12、モクテキ
今、地図の上ではダンジョンの中ほどにいる。
奥から流れてくる悪臭が濃くなり、思わず顔をしかめてしまう。
「レヴィ。それ、拾って」
サシャさんの視線を追って、地面に目を向けた。
血の付いた服だ。私たちが着ているものとは少し違うが、どこかの奴隷服のようだった。
私はその服を拾い上げ、革袋に入れてから、背負ったままのリュックに押し込んだ。
「回収しました」
私がそう伝えると、サシャさんは歩き始める。
しばらく進むと、サシャさんが足を止め、目を凝らして辺りを見渡していた。
私もそれに合わせて、静かに立ち止まる。
「危ないときは逃げて」
辺りを見渡してから、肩越しに言ったサシャさんの声が響いた。
私もすぐに答える。
「逃げません。サシャさんの邪魔にならないように、下がって隠れます」
「わかった、それでいい」
サシャさんがうなずいてくれた。
逃げろなんて言われても、逃げられるわけがない。
私と一定以上の距離が空いたら、サシャさんは死んでしまうんだから。
それをわかっていて、私はああ言った。譲歩のつもりだった。
サシャさんが素直に受け入れてくれて、ほっとした。
辺りには、ところどころに血だまりが残っていた。
素人の私が見ても、何かが激しく争った痕跡だとわかる。
サシャさんは周囲を慎重に観察していた。
そして、ひとつ頷くと、再び歩き出した。
ダンジョンに降りて、どれくらい経っただろう。
体感では、もう半日ほどは過ぎている気がする。
奥のほうから、『ギエェッ』と、低く、喉の奥で響くような獣じみた唸り声が響いてきた。
「少し距離を空けて、来て」
サシャさんが足を止めて、私に目をやった。
私もそれにうなずき、距離を取りながら歩き出した。
「……はい」
この先に何があるのか、まったくわからない。
緊張で、心臓が激しく脈を打つ。
サシャさんがふと振り返り、静かに頷いた。
隠したつもりでも、私の緊張は丸見えらしい。
カルロさんとの合流地点も近づいている。
ここまで障害もなく順調に進んできたから、もしかしたら私たちのほうが先に到着するかもしれない。
荷物持ちの私は、せめて迷惑をかけないようにと頭をフル回転させながら、準備をしている。
そして、サシャさんとの距離を保ちながら、慎重に進む。
そして、鳴き声や激しい音が徐々に近づいてきた。
だが、その激しい音が突然消えた。
サシャさんの歩き方が変わった。足音を全く立てていない。
私はしばらくそれを見守った後、極力静かに進み始める。
角を一つ曲がると、すぐにサシャさんが立ち止まった。
「怯えてる」
サシャさんが、低い声で呟いた。
その言葉が何を意味しているのかはすぐには分からなかったが、とにかく私はサシャさんの脇から、そっと先を覗き込んだ。
「!」
思わず声が出そうになり、慌てて自分の口を両手で押さえた。
目の前には、おびただしい数の魔物の死骸が転がっている。
そして、その血だまりの中に、うずくまるウェアウルフがひときわ目立っていた。
十年以上前、父が働いていた伐採場にウェアウルフが現れたことがあった。
近隣の住民は避難を促され、周囲一帯が立ち入り禁止となった。
都市の守備兵が何十人もかかって囲い込み、大規模な捕獲作戦が展開された。その時のことを、私は幼いながらに鮮明に覚えている。
そして、今――私たちの目の前にも、ウェアウルフがいる。
この惨状は、あのウェアウルフが引き起こしたものなのだろうか?
『ごくり』
緊張からか、無意識に喉が鳴った。
すると、ウェアウルフは、閉じかけたまぶたをゆっくりと持ち上げた。
「大丈夫、助けに来た」
サシャさんが静かに言った。
助けに来た?
目的はこのウェアウルフを助けることだったんだろうか。
ウェアウルフは立ち上がる。
脇腹に空いた深い切り傷からは、血が溢れている。
「動くな。それ以上動いたら、もう助からない」
サシャさんが一歩踏み込んで言った。
ウェアウルフは、サシャさんが踏み込むたびにびくっと震え、身構えた。
私は、眼の前の光景に目を奪われた。
さらに一歩踏み込むサシャさん。
『ギリギリ……、ワゥゥゥゥゥ』
ウェアウルフは、牙をむき出しにし、低い唸り声を上げた。
もう一歩踏み込んだ瞬間、ウェアウルフは鋭い爪の生えた野太い腕を振り上げた。
「危ない」と私が声を上げるよりも早く、サシャさんはウェアウルフの手首を掴み、力で無理やりにもう一方の手首も捕まえた。
あの細身の体のどこにそんな力が──。
次の瞬間、『ビリィィィ』とサシャさんの服が裂けた。
服の下の肉体が膨張し、布が耐えられなくなって千切れたんだ。
そして、サシャさんの体は二回り以上大きく見え、四肢には白い毛が生えていく。
白い体毛の他には、首輪だけが窮屈そうに残っていた。
これが授業で習った【ライカントロピー】なのか。
驚いてはいたが、思考は非常にクリアで、私自身が不思議に思うほど冷静だった。
そして、私は気がついた。
あの傷、見かけは違うが、“先日の少女”の傷に、どこか似ている。
そして、ここはダンジョンの中だ。
つまり、あのウェアウルフも奴隷で、私たちは捨てられた奴隷を助けるために来たのではないか。
頭の中で、事の成り行きが次々と繋がって、私の考えは、そこに行きついた。
白狼の姿になったサシャさんは、灰色のウェアウルフを抱きしめる。
「がんばれ」
心の中で、私はそう呟いた。
抵抗は徐々に弱まり、白い糸のような煙が立ち上ると、ウェアウルフは少女の姿に変わっていった。
「レヴィ、タオルだ」
背後からの声で、ようやくカルロさんが近くにいることに気づいた。
目の前の光景に完全に心奪われていたため、すっかりカルロさんの存在を忘れていた。
「はいっ、畏まりました」
慌ててリュックを下ろし、タオルを取り出す。
サシャさんも元の姿に戻ると、裸に首輪だけが残っていた。
その姿が、このダンジョンの中で、やけに艶めかしく見えた。
サシャさんは少女を寝かすと、腹部の深い傷に両手をかざし、「Regenora」と呟いた。
その瞬間、サシャさんの手のひらから微かな光が放たれ、傷口がゆっくりと閉じ始める。
傷の周りの皮膚がつながっていくような感じだ。
私はその光景に目を奪われながら、少女のことが気になって急いで駆け寄った。
「今回は何とかなる」
サシャさんが、どこか安堵したように呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、私も肩の力が抜け、ようやくホッと息をつけた。
前回は助けられなかったけれど、今回は──。
その違いは、現地にサシャさんがいて、治癒魔法をかけることができたからに違いない。
タオルを持って控えていると、サシャさんが私からタオルを受け取り、少女を優しく包んだ。
「よし、後は任せろ」
カルロさんが少女を抱き上げる。
「レヴィ、荷物を頼むぞ。帰りも気を付けてな」
少女を抱き上げる代わりに、私はカルロさんの荷物を預かることになった。
カルロさんは急いだ様子で少女を抱えたまま駆けていく。
帰ればきっとノーマさんが施術の準備をしているだろう。
私はカルロさんを見送った後、荷物からサシャさんに羽織ってもらうための服を差し出す。
サシャさんは頷いて羽織り、
「すぅぅぅ――。はぁぁぁ」
と、大きく深呼吸をした。
本当の意味で、一息つけたんだろう。
私は急いで荷物を集め、リュックにまとめて押し込んだ。
それから、重さに負けないよう勢いをつけて背負い込む。
「準備できました」
サシャさんに声をかけると、短く「ん」と頷いた。
「あの、お疲れ様です」
何か言いたくて探した結果、それは素直にねぎらいの言葉になった。
サシャさんは私に近寄り、見下ろしながら言った。
「大丈夫、聞こえてたから」
「え?」
「レヴィの応援、心の声」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣きそうになった。
場の雰囲気のせいもあるかもしれないが、とにかく嬉しかったのだ。
あとでマダムから聞いた話だ。
サシャさんが持っているスキルは【聖女】と、やはり【ライカントロピー】だった。
相反するような二つのスキルを授かったサシャさん。
どうして彼女が罪人になったのか、その理由まではわからない。
だけど、――人の心を聞く聖女。
サシャさんの姿を思い浮かべたとき、その言葉の意味がすっと腑に落ちた。




