2、トウボウ者
夜半、私は叔父夫婦の家を逃げ出した。
このまま朝を迎えたら、私は奴隷にされる。
叔父夫婦は大金を受け取ったに違いないから、助けてくれるわけがない。
奴隷には二つの種類がある――売られた者と犯罪者だ。
このままいけば私は前者だ。
売られるのは普通十五歳以下で、天賜の儀で良いスキルを授かれば、と買い手は期待して対価を払う。
十五歳以下の値段を普通としたら、天賜の儀後なら【上物】か【安物】かしかない。
つまり十五を迎えた奴隷はスキルによって命運を分ける。
【使えるスキル】か【クズスキル】か。
その場合、私は後者だ。
器量や頭脳などは、多少の付加価値にしかならないのだ――。
ズキズキと右手が痛む。
うまく巻けなかった包帯の下で、拳は通常の倍の大きさに腫れあがっている。
例えでも、大げさでもなくて、痛みと痺れが腕全体に広がって、ひどくつらい。
耐えきれない痛みに、足が止まりかける。
だめだ――こんなところで止まってしまったら、終わる。
早く逃げなくちゃ、奴隷にされる。
そんなのは嫌だ。
だから今は少しでも遠くへと、足を無理やり押し出して進んだ。
目的地は森を抜けた先、伐採キャンプの木こり小屋だ。
この季節、木こり小屋には人がいない。
天賜の儀式と春のお祝いが重なる時期は、大体の領民が長期の休日としているからだ。
昔、数回だけ母に連れられて行ったことがある木こり小屋は、父が生前に働いていた場所。
街道には人の気配が残っている――だから私は森へ入った。
木々がざわめいて、葉っぱがカサカサと音を立てる。
暗くて、何かが動いた気がして怖い。
湿った土の匂いが鼻をつき、冷たい風が不安を煽ってくる。
木々の間からちらりと月が覗く、頼りない明かり。
私の息遣いが無駄に大きく響いている気がして、口を結ぶ。
足元の土がふわっと沈んで、思わずつまずきかけた。
一歩進むたびに耳の奥で響く鼓動がうるさい。
汗ばんだ肌に夜の空気がまとわりついて、いやに重たく感じる。
怖いけど、止まれない。
どこかで鳥の鳴き声がした。
夜の静寂に小枝がぱきっと折れる音がした。
思わず息を詰める。
動いた? 誰かいる? でも、確認なんてできない。
多分錯覚。
『大丈夫、誰も、何もいない……』
そう自分に言い聞かせながら、震える足を無理やり前に進めた。
木こり小屋までたどりつけば、きっと数日は隠れる事ができる。
数日あれば、この痛みも多少ましになるかもしれない。
ズキズキ主張する痛みが、私の歩みの邪魔をする。
だけど止まるわけにはいかない。
「がんばれる、あと少し」
と、自分を奮い立たせて進む。
思えば、今までの人生でこんなに頑張った事はなかったと思う。
もっと頑張ってたら、何か変わったのかな……。
それとも、最初からどうにもならない運命だったのかな。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまる。
弱気にだってなるよ。
こんな状況で強がれるわけない。
だって、スキルって希望のはずだったでしょ?
みんなそう言っていたし、私もそう願ってたのに。
でも、違った。
私には呪いだった――。
――木こり小屋が見えて来た。
あの頃と変わっていなければ、鍵は小屋の横の大木に作られた鳥箱の中だ。
私は、大振りの薪を引きずって運び、踏み台にする。
背伸びすればギリギリ届く鳥箱の中をあさった。
「……あった」
扉の錠前を開け、小屋の中に滑り込む。
藁積みに掛かったシーツの上に横たわると、私の意識はすっとこぼれて――。
………。
小鳥のさえずりが聞こえる。
もう、朝らしい……。
「はぁ、はぁ、……」
私は目を疑った。
目の前には、息の荒い“あいつ”がいる。
「トマス……」
『バシィン』
と、派手に引っ叩かれた。
「様は?」
驚きのせいで痛くはなかったけど、いろいろが鈍かった。
トマスは下半身をさらけだしていた。
それがどういう意味か、まったく頭が理解しようとしなかった。
「……」
「まあいいや。あのね、ボクのスキルにね、探知ってのがあるんだ。こんな近くで良かったよ」
なにがまあいいんだろう。なにが良かったんだろう。
やっぱり理解が追いつかない。
「あぁ、君はまだ所有物ではないから、大丈夫、“何も”してないよ」
何が大丈夫なんだろう、何もって、そう自分に問いかける。
ふと無意識に近い感じで左手が動いて、礼装の前がはだけているのに気がついた。
留め紐もほどけている……。
私は、やっと理解した。
遊ばれる寸前だったのか、と。
確かに、私の体には触れていないようだけど。
私は目を背けながら、胸元を、服装を正す。
トマスは服装を正していた。
そして意味のわからない笑顔だった。
「お願いだから、トマス……」
声が上ずってた。
喉の奥が締めつけられて、うまく言葉にならなくて、“逃がして”って言葉が出せなかった。
懇願は届かない。トマスが手を振り上げるのが見えた。
「トマス様!」
私は咄嗟に言い直してた。
無意識に、言い直してしまった……。
それが、ひどく悔しい気持ちになった。
「ダメ。君の叔父さんにも頼まれたし、もうお金も払っちゃったからね」
「叔父さんに?」
「叔父さん喜んでたよ? だって夏には苗を買わなくちゃいけないもんね」
言葉の意味が頭の中でぐるぐる回る。
やっぱりだ、叔父はお金を受け取り私を売っていた。
きっと簡単に迷いもなく、“苗を買う”ただそれだけの理由のために。
そして買い手はトマスで、今、目の前にいる。
……最悪だ。
思い出したように拳が、ズキズキ、と痛み始めた。
「ボクさ、昨日から考えてたんだよ。君のスキルのこと。だけど与えられたものだから仕方ないよね。でもさ、笑っちゃうよね。こんなゴミスキル聞いたことないよ。“紙を突き破る”なんて」
さも大げさにトマスは顔を横に振った。
嘆くような演技も白々しくて、違和感が積もっていく。
私は、ただ黙って聞いている。
「……」
「仮にさ、紙ならどれだけでもって話だったら、多少は使えそうかな? ほら、例えばコレ」
トマスは懐から分厚い本を取り出した。
お貴族様がよく手にしている信仰の書だ。
「聖書……?」
「そう。これも立派な紙束だよね? これなら少しは違ってくると思うからさ。ああ、いい事を思いついた!」
またトマスが懐を漁り、今度は、内ポケットから羊皮紙を取り出した。
「これは奴隷契約書。これをこうして聖書に挟む。で、君がこれを突き破れたら奴隷契約は破棄される。どうだい、やってみる?」
私はまだ奴隷契約書にサインをしていない、けど、どのみち無理やりさせられる。
ならその前に、私を奴隷にするために作られた契約書が破棄できたなら、……契約書の準備が簡単じゃないことくらいは知ってる。
状況は少しだけ変わるかもしれない。
「わかっ、わかりました……。やってみます」
従う情けなさに苛まれながら、私は小さく頷いて見せる。
「ああ、それと、今度も右手でやってね」
「えっ」
「両手を怪我したら大変だからね。ボクは、昔からお前が好きだったから、優しいんだ」
「でも……」
「でも、じゃない! 返事は“はい”だろ! ああ、やっぱり優しいだけじゃ駄目なんだな!」
トマスから感じた違和感がさらに大きくなった。
こんな高圧的なトマスを見たことがない。
だけど、まだチャンスはある。
一回だけ、もう一回だけ我慢して殴れば、聖書を貫いて、奴隷契約書を破れるかもしれない。
私は頷く。
「はい……」
「よし、じゃあ、やってみようか。レヴィ応援してるよ」
と、トマスが微笑んで言った。
もしかしたらトマスは、あえてチャンスを作ってくれたのだろうか?
トマスの笑顔が、優しいはずなのに、どこか違う。
たった1日で何かがズレている。
胸の中を、そんな違和感が引っ掻く。
なんだか怖い。
声だってそう、優しくはあるけど、違う……。
これ、本当にトマスなの? って今は疑念しか生まれてこない。
私は、包帯を解いて拳を見る。
痛々しい。
トマスも、私の拳を覗き込んで、
「うわぁ、気持ち悪い色」
って、大げさに哀れんでいる。
もしかしてこれが本性なのか、やっぱり変わってしまったのか。
私にはトマスの正体がわからなくなっていた。
トマスは聖書を両手で持って言った。
「思いっきり来ていいからね。もちろん、失敗しても成功しても大丈夫だから」
できれば黙っていてほしいって思う。
トマスの吐く言葉がいちいち気持ち悪い。
一回だけの我慢だ。
そう自分を奮い立たせ、その姿勢から振りかぶって、
『ゴッ』
と、右手で聖書を殴った。
表面が破れ、表紙の内側がむき出しになる。
「聖書ってさ、表紙が曲がらない様に、鉄板が入ってたんだね」
トマスは、気味が悪いほど、わざとらしく驚いていた。
全力でやった私。
あぁ、またバカを見たな、と、もう一人の私が呟いた気がした。
自覚するまでの時間は、またたくくらい。
「え?」
拳が歪んでいる。
それを理解した瞬間、鋭い痛みが腕全体に広がった。
「ギャァァァ――! 痛い! 痛いよ!」
私は叫んでいた。
涙がぶわっとあふれる。
頭がぼんやりして、視界が揺れる。
……こんなの、耐えられないよ――。