27、 拳打レベル3
「朝は随分と冷えるだろう?」
夜明けの低い日差しが甲板に届くころ、私の背にマダムの声が触れた。
「おはようございますマダム。ええ、冬ほどではありませんが、冷えますね」
私は振り返りながら姿勢を正し、会釈を向ける。
「どうした? 寝なかったのかい」
そう歩み寄ってくるマダムからは、お酒の匂いがした。
「申し訳ございません。なんだか寝れなくて」
「いや、別に咎めてるわけじゃない。サシャに時間を合わせたのだろう?」
「……はい。トウマさんがいらっしゃったので……」
マダムは、肩を組むように私を抱きしめた。
「なるほどな、気を使ったわけか」
「トウマさんのおかげでサシャさんも安心して眠れるようでしたし、お邪魔かなと」
「はは、なるほどね。……実はさ、アタシも寝れなくてね」
「じゃあ、何か暖かいお飲み物をお持ちしましょうか」
私は抱かれた姿勢のままでマダムを見上げると、その表情は微笑んでいた。
「いや、いい。それより少し酔い覚ましに付き合ってくれるかい?」
マダムの片手が、甲板の隅の長椅子を指差している。
「はい。畏まりました」
肩を抱かれたまま。私はマダムに誘導されるように甲板の長椅子に腰かけた。
マダムは私にもたれかかり、暫く無言の時間が続いたが、その他愛のないひとときが妙に心地よかった。
そしてマダムから、ぽつりと、囁くように始まった。
「昔、奴隷をなくそうって動きはあったんだ」
「イシスのようなですか?」
「いや、解放って意味でね」
「解放……」
私は首を傾げた。
とても興味深い内容だけど、解放という単語がしっくりこないのだ。
「結果、それは重大な失敗を招いてしまったのさ」
「重大な、失敗、ですか」
「ああ、それは古都テンピンで起きたんだ」
――エミネム王が世界統一を宣言して、十五年ほど経った頃。
奴隷を解放し国民として受け入れようと言う動きは、八百年の歴史を誇る古都テンピンより始まった。
そこはエミネム王の出生地だったが、いかなる主義主張があっても非戦中立を旨として、そして掲げていた都市だ。
『すべての奴隷を解放し、平民程度の身分を約束する』
経緯は今も定かではないが、テンピン領主の発したその号令は瞬く間に世界に広まった。
結果、奴隷たちは、命を顧みずテンピンを目指し逃げ出したのだ。
だが逃亡を図った奴隷の約七割は捕まり、各地の領主の兵により何十万という奴隷が死んだ。
だから、“それ”は生まれた。【奴隷の杭】の誕生だ――。
「それは賢者のスキルを持った者が考案した。『そもそも奴隷が逃げたから、こんな悲劇が起こったのだ』と言ってね」
マダムの語りを聴きながら、私は自分の足元に視線を落とす。上履きの隙間から覗く鉛色の塊が見える。
多分、私は瞬きを二度するくらいの間、自らの杭を眺めていた。それからマダムに視線を戻す。
「世界から、一度に奴隷を解放することは出来ない。罪人もいる。奴隷だから食っていける者だっている。だからアタシは、奴隷が可愛がられるよう教育をした。まあ、結局、金儲けの一環ではあるから綺麗事でしかないけどね」
何度も、私は左右に首を振っていた。
「そ、そんなことないです。マダムが教えてくれたから、救われたことだって沢山あります」
主人の言葉は絶対なのに、私は求められてもいない言葉を発していた。勿論、心からでた本音だ。
するとマダムは薄く笑った。
ウミネコが飛んでいる。
きっと陸地が近いのだろう。
マダムの視線はウミネコを追っている。
「不遇で傷つく奴隷がいた時、そして一刻を争う時、サシャのスキルは絶対に必要だ。だからサシャは失えない。なのに頼るだけ頼っておきながら、アタシはサシャを助ける方法が分からないんだ」
ゆっくりとマダムから言葉に苦みが滲んでいる。
私は、息を殺すようにして、静かにその言葉を聞いていた。
『クウゥゥ』
ウミネコが鳴いた。
「アタシの分かる方法でサシャを選べば、一つ、まだ見ぬ命は消える。けど、アタシはそれでもサシャの命を優先する。たぶん恨まれるだろう」
マダムの笑い方は凄く悲しそうにみえた。いや悲しいんだ。痛いほどに悲しいんだ。
だから私は意を決しなくてはいけない。だから今、まだ不確かな“それ”を告げようと思ったのだ。
「マダム。もし方法があったとして、それは試したことのない方法で、確証もなくて、それでも可能性はあるとしたら、どう思われますか?」
「ん? ……まさか、そんな方法があるのか……?」
「まだ分かりません。だからそれを確認するため、マダムにお願いしたいことがあるのです」
「もし命にかかわることなら、アタシは絶対頷かない、いいな?」
「それを聞いて安心しました」
私はマダムの手から逃げ出し、長椅子から降りる。
そして床に跪く。
「マダム。私はマダムの所有物です。ですので、どうか、私に……、私に、私の片足を御譲り下さい」
と私は床に額を付けた。
「お前、いったい何を言っている?」
「サシャさんの心臓で試すなんてできません、だから私の片足で試します」
「いや、だから一体何を言ってるんだ?」
「今まで、黙っていて申し訳ありません。私のスキルは、レベル3まで成長していました」
「な、何……? いやまさか、そんなこと、聞いたこともない」
「ですが、事実なのです。そのスキルなら、杭をなかったことに出来るかも知れない」
「いや、しかし、」
「大丈夫です。ただ、心臓で試すのはちょっと」
自信はない。けれど嘘ではない。
私は床に額を擦り付けて懇願した。
「どうか、私に、私の足を御譲り下さい」
「……レヴィ、本当に、出来るんだね?」
マダムは、床に片膝をついて私を起こしながら問い掛けた。
「はい。ただ疲れて少し眠ってしまうかも知れません。その際はお許しいただけますか?」
「ああ、そんなもの、お安い御用だ。だが本当に、眠るだけなんだね?」
「はい、勿論です」
私は、嘘をついた。
今までで一番上手な嘘だ。
カチ
【レベル3 上位互換 詳細開示しますか? >>>はい】
【拳打レベル3:任意の物を消し去る程度の能力 ※使用時、消し去るものの質量に応じて、死ぬと同等か、それ以上の激しい痛みを伴い、正常からの逸脱、および精神崩壊の恐れ有】
笑えるほど酷い内容だ。
以前、私はスキルについて気が付いたことがあった。
それは上位互換が現れた際、消去すると、ある一定量の条件を満たせば内容が変わり、また現れるということだ。
そして、その条件とはレベル上昇時に変わり、【痛み、苦しみ】によって溜まる。
このスキルは、徹底的に、私を苦しませるように出来ている。
時々、あの日、夢で見た女神の声を聞くことがある。
『レヴィ、苦しみなさい。苦しんで苦しんで懇願するの。許してくださいイースルール様ぁ、何でもしますぅ。って、ふふふふ。そしたら無限の時間で飼い殺してあげる』
脳裏に響く幻聴を振り払って、私はマダムに微笑んだ。
「大丈夫、お任せください」
私はマダムの所有物だから、勝手に死ぬことは許されない。
死なないし、死ぬつもりもない。
だけど、怖い。凄く怖いのだ。
マダム、どうか、今だけは怯える事をお許しください、と笑顔に込めて許しを乞うた。




