19、ゴウのトゲ
早朝、乗合馬車で辺境都市ザーマルスを出発した。
東海に面した都市エフネスには、二日で到着する予定だ。
「レヴィ、長旅だからね、楽な姿勢でいるといいよ」
「有難うございます、マダム」
私を気遣ってくれるマダムだが、実はレリンさんの変装だ。
話には聞いていたけれど、正直、ここまでとは思っていなかった。
外見だけでなく、声まで完璧に再現されている。
ただひとつ違うのは、マダムに接したときにだけ起きる、あの高揚感。
それはきっと、レリンさんのせいじゃなく、私自身の内面の問題なのだろう。
私がマダムの奴隷だからなのか、それとも【勇者】というスキルの影響なのかは分からないけれど。
とはいえ、マダムに同行していただいているつもりで接しなければ意味がない。
だから、ここにいるのはマダムなのだと、自分に言い聞かせた。
そして、もう一人の同行者。
隅で物静かにじっとしているトウマさんは、黒い外套とフード姿で異彩を放っていた。
私たちのほかには、老夫婦が同乗していた。
目的地は私たちと同じ、エフネス市だそうだ。
そして、にこやかに老婦人が言った。
「優しいご主人様で良かったねぇ」
「はい、私は幸せ者です」
私は頭を下げ、自然と微笑みながら答えた。実際、幸せ者だと思っているのだ。
――夕暮れ前に、馬車は宿場に到着した。
街道宿場では、乗合馬車がそのまま宿屋へと向かう。
馬車と宿屋が同じ組織で運営されているため、馬車を選べば宿まで押さえることができ、効率がいいのだそうだ。
馬車を下りると、私はお二人の荷物を持って、部屋へ運んだ。
奴隷は、宿では一人とはカウントされない。
物扱いなので、主人の部屋の隅を借りて眠るのが普通なのだそうだが……。
「俺は、ベッドでは眠らない」
と、トウマさんがソファーでお休みになられた。
「勿体ないから、お前がベッドで寝なさい」
と、マダム姿のレリンさんがベッドを指差した。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
申し訳ない気分になりながら、私はベッドを借りて、ぐっすり眠ることができた。
――朝、私が目を覚ますと、お二人はもう支度を始めていた。
私はベッドから飛び起きる。
「申し訳ございません。今すぐ支度いたします!」
そう言って、寝癖を撫でつけた。
「いや、アタシらが異常に早いだけだ」
と、レリンさんはマダムの顔で笑った。
……いや、違う。
マダムの顔で笑ったのではなく、この方はマダムなのだ――と、自分に再度念を押す。
それから、マダムとトウマさんは朝食を取るため、食堂へ向かった。
その間に私は荷物をまとめ、馬車に積み込んでおく。
そして、お二人がお戻りになるまで待機した。
暫くして、お二人が馬車へといらっしゃった。
「レヴィ、出発までに、これをどこか見えない場所で片づけておくれ。アタシの口には合わなくてね」
と、微笑むマダムに袋包みを渡された。
ほのかに暖かい。
「はい、畏まりました」
私は近くの雑木林まで小走りで向かい、そこで包みを開く。
中には、ふんわりとした卵サンド。マダムに感謝しながら、それはもう美味しくいただいた。
私は、随分と甘やかされている気がする。
程なくして、出発時刻を迎えた。
順調にいけば、夕刻にはエフネス市に到着するはずだ。
「レヴィ、戦争はなぜ起こるか知ってるかい?」
マダムが私に問いかけた。
「戦争は、なぜ……起きるのか、ですか?」
私は、少しだけ意図を測りかねた。そして、“お教えいただけますか? ”と、言葉にせず首を傾げる。
マダムは頷いた。
「大体の場合、自分に酔った英雄が、御題目を掲げて始めるのさ」
「自分に酔った……英雄、ですか?」
「ああ。人のため、民のため、困っている人のため――理由はいろいろあるけどね。
けど、結局のところ、下々にしてみりゃ、知ったこっちゃない。日々の生活に一生懸命なんだ。
そこはあんまり考えないんだよ、偉い人ってやつはね。
“みんなのためになるから、分かってくれよ! ”って、自己満足の正義を振りかざす」
誰かの大義の裏で、踏みにじられる側がいる。
優れたスキルを授かったものの影で、蔑まれる人もいる。
私は、ふと、トマスの顔を思い浮かべていた。
――心がざわつく。
トマスは、彼なりの正義があったんだろうか。
……今さら関係ないか、私はマダムのものなのだから。
そう思いながら、目の前のマダムに視線を戻す。
マダムは饒舌だった。
やはりこういう部分がマダムとは違う。
他人からすれば見分けがつかないだろうけど、私にはわかる。
やはり、この方はレリンさんなのだ。
けれど、姿がどうであれ――
戦争が起こる理由、その言葉の一つひとつに、私は不思議と納得していた。
「あぁ、なんか、様子がおかしいですねぇ」
馬車の御者が振り返った。
「あら、どうしたのかしら」
老婦人も、不安そうに首を傾げた。
「不味いね」
マダムが眉間に皺を寄せた。
「ああ……」
トウマさんも、小さく頷いた。
エフネス市は、もう目と鼻の先だった。
街道沿いには兵隊が並び、通る馬車を一台ずつ止めている。
「あの、何が問題なのでしょう」
私はマダムに問いかけた。
「あの旗だよ。あれは、神聖イシスという自治領の旗だ」
……神聖イシス。
名前は聞いたことがある。たしか、宗教の強い国だったはず。
けど、どうしてこんな場所に、その旗があるのだろう?
……つまり、あの港町は――もう、私たちの国じゃないのか。
「ただ、アタシらが入るだけなら問題はない。けど、アンタはまずいんだ」
「あの、私の……何が?」
「イシスは、無条件で奴隷を禁止してる」
「え、では、奴隷ではないふりをして――」
「無理だな。あの検問は奴隷狩りだ」
トウマさんが、私の言葉を遮った。
「奴隷狩り……悪いことなんて、何もしてないのに」
声が震えた。訴えるような言い方になってしまったのが、自分でもわかった。
でも、それは、お二人を責めたかったわけじゃない。
マダムは、そんな私の肩に手を置いた。
「ああ、お前は何も悪くないよ。
でも、あの国じゃ、奴隷は“前世の業”とされてる。
穢れとして、処分の対象なんだ。……話しても通じない相手さ。
隙を見て、馬車を降りるよ」
その提案に、トウマさんも頷いた。
奴隷は、前世の業――。
その言葉が頭にこびりついた。私は考え込んでしまった。
もし本当にそうだとしたら、前世の私は……何をしたんだろう。
肩に置かれたマダムの手に、少しだけ力がこもる。
そして、私の顔を、静かに覗き込んできた。
「レヴィ、考えるのは後だ。重い荷物は置いて行くよ」
マダムは、いつものように――あの優しい笑みを浮かべていた。
「御者、これはチップだ。口裏を合わせてくれ」
マダムが金貨を数枚、御者の横に置くと、彼は何の迷いもなくそれを懐に滑り込ませた。
「分かりやした。客は老夫妻だけでしたよ、最初から」
私たちは、街道から見えない位置にある林の陰を使い、そっと馬車を降りた。
そこから森を抜け、旧街道を通って、自力でミモザへと帰ることになる。
前世の業――。
それは、ささくれのような小さな棘が刺さったときのような……。
そんな、触れて気がつくチクリとした痛みは、私の中でもどかしい違和感となっている。
……答えがあるのか、それすら分からないまま――私は、その痛みを抱えた。




