3、マダムスカーレット
「ゲホッ、ゲホッ……!」
むせ返るような咳で目が覚めた。
すごく苦しい思いをしたのは、なんとなく覚えてる。
だけど、記憶ははっきりしない。
どこか安心感のある感触が背中に伝わってくる。
頭はぼんやり、視界もまだぼやけてるけど周りを見回した。
「目を覚ましたか。まずは一安心だ」
そう傍らから女性の声。
視界が少しずつはっきりしてくると、赤い髪の綺麗な女性が丸椅子に腰を下ろしているのがわかった。
「えっと……」
「言葉は出るね。空間収納で運ばれると頭の中が壊れることもあるんだ。……気分はどうだい」
確か、トマスに見つかって、痛みで気を失ったのはなんとなく覚えているけど。
空間収納……?
確か、トマスがそんなスキルを授かってたような気はするけど……。
突然変わってしまったトマスの、……あの冷たい笑顔が頭をよぎった。
まだ頭がぼんやりしている。
今はどういう状況だろう。
寝かされているのはベッドだ。
柔らかすぎず、固すぎず……寝心地はいい。
遅れて、女性に問いかけられていたことに気がつく。
「あ……はい。たぶん……」
状況がよくわからなくて、曖昧にしか答えられない。
そういえば、あんなに痛かった右手は……、今はじんわりするだけで、ほとんど痛くない。
少し麻痺したみたいな感じがする。
持ち上げてみると、きっちり包帯が巻かれていた。
「ああ、それの治療は少し時間がかかるよ。ヒーラーはいるにはいるけど、生憎今は出かけててね。しばらく戻らないんだ。だから、それまでは痛み止めで我慢しておくれ」
「あの……ここって?」
体を起こそうとした私の肩に、女性がそっと手を添えた。
「今は無理しないほうがいい。ここは奴隷館ミモザ。アタシが主で、マダムスカーレットって呼ばれてる」
その名の通り、赤いドレスがよく似合うきれいな人だ。
「あの、それで……スカーレットさん、私は奴隷になったんですか……?」
私は恐る恐る問いかける。
するとスカーレットさんは微笑みながら私の頭を撫でた。
「ああ、そうだよ。アンタは奴隷になった。今は怪我人だから優しくしてやるけど、これからは辛いときだってたくさんあるかもしれない。あと、あたしのことはマダムと呼びな」
マダムはベッド脇のテーブルに置かれた水差しから、静かにコップへ水を注いだ。
「薬を置いておくから、痛みが出たら飲むんだよ」
そう言いながら、小さな薬包を指先でつまみ、サイドボードへそっと置く。
「あ……ありがとうございます」
マダムは軽く頷き、ゆっくりと立ち上がると、しばらく私の顔を眺めている。
私が首を傾げると、マダムは微笑みながら、ふっと首を横に振る。
部屋の扉代わりの、重厚な天鵞絨のカーテンを押しのけ、マダムは静かに出ていった。
あぁ、まだ瞼が重い。
目を閉じると、私はすぐに眠りに落ちてた――。
時間の感覚がぼんやりしていて、はっきりしない。
でも、たぶん夜中なんだろう。
今度は、ふわっとしたいい香りで目が覚めた。
高級な店の軒先で香るような、上等な御香の匂いに、ほんのり甘い香りが混ざっている。
壁の隙間から、静かに漂ってくるみたいだ。
時々聞こえて来る女性の艶めかしい声と荒々しい男性の息遣い。
私にだって何をしているかくらいは、何となく分かる。
目が冴えてしまった。
私は仕方なく、ゆっくりとベッドから体を起こす。
あぁ、なんだか妙に体が重い。
ダルさがまとわりつくようで、右手もじわじわと痛み出している。
ああ、そういえば痛み止めがあったはずだ。
マダムが置いたはずの紙包みに手を伸ばし、薄暗い中を探る。
「あっ……」
指先が紙包みにかすった瞬間、それは床へ落ちてしまった。
落ちた紙包みを拾おうとした手を伸ばすと、私はバランスを崩し、ベッドから滑り落ちた。
『ガタァン!』
鈍い音が響く。
体が思うように動かない。
足も鉛のように重くて力が入らなかった。
「うん?」
「ちょっと待っててくださいね。」
「ああ。」
「マダムぅ、隣の子、起きましたよ。」
壁代わりの布越しに、若い女性と男性のくぐもった声が入り込んでくる。
ベッドの端に手を置き、シーツを掴んでよじ登ろうとする。
けれど、思うようにいかない。
ビロード布の隙間から、ランプの光と、マダムの顔が覗き込んできた。
マダムはランプをサイドテーブルに置き、私の脇の下に手を差し込むと、そっと持ち上げるように私をベッドに座らせた。
隣への配慮からか、彼女は小声で言う。
「明日にしようと思ったんだけどね」
座らせられた私の背に、枕が差し込まれる。
マダムは、ベッドの上で私の足をまっすぐ伸ばした。
そして、マダムはランプの灯りを足のくるぶしあたりへと近づけた。
「え……」
その瞬間、私は息をのみ、見えるものにただ言葉を失った。
マダムの視線もそこに注がれ、静かに息をついた。
そして唇の前で人差し指を立て、『シー』っと身振りで示してから言った。
「奴隷はね、逃げない様、こうしてアキレス腱の内側に、魔法の杭を打ち込む決まりなんだ。驚くのも無理はないと思うし、今はうまく動けないから不安だろうね」
足が重く感じた原因。
踵の上、足首の丁度窪んだあたりにボルトのような杭が刺さっている。
それ自体は大して目立つものじゃないかもしれないけど、私はひどく動揺して、言葉が出なかった。
「二、三日経てば自然と歩けるようになる。しばらくは違和感があるが生活には支障はないよ。けど、逃げようとしたり、何か主人に不利益な行動をとると、これがアキレス腱を内側から圧迫するんだ。すると激しい痛みで奴隷は立てなくなる」
淡々と聞こえるマダムの声。
私は無言のまま、足首にある鉛色の塊を眺めていた。
「奴隷を壊さず、無力化する足枷。奴隷は一生これを付けて生きていくんだよ」
私は杭に手を伸ばす。
触れて、少し擦れば取れるような気がした。
だけど、それは足の肉にしっかりと食い込み、私の内側を通っている。
「う……うっ……」
言葉にならない声が喉の奥から漏れ出してくる。
涙が溢れてくる。
私は包帯の巻かれた右手にもう片方の手を添え、口を押さえながら、声をせき止める。
「この際だから言うけどね、奴隷が解放されることは無い。悔しい事だろうけど、死んだって奴隷だった証は消えない。だから、今から言うことをしっかり頭に叩き込みな」
マダムは声を殺して泣く私の頭を抱えながら言った。
「上手に生きれば、辛さも半減する。とにかく媚びろ。心で舌を出しながらでいい、とにかく媚びるんだ」
マダムは言い終えると、少しだけ強く私を抱きしめた。
その瞬間、気のせいかもしれないけど、ふと優しさを感じた。
そして、不思議と悲しみが少し和らいだ気がした。
後日、他の奴隷から聞いた。
マダムは奴隷調教術と言うスキルを持っているらしい。
あのとき感じた優しさは、マダムの行動によるものだったのかな。
それとも何か特別なスキルの影響だったのかな。
答えは分からないけれど、気づけば私はマダムスカーレットのことが好きになっていた。