22、イースルール
「いくら何でも、ありゃ無理だろ」
行き交う人々の中で、立ち止まった一人が言った。
今、私はエフネス市の広場にいる。
海を臨む、綺麗な場所だ。
私は海を見たことがなかった。
だから、こんな状況なのに、少しだけ感動してしまった。
本当なら、マダムのお使いで来るはずだった。
なのに、そうじゃない理由で来てしまった。
私は、エフネス市の中央広場で、御影石の大きな柱に裸のまま縛り付けられている。
「この者は、前世の咎で奴隷に落ちた者だ。その罪は、七日間の祈りで雪がれるであろう」
白尽くめの、審問官という人が、芝居がかった調子で言い放った。
私は、生まれながらの咎人だったのか。
「七日間だって? このカンカン照りじゃ二日だって耐えられる訳がない」
街の人の声は、聞きたくもないのに聞こえてくるから残酷だ。
体中の関節が酷く痛い。
鎖で手足をギリギリと引っ張られているから、体が悲鳴を上げている。
それと同じぐらい、ジリジリとした港街の太陽も辛い。
潮風もだ。パリパリになった傷口を容赦なく責め立ててくる。
……まるで、死ねって言われてるみたいな気がしてくる。
海鳥が肩にとまった。
私にはまだ生きてるよ……どっか行ってよ。首を振って追い払うだけの体力はある。
多分、意識はさっきから何度も手放している。だけど、すぐに痛みで目が覚める。
「うわあぁああああああ」
叫んだら楽になるかなって思ったのに、特に何も変わらなかった。
「可哀想に」
誰かが言った。
可哀想なら、助けてくれればいいのに。
そう思いながら、私は、往来の人々を眺めている。
あ、徐々にまた意識が遠のいていく感じがする……。
起きたら、何か変わってればいいな――。
「可哀想に」
また誰かが言った。
私は目を瞑ったまま言った。
「可哀想なら、……助けてよ」
あぁ、自分だとは思えないくらい、掠れたひどい声だ。
「いいわよ。助けてあげようか?」
本当に……? 私は目を開く。
艶やかな長い黒髪、白目までが黒い瞳。
漆黒を布にしたようなドレスを纏う、とても綺麗な女の人が目の前に立っていた。
あれ、何かが、おかしい。
そうか、世界が止まっているんだ。
行き交う人々も、蝶や鳥もその場で静止していて、舞い散る木の葉の一片すらも、空中で固まっている。
「アナタ、まだ正気なのね。凄いわ」
目の前の人が言った。
「えっと……?」
「私は、イースルールよ」
こんな夢を、いや幻覚かな。とにかく、私はすでに正常ではないんだ。
「残念だけど、残念? 幸運? まあ、良いけれど、夢でも幻覚でもないのよ」
イースルールは私の心を読んだかのように言った。だから、それが夢っぽいのだ。
「貴女、助かりたいのよね?」
「……はい」
酷い掠れ声だけど、まだ出せてる……よね?
この状況から抜け出せるものなら、夢でも、幻覚でもいい。
「ほんと酷い声ね。別に喋らなくてもいいのよ。私は神様だから。まぁ、そうね、貴女はとても不幸な人生だったものね。哀れよね。最後はこんなに惨たらしい最後を迎えようとしている」
私は神を眺めた。
そうか、神が哀れむほどだったのか。
「そうよ、哀れ。神が嘆くほどの不幸な女」
そうか、神でも嘆く事があるんだ。そして、私はそれほど不幸だったのか。
「だから、貴女は救済されるの」
……救済?
「そうよ、救済。それで提案なんだけど、アナタ、転生しましょ? 貴女は不幸を背負って生きて来た。若くして散るアナタの魂に究極のスキルを与えて、この私が、再び世界に戻してあげる」
「……ぎゅ、ぎょぐ……の、ずきる……? ぜ、がいに……も、どす……?」
声にもならない声で、私は、無意識に声に出して問い掛けていた。
「そう、本当は別の世界に転生してほしいけど、特例よ?」
「……どぐ、れぃ?」
「そう。そうねぇ、具体的にはねぇ、今の姿のまま、究極のスキルにすげ替えましょ? 生来のスキルを捨て、貴女はイースルールの使徒として生まれ変わるの! うふふ。約束された次なる王」
「あ゛ぁ……」
「素敵じゃない? 奴隷だった少女が、女神イースルールの使徒となって目覚めるの。そして救世の勇者となる。嗚呼、なんて素敵なシナリオでしょう。貴女は、新たな物語の英雄になるのよ」
「ぁ゛……の」
「スキルは、何がいいかしら、【勇者女王】でしょ、【英雄王】も良いわねぇ。ああ【救世の乙女】なんてのも良いかもぉ」
ああ、なんて嫌な夢だろう。
「……あ゛の、めがみざ、ま、……おごど……わり、じま、す……」
「耳障りの悪い声。いいわ、喋らなくても。念じなさいよ、特別に聞き取ってあげるから」
では、女神様、お断りします。
「うん? だから夢じゃないってば。ああ、そうよね。もうこんな世界、嫌よね。純粋に赤ちゃんからやり直す? 残念だけど、そうなると少しスキルのグレードを落とさないと。あと記憶も無くしちゃうけどいいの? まあ、でも女神の使徒として頑張ってもらえば十分だから」
――あの、そういうことじゃなくて。
「うん? 何か要望かしらぁ? 意外と欲深いのねぇ、レヴィちゃん」
……そんなの、いらない。
「うん? そういうジョーク、流行ってるの? その手のユーモアって苦手なのよね」
まだ頭は働いてる。
私は、思うままに、心の中で告げる。
――私は、不幸ではありません。
「……なに?」
目の前の女神は、眉を顰めた。
深く、息を吸い込む。
肺の奥から引きずり出すようにして、喉を震わせた。
「あ゛ぁぁ゛、ぁ゛ぁ……」
悲鳴にもならない。
声とも呼べない声を、私はただ、吐き散らすように零す。
――確かに、今は苦しい。辛い。
でも……私が受けた優しさは、本物だった。嘘なんかじゃない。
一時の苦痛を理由に、あの優しさまで不幸だと言ってしまったら、
……それこそが、きっと嘘になる。
「へぇ、それで?」
女神は口の端を持ち上げて、笑った。
その笑みが、やたらと背筋を冷やした。
「あ゛ぅ……ぁ゛……」
私は、不幸ではありません。
……どうか、私の素敵な思い出を、哀れみで汚さないでください。
女神は、私の霞む視界いっぱいに顔を近づけてくる。
冷たく、ぞっとするような瞳が、私をじっと見つめた。
――ほう。この女神イースルールが、お前を汚すと?
女神の声が頭に響いた。
――お分かりになられませんか、女神さま。
幸せは、与えられるだけのものじゃありません。
慈しんで、育んで……生まれるものです。
私は、奴隷になって、それを学びました。
他の方法も、きっとあるのでしょう。
けれど、私には分かりません。
もし、それは違う、と仰るのなら――
私は、あなた様を神とは思いません。
……どうか、このまま、お見捨てください。
「お、……みづで、くだ、ざ……い」
本当に、ひどい夢。
直接頭の中に響く女神の声は、ザラザラとしてて、これが本質なんだって思えた。
――今まで、誰も拒んだことなんてなかったのよ。
若くして死んだ者には、「可哀想だから」とスキルを与えてあげれば、面白いように踊ったわ。
苦労して生きた者には、「ご褒美よ」って言えば、これまたよく暴れてくれたし。
あるいはその両方。
究極の力を与えれば、みんな女神イースルールを崇拝して、世界を手に入れた。
私は、そうやってこの世界を回してきたのよ。
――そうですか。でも、私はいりません。
……不思議なことに、女神さまのおかげで、折れかけていた心が、少しだけ戻った気がします。
私は、頑張って微笑んでみる。
目の前の女神は、ひどく冷たい目で、私を見下ろしていた。
まるで、もう興味すら失くしたみたいに。
「それで?」
たったそれだけ。
頭の中に語るのはやめですか? 女神様。
私は、この命が尽きるまで、もがく事にします。愛すべき人々を思い、死ぬまで折れず生き抜きます。
「今まさに、それが尽きようとしているのにか?」
女神の声は、身が凍えるほど冷たかった。
だけど、私は、まだ微笑むことが出来る。
——十秒後に死ぬとしても、一秒も無駄にせず生きます。
「ぃ、いぎる……ん、でず……」
そして女神も、笑う。
「いいだろう。レヴィ、お前はまだ死にません。もっと惨たらしく、悲惨な人生の中で、失意の底に沈むがいいわ。ほら、まずは苦しめ」
『バシャッ』
「うわぁあああああああ」
私は、全身を突き抜けるような、酷い痛みに悲鳴を上げた。
頭から潮水を浴びせられたのだ。
痛みで意識が引き戻されたおかげで、酷い夢からは解放された。
そして、まだ私は正気だ。
多分、二日目を迎えている。
私は、どこまで耐えられるだろう。
分からないけど、出来る所まで耐えてみよう。
みんなの声が……聞きたいな。
「奴隷の業は、主の罪だろう? 俺がその奴隷の主だ」
朦朧とする意識の中で、トウマさんの声が聞こえる。
得体のしれない神なんかより、——よほど、この声は、私に安らぎと現実らしさを与えてくれた。




