず、話せず、見えず。
笑えるわけもなく、怒りも出せず、悲しみの涙も流れず、ねぇ、それって楽しいのかなぁ?
うふふふふぅぅ、楽しいわけないよねぇぇ?』
やめてください……。
『辛いねぇ、ふふふ。壊れる前に呼ぶのよ? 優しいから待っててあげる』
うそだ……。
『精神は体の十倍の時間を過ごすことになるけど、まあ、いいよねぇ?』
嫌です、嫌に決まってます!
『体の一日が精神の十日よ? ……うわぁぁ、つらそうぅ』
嫌だ……。
『じゃあ、そろそろ行くね? がんばってぇぇぇ、あーはっはっは』
う、うそ、やめて、行かないで!
いやぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁ!!




