16、ウソ
どれほど時間が経ったのか、わからない。
皆さんを待たせたまま――私は、ずっと考えていたんだと思う。
マダムが伝えたかった大事なことよりも、きっと私は、それよりもっと根っこの部分で、何かに“引っかかって”しまってるんだ。
「あの、もしよろしければ、縄を解いていただけませんか?」
私はマダムに、お伺いの眼差しを向けた。すると、マダムは小さく頷く。
すぐに、ユングお嬢様がナイフで縄を切ってくれた。
手首はそれほど強く縛られていなかったので、痛みはほとんどなかった。
それを確かめてから、私は床に膝をついて座った。
皆さんが、私を見ている。
座ってからも、私はずっと考えていた。
けれど、どうしても結論には至らなかった。だから――考えながら、話すことにした。
「あの、正直に言うと……私には、分かりません」
「分からないって、そんなの――」
ヨーコお嬢様が言いかけたところで、マダムが手を上げて制した。
「まあ、聞こうか」
私は、ゆっくりと床に額をつけた。
奴隷の私に、今できる精一杯の礼儀だ。
「私は……分からないのです。だって私は、一ヶ月ほど前までは平民でした。幼い頃、父と母を亡くしました。
それは私にとって、とても悲しいことでした。
けど――そんなことは、きっとよくある話なんだと思います。
“よくあること”というのは、それだけで、悲しいことなんだと思います」
まとまらないながらに、私は感情を込めて、床に額をつけたまま、心の底から声を響かせる。
「その後、叔父夫婦に育てられました。二人にあまり良くは思われていないのは、私もわかっていました」
二人の顔が浮かび、ふと懐かしさと共に胸の奥で何かが揺れた。
ああ、そうか。笑ってくれたときもあったんだ。
それを忘れかけていたのだ、と気づいた。
「好かれていないことは……やっぱり、悲しいことです。
けど、それでも育ててくれました。
なぜ育ててくれたのか、“【スキル】に期待してたから”――その通りかもしれません。
でも、それって本当に不幸なことなんでしょうか?
私は……期待されることは、むしろ幸せだったんじゃないかなって、そう思うんです。」
マダムの言った言葉。
“生まれながらに不幸”――その言葉が、どうしても私を縛りつけるように、心に引っかかり、離れなかった。
そして、少しずつその言葉を受け入れたくないと思っている自分に、気づいた。
「“【スキル】というものがあったせいで”――と、仰ることは、わかります。
けど、私は……生まれた時から、不幸だとは思えないんです。
それは、私が――父と母に愛されていたことを、ちゃんと知っているからです。
たとえそれが「不幸だ」と言われたとしても、私はそれを認めたくない。だって私は――
あの温かさと、幸せを覚えているから」
言葉はまとまらずに、ただ心に浮かんだままの思いを、口から吐き出し続けた。
「マダムに反論したいわけじゃないんです。
皆さんがすごいことをしているのは……漠然とですが、私にもわかります。
けど、それと、私が奴隷であることは、たぶん関係ないんです。
きっと、平民に戻ったとしても――それは同じだったと思います。
奴隷になって、初めて知ったのは……残酷な世界でした。
でも、それだけじゃなかったんです。
あふれるような優しさにも、出会いました。
どちらも、嘘じゃなかった。
だからなのかもしれません。
私は今、奴隷であることを……不幸だとは思っていないんです」
この気持ちを否定するわけにはいかない。
少しの沈黙が訪れた後、私はこの一ヶ月を振り返った。
あれこれあったけど……嘘偽りのない、紛れのない本当の気持ちだ。
胸の奥では、感謝の想いが――あの頃の“不幸”を、少しずつ押し退けていくのがわかる。
「平民の生活なんて、いりません。
“平和に暮らすこと”が幸せだというのなら……そんな幸せも、いりません。
貴族様の寵愛を受けて、愛玩になるくらいなら――私は、館でくたくたになる方が、ずっと幸せです」
体が、無意識に震えていた。
昂ぶった感情が、抑えきれずに溢れ出る。
私は、思うままに――これまで以上に、言の葉を解き放った。
「マダムに怒られるのが、怖いんです。
……どうしてかって言われたら、それは“恐れ”じゃなくて、きっと“尊敬”なんだと思います。
素晴らしい人だから。主人として、私にとって、本当に特別な存在だから。
【調教士】っていうスキルの影響なのかもしれません。
けど、それでもいいんです。
たとえそれが全部、仕組まれた感情だったとしても……私は、マダムが好きなんです。
感じた優しさが、もし全部“嘘”だったとしても、それでいい。
救われた命だからこそ、愛おしいんです。
そして……皆様に救われた命だからこそ、なおさら――」
――この気持ちは、誰に与えられたわけじゃない。
これが私の意志なんだ。
「奴隷が卑しい者だというのなら――私は、その卑しさごと、受け入れます。
安い命でも、人でなくても……私は、マダムのために在りたいんです」
私の鼓動が、感情と共に激しく躍っていた。
「お叱りを受けても構いません。
そう思うことは――自由なのです。
貴女様は、仰いましたよね。『媚びて生きろ、心の中で舌を出せ』って。
……それって、“心の持ちようは自由だ”って、そう言う意味じゃないのでしょうか。
私は、勝手にそう考えました。
だから、私の心は自由です。――マダムにいただいた、自由なんです」
私は、大きく息を吸い込む。
さっきまで、呼吸を忘れそうになっていたのだ。
そして息継ぎのあと、私は言葉と一緒に、感情ごと吐き出すように語った。
「私は、奴隷の中でも――きっと、幸せなんだと思います。
“奴隷”という言葉が、可哀想だと思うなら……それは、違うと私は思います。
もし辞典に“奴隷は可哀想”と書かれているなら――その辞典を書いた人が、間違っているんだと思います。
私には、従属することが“不幸”だとは思えない。
むしろ、幸せに感じているんです。
短い期間でしたが、私は本当にいろんなことを学びました。
私は、奴隷として、とても恵まれた環境にいて。
でも、私とは別に――きっと今もどこかで、苦しんで死んでいく奴隷がいます。
私も、どこかで違う選択をしていたら……そうなっていたのかもしれません」
……トマスに従っていた未来なら、そうなっていたかもしれない。
そして、目頭が熱くなった。
こらえきれない涙が、視界の邪魔を始めた。
「ふふ……何を言ってるんだろ、私。
やっぱり馬鹿なんです。卑下じゃなくて……言いたいことも、うまく言えなくて。
涙が……止まらないんです……」
歪んだ視界の隅で、ぽたぽたと雫が床に落ちていくのが見えた。
私はそっと、手で床を拭う。
「カルロさんの優しさに、心がふわっとほどけたんです。
ミルとお話しする時間は、私にとって――ほんとうに嬉しいご褒美でした。
サシャさんには、触れられるだけで癒されるような優しさがあって……。
トウマさんのぬくもりからは、ただの優しさじゃない、深い苦しみを感じました。
お嬢様方だって、私を大事にしてくださいました。
奴隷になってからの方が、私は……ずっと、幸せを実感しているんです」
拭っても、拭っても……涙はあとからあとから零れ落ちていく。
私は、床を両手で拭いながら――思いのすべてを込めて、言葉を紡いだ。
「私は、ただ……マダムの奴隷でいたいんです。
皆さんのお側に、いさせてください。
ご命令なら、なんでも従います。
だから……どうか、私の幸せを奪わないでください」
――これが、言いたかったことだったのだ。
ようやく気がついて、私はそれをすべて吐き出した。
場は、とても静かだった。
――その静寂を、最初に破ったのはミルだった。
「はぁ、レヴィ。ほんと好き」
その声のあと、床を見つめていた私の視界の端に、人影が映る。
誰かが、そっと膝をついたのが分かった。
「頭をお上げ」
マダムの声。
そして、そっと――私の頭を撫でてくれた。
「はい……」
私は顔を上げた。
涙をこらえようとした下まぶたが、どうしても震えてしまう。
「午後の仕事に差し支えるだろう?」
そう言って、マダムが私の涙をハンカチで拭ってくれた。
「そんな、勿体な……」
と、言いかけた私の唇に、マダムはそっと人差し指を当てる。
「お前は大事な子だからね。これは主人の役目だ。――改めて、アタシのために働いてくれるかい?」
そう言って、マダムはまた、私の唇に触れた手で、私の頭を撫でてくれた。
「はい、仰せのままに」
私は、今度こそ自信を持って答えた。
マダムは微笑んだ。
「アタシはね、お前に嘘をついた。実は、スキルを二つ持っててね」
「二つ……?」
「そう。一つは【偽装術】」
「【偽装術】……?」
声に出してつぶやくと、マダムは頷いた。
「そして、もう一つは――【勇者】だよ」
「勇者……様」
勇者は、人の心を酔わせるのだろうか。
私の胸が高鳴る。
――私の主は、勇者だったのだ。




