14、鼓ドウ
10歳になる前だったと思う。
「ねえ、どんなスキルがほしい?」
トマスがそう聞いてきたのは、草原の丘で走り回って遊んで、疲れて座り込んだときだった。
「なんだろ。……役に立つスキルがいいな」
あのときの私は、ただ漠然とそう思っていた。
そうすれば、今の暮らしの何かが変わる気がして。
欲を言えば──
あっと驚かれるような、異世界転生者が持っているようなすごいスキルにも、ちょっと憧れてた。
「トマスは?」
そう聞くと、トマスは少しはにかみながら答える。
「ぼくは……戦士がいいな」
小さな声で、ちらちらと私の顔をうかがうように言う。
「どうして?」
私が首を傾けながら問うと、トマスは照れくさそうに頬をかきながら答える。
「だって、強くなりたいから。……レヴィを守れるくらいに」
後半はもっと恥ずかしそうにしながら、私から目をそらした。
「弱虫のくせに……」
あのときは、私も照れくさくて、つい少し意地悪な言い方をした。
それでも、トマスは笑ってた。
「レヴィ、起きて」
トマスの優しい声──もう少し寝ていたいのに――。
「レヴィ、起きて」
……トマスの声じゃない。
「え、……レリンさん? はい、ただいまっ──痛っ」
揺り起こされた私は、自室のつもりで体を起こしたせいで、机の角とおでこを思いきりぶつけた。
「なるべく、静かに」
「……申し訳ありません」
「うん。支度ができたら来て。静かに、急いで」
外は暗い、まだ真夜中だ。
何か、懐かしい夢を見ていた気がするけど、抜け落ちてしまうのも早い――。
娼館の仕事を仰せつかって、三日目。
普段は自室から通っているけど、今夜はお客様の宿泊があるので、いつ呼ばれてもいいように娼館に泊まることにした。
それに、ダンジョンから助け出された少女の様子見も兼ねて、彼女が眠る部屋で過ごしていた。
机の下に毛布を敷いて眠っていた結果、目覚めた拍子に頭をぶつけて、おでこをさする羽目になった。
レリンさんが静かに去ったあと、私は急いで身支度を整えた。
そして、少女の寝息を確かめながら、私もされたように、そっと彼女の頭を撫でる。
「早く元気になってね」
名も知らない少女の耳元に、小さく囁いた。
そのまま、静かに部屋をあとにする。
でも……なんの御用だろう。
小さなたんこぶをさすりながら、なるべく急いで管理室へ向かった。
管理室の扉の前に立ち、ノックをしようとした、そのときだった。
「入って」
中から先に声がした。
「失礼いたします」
扉を静かに開けて中に入り、一礼しようとした瞬間──
目に飛び込んできた光景に、思わず声が出た。
「え、ええっ? ユングお嬢⁉」
驚きが、抑えきれずに出てしまった。
「静かに」
レリンさんにたしなめられたけど、それどころじゃなかった。
そんなに落ち着いていられること自体、信じられない。
だって、ユングお嬢様の左腕が──肘から先が、見当たらない。
肘の上は、きつく縛られて止血されているようだった。
視線をずらすと、脇に置かれた桶の中で、氷漬けになった“左手”が目に入った。
もう、何が何だか分からなかった。
頭が追いつかないまま、レリンさんの声だけが耳に飛び込んできた。
「ミルを起こして、匂い消しを持ってくるよう伝えて。なければ急ぎで作らせて。それと、サシャを探してここに呼んで。たぶん、裏の塔」
ユングお嬢様が、申し訳なさそうに目を伏せて、かすかに囁いた。
「ごめんね……レヴィ」
私はぶんぶんと首を振る。
謝られるなんて、こっちのほうが申し訳なくなる。
それからレリンさんに問いかけた。
「塔って、トウマさんの、ですか?」
「そう」
サシャさんって、夜中にトウマさんの塔にいるんだ……。
考えてみれば、サシャさんがどんな生活をしてるのか、私はよく知らない。
――なんて、考えてる場合じゃない。
私は言われたことを頭の中で繰り返す。
「ミルに匂い消しと、サシャさんを呼んでくる。ですねっ、畏まりました!」
そう復唱して、くるりと背を向けた、そのとき。
「あと、サシャの代わりが必要だったら……頼む」
「……はい? 分かりました」
意味はよく分からなかったけど、とにかくサシャさんは今、何かしているんだろう。
私はミルの部屋を訪ねたあと、裏口から出て、敷地内の塔へ向かった。
敷地の中の小さな森は暗くて、夜の鳥が鳴いただけで私の肩が跳ねた。
普段、人の息遣いが近くにある場所にいるせいか、夜が怖く感じるようになっていた。
奴隷になる前は、そんなふうに思ったことなんてなかったのに……。
すぐに、塔の薄明かりが見えた。
私はほっとしながら扉の前に立ち、叩こうとした──その瞬間だった。
「はぁ……はぁ、う、あぁ……う」
塔の扉の僅かな隙間から、艶めかしい声が漏れていた。
娼館に寝泊まりしているのだから、この声が何を意味しているのか──それくらいは、もう分かっていた。
一瞬、躊躇ったけど、『ドン、ドン』と強めに扉を叩いた。
「あの、すいません。サシャさん、急ぎなんです」
樹木と蔓に囲まれて、音も光も届かないこの場所で、二人の逢瀬を邪魔したのかもしれない。
でも、仕方ない。そう自分に言いきかせて、もう一度『ドン、ドン』と鉄の扉を叩いた。
二度目のノックを終えた直後、扉が開いた。
扉の向こうから漏れる灯りを背に、裸のサシャさんが姿を現す。
「あの、レリンさんが」
そう言いかけたところで、
「分かった。すぐ行く」
私の言葉をさえぎって、サシャさんはローブを引っかけながら、片手で私の肩を押した。
押されるままに一歩下がると、サシャさんは何も言わず、すぐに夜の闇へと歩いていった。
そしてサシャさんは、背中越しに言った。
「レヴィ、話し相手。彼の」
そう言い残して、駆けだしていく。
「あ、はい」
とりあえず返事はしたものの……。
扉の前に取り残された私は、塔の中をそっと覗き込んだ。
中では、裸のトウマさんがソファーに深く腰を下ろし、額を手で押さえながら項垂れていた。
私は扉の隙間から、そっと塔の中へ入った。
「あ、あの、失礼します……」
重い鉄の扉を静かに閉めながら、トウマさんに背を向けたまま声をかける。
「何か、できることはございますでしょうか」
トウマさんは外套どころか、全裸だったから目のやり場に困る。
私は視線をそらしたまま、そっと傍らへ歩いた。
その場に膝をついて、控えるように座る。
トウマさんは、指の隙間からゆっくりと私を見た。
そして、絞り出すような声で言う。
「レヴィ」
「はい、先日お世話になったレヴィです、あっ……」
言いかけたところで、トウマさんが私を引き寄せた。
そのまま、私の胸の真ん中あたりに耳を当ててきて、そっと目を閉じる。
いきなりのことで、戸惑いと恥ずかしさがあった。
けれど、不思議と嫌な気持ちは湧かなかった。
少ししてから、抱き寄せられた時の半分の速度で解放され、トウマさんが言った。
「すまない。紅茶を淹れてくれ」
トウマさんが指を向けた先には、質素な給湯設備があり、お茶を淹れるための道具が整っている。
私は心臓の騒ぎを落ち着けながら、紅茶を淹れる。
トレイに紅茶を乗せて差し出すと、トウマさんはそのまま緩慢にカップを手に取った。
「それと……、すまない。もう少し触れさせてくれ」
「……はい、畏まりました」
私はトレイを傍らに置く。
どういうわけか、恥ずかしさはすっかり消えていた。
トウマさんは、紅茶のカップを持ったまま、母に包まれた時のように、そんな安らかな表情で私の胸に耳を重ねた。
こんな時、私のお母さんは、どうしていただろう。
そう考えた瞬間、自然と手が動いていた。
トウマさんの頭を柔らかく抱き、優しく撫でる。
紅茶の香りが漂う中、トウマさんはゆっくりと言葉を紡ぐように話し始めた。
「【葬儀屋】は、死者の声が聞こえるんだ。未練を、悲しみを、苦しみを告げに来る。それが幽霊なのか、幻覚なのかもわからない。ただ、無念を伝えに現れる。辛かったろう。悲しかったろう。だから、せめて安らかに眠れるように、死者を送ってやるんだ」
そんなの、……辛すぎる。
死んだ奴隷たちのことは、もちろん悲しいと思う。
だけど、私はトウマさんがそれを聞き続けることなんてないと思った。
それでもトウマさんは、それを続けるに違いない。
なんて優しい人なんだろう。こんなに心をすり減らしながら。
だからサシャさんは、この方の心を聞いていたんだ。
だから私は、……私も。
「少し、待ってくださいね」
と、彼を少しだけ手放す。
恥ずかしいけれど、私は紐を解き、服を脱いだ。
「サシャさんほど綺麗ではないし、まだ子供だから、私自身を“差し上げる”ことは出来ませんけど」
せめて素肌で、と思ったのだ。
私は生きています。
聞こえますか? 私の鼓動が。
なんだろう、胸の奥で、何かがざわついた後、
『カチ』
と、音が聞こえた。
そして、見たこともない文字が目の前に浮かんでいる。
……【レベル2にアップグレードしますか? 】
……▶【はい】【いいえ】




