20、 誤算
『パチパチ』
焚火にくべた小枝が、小さく音を立てて弾けた。
街道を外れ、旧街道へ至るまでに丸一日。
辿り着いた森の奥で、私たちは今夜をやり過ごすことにした。
レリンさん、トウマさん、そして私。三人で焚火を囲む。
「エフネス市に入れなかった時点で、変装の意味が無い」
そう、レリンさんは私たちに背を向けたまま、静かに化粧を落とし始めた。
私は、レリンさんの素顔を知らない。
いつも口から上を仮面で隠しているからだ。
もちろん覗こうとは思わない。……けれど、気にはなる。
「自分の顔なんて、もう分からない」
聞き覚えのある、掠れた声だった。
「あの、分からないって……?」
私は、思わず問いかけていた。
すると、トウマさんが立ち上がった。
「薪を集めに行く」
そう言って、フードを目深にかぶる。
「あ、では、私も」
立ち上がろうとした瞬間、トウマさんは私の肩に手を置いた。
「いい。火の番を頼む」
そう制してから、森の中へと歩き出す。
「……畏まりました」
トウマさんの背に了承を送り、私は火を挟んで、改めてレリンさんに視線を戻した。
『もう分からない』レリンさんの言葉が耳に留まっている。
それに対し、問い掛けていいものか悩み、
「あの……、いえ」
と、私は煮え切らないまま首を振り、途中で言うのを止めた。
「気になる? ふふ、そこまで言ったら、聞いたのと同じ」
レリンさんには、お見通しだった。
気になるに決まっている。
でも、私が知ったところで何になるのか――、自分に問いかける。
結果、それでお手を煩わせるくらいなら、と我慢して……いつも、踏みとどまってきた。
「申し訳ございません」
私は、化粧を落とすレリンさんの背に向かって、頭を下げた。
「ふふ、いいよ。それが普通」
レリンさんの肩が、すこし揺れる。
そして、レリンさんは静かに続けた。
「人の真似を繰り返すとね、だんだん自分が誰だか分からなくなる。だから私は、仮面で自分を固定してる」
「固定……ですか?」
断片的な言葉に、思わず問い返す。
レリンさんは背中越しに頷き、それからゆっくりと振り返った。
「……えっ」
レリンさんの顔は、まるで石膏のように白く、生気のない石像のようで――仮面よりも、もっと仮面のようだった。
「はっ、申し訳ございません、あの」
咄嗟に、私は探したって見つかるわけのない言葉を、必死に取り繕おうとしていた。
そんな私の気持ちを、レリンさんはお見通しだった。
「いいよ。ただの、ありのままだから。……私のスキルは、使うたび、少しずつ……自分らしさが消えていく。化粧で演じた数だけ、少しずつ、少しずつ、無くなっていくの」
そう、ほとんど表情のない顔で告げるレリンさんを見て、私は本当に、悲しくなった。
私は、額を地面に押し付ける。
「……申し訳ございません」
すると、レリンさんはゆっくりと首を傾げた。
「どうして謝るの? 私は、なんとも思わないよ?」
私は、額を地面に付けたまま、
「いえ、私が悲しいのです。勝手に……ひどく、悲しいのです」
おかしなことを言っているのは、分かっている。
レリンさんは、少し困ったように首を傾げた。
「うん。なんで?」
私は考えた。でも、やっぱり、適切な言葉なんて見つけられなかった。
「分かりません。けど……悲しいのです」
本当に分からない。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、悲しくて――それに、切ない。
レリンさんは、悲しいとは思っていないと言ったけれど……そのことが、なおさら悲しく思えたのだ。
「そっか。もう“その感じ”、忘れてしまったからさ。……ありがとうね」
レリンさんの手が、そっと私の後頭部を撫でた。
「もう頭を上げて。火の番だから」
「はいっ、申し訳ございませんっ」
私が顔を上げたときには、レリンさんはもう仮面をつけていた。
私は袖で目元を拭い、小枝を火にくべた。
焚火の中で、パチッと弾ける。
夜が更けていく——。
辺りはしんと静かで、風もない。
動物の気配どころか、虫の音も聞こえない。
穏やかに揺れる火が、私をゆっくり眠気を誘う。
『シュッ、シュッ――ストッ、ストッ』
風を切る音が、唐突に闇を裂いた。
二本の矢が、膝を抱えて火を眺めていた私の、つま先のすぐ手前に突き立った。
「……え?」
眠気が吹き飛ぶ。
思考が追いつくと同時に、血の気が引いた。
その瞬間――トウマさんが、水筒から焚火に水をぶちまける。
ジュワッと水蒸気が立ちのぼる。
それも一瞬、辺りの景色が闇に沈み込む。
レリンさんが、私の手を強く握った。
そして矢の死角でも探すように、森の中へと駆け出す。
手を引かれるまま、私も必死について行く。
木々の間を縫うように走りながら、レリンさんが言った。
「レヴィ、手筈は覚えているね?」
「はい」
「よし、じゃあ――いけ」
その言葉を背に、私はレリンさんから離れ、全力で走り出した。
これが“いざ”という時がきた。
私は走りながら、言い渡されていた手筈を思い出す。
街道に出て、ミモザを目指せ。
それが、私に与えられていた指示だ。
それぞれ別のルートで戻ることになっているが、場合によっては、レリンさんやトウマさんが足止めしてくれる。
私を逃がすためじゃない。
伝達のためだ。
奴隷なんて、すぐに殺される。そもそも私では足止めにすらならないから、これが最善の手なんだって。
……だからこそ、私が逃げる。
全力で走りながら、暗がりに目を凝らす。
黄土色の街道に出たら、右に曲がって、あとはひたすらザーマルスに向かって走るだけだ。
奴隷が街の外を歩いている、それ自体が非常事態だ。
運が良ければ、辺境都市ザーマルスの守備兵に保護されて、マダムのところへ戻ることができる。
奴隷という立場を逆手に取った作戦だけど、それなりのリスクもある。
今はまだ、イシスとの力関係が分かっていない。
もし街道がすでにイシス兵に押さえられていたら……それは、確実に悪手だ。
仮に守備兵が“怠慢”なら、奴隷が無事でいられる保証はない。
わざわざ保護するより、奴隷なんて殺してしまえば面倒がない。
普通の奴隷なら、あり得ることだけど、私には奴隷刻印がある。
手間のかかった“価値ある奴隷”なのだ。
謝礼が出ると伝えられるだけで、成功率は格段に上がる。
街道に飛び出し、右へと折れる。
あとは、とにかくザーマルスにひたすら向かうだけだ。
遠くに、灯りが見えた。
あれが、どちらの陣営のものかなんて私には分からない。
引き返せない以上は、もう、賭けるしかないのだ。
「はぁ、はぁ……あのっ! 奴隷館ミモザの、奴隷です!」
私は灯りに向かって、大きく手を振りながら走り寄った。
「奴隷、何があった?」
守備兵が槍を構えたまま声をかけてくる。
ウインザブルの紋章をつけたザーマルスの市兵だ。
「はぁ、はぁ……あ、あの、主のお使い中に、館の者が襲われました。エフネス市の街道です。どうか、救助と保護を……」
「なに? とにかく分かった。お前は休め」
「あの……救助は……?」
「うむ、運がいい。今夜はこちらに守備隊長殿がいらっしゃっている。まとまった数の兵力もある。会議中ではあるが、急を要する案件だ。すぐに話を通してくる」
よかった……。
緊張がほどけ、体の力が抜けた。
私はその場にへたり込み、乱れた息を整える。
見上げれば、石造りの、頑強な砦のような建物だ。
見張りの兵も、何人も立っている。
街道沿いにこんな建物があったなんて、やはり、戦争の準備だろうか。
「おい、奴隷。隊長殿が話を聞きたいそうだ。来い」
年配の、少し怖そうな守備兵が手招きしている。
私はすぐに立ち上がり、言われるままに建物の中へ足を踏み入れた。
通されたのは、広い部屋だった。
私は床にひざまづき、頭を下げて待つ。
やがて、ゆっくりと固い足音が近づいてくる。
そして私の前で止まった。
「大変だったね。襲われたんだって?」
私の後頭部に、若い声が向けられた。
その声に……私は聞き覚えがあった。
「心配してたんだよ。もう、三年も会えなかったからさ。
あのとき、お前を心配したからこその“仕打ち”だったのに……、お前には届かなかったみたいだけど」
……。
「どうしたの? 震えてるのかい?」
言われて、気づいた。
私は、震えていたのだ。
いや、それどころか――、今は背筋が、凍っていた。
「お久しぶりでございます、……トマス様」
「忘れられてたらどうしようかと思ったよ。顔をあげていいよレヴィ?」
頭を持ち上げるだけの動作が、ひどく重い。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
そこには――満面の笑みを浮かべた、トマスが立っていた。
「で、なんだっけ?」
あれほど教え込まれてきたのに、私はちゃんと、表情を作れている自信がない。
「……あの、館の者が襲われて……」
「助けろと?」
「無理なら、せめて館に使いを……」
だめだ、声が上ずってしまっている。
「怖いのかい?」
「いえ、滅相もございません……」
本当は、酷く怖かった。
「こっちもね、いろいろ忙しいんだよ。
いきなりイシスに都市を譲れって言われてさ。
同盟条件に奴隷の取り締まりまで入ってるし?」
「……⁉」
「まあ、うちの奥さんは奴隷反対派だったし、僕としても、別に構わないんだけどね」
最悪だ……。話がまるで違う。
館は、無事なのだろうか――不安が、胸の奥で膨らんでいく。
「取りあえずさ。懐かしい再会を祝して、少し語り合おうよ。なあ、レヴィ?」
体が強張る。引き攣る。
私は、頷くことしかできなかった。




