11、ブキヨウなトガビト
私はマダムの部屋に入ると、一礼してからそっと隅に立った。
マダムとカルロさん、そしてサシャさんが室内にいる。
机を挟んで向かい合うマダムとカルロさん。
サシャさんは壁にもたれて立っていた。
何か深刻な話の最中だったのだろう。
部屋には、張りつめた空気が漂っていた。
待機を命じられた私は、部屋の隅で静かにマダムの言葉を待っていた。
「マダム。俺がこのルートを回るから、もう一方を冒険者とサシャに任せるって形でどうだ」
カルロさんがそう言いながら、地図の上に指を滑らせる。
サシャさんは腕を組み、壁に寄りかかったまま黙って佇んでいた。
「そうだねぇ、けど、今回は冒険者を使うのは避けたいんだ」
「いや、しかし、人が足らねぇ。罪人奴隷は単独で行動させることができないしな」
「そんなの分かってるさ。だから……」
マダムが私に視線を向けた。
「レヴィ、お前にポーターを頼みたいんだが」
「ポーター……ですか?」
「ああ、サシャとダンジョンで荷物を回収してきてほしいのさ」
記憶をたぐる。ポーターって、荷物を運ぶ人のことだっけ?
しかも、ダンジョンに? サシャさんと?
なぜ私なんだろう。
疑問は次々と湧いてきたが、その瞬間、
『ダンッ』
カルロさんが机を激しく叩いた。
「ちょっと待てよ! レヴィには早すぎるだろ!」
その音とカルロさんの怒気に驚いたけれど、それだけでは終わらなかった。
『ゴッ』
サシャさんが壁を蹴り、静かに言った。
「奴隷は、お前の妹じゃない」
疑問がさらに増える。
……妹って、どういう意味だろう?
けれど、疑問はすぐに吹き飛んだ。
カルロさんは、今にもサシャさんに掴みかかりそうな勢いで詰め寄った。
「あぁ? おいサシャ、てめぇ余計なこと、ぬかしってんじゃねぇぞ」
カルロさんの声が震えていた。私にも何となくわかった。これは、触れられたくないことに触れられたときの怒りだ。
見ていられなくなった。だから、とっさに声が出てしまった。
「あ、あの、私やります」
――ごめんなさい、カルロさん、と心の中で呟いた。
カルロさんにとっては嫌かもしれないけれど、私の主人はマダムだし、何より、口論を止められる。
カルロさんはサシャさんから顔をそむけ、サシャさんは何も言わない。
そして、マダムは思案顔のまま、私に頷いた――。
――奴隷は、単独行動を制限されている。
許可なく館を出て、街を歩けば、たちまち奴隷の杭が膨張して、のたうち回ることになる。
これはあくまで一般奴隷の場合だ。
サシャさん――つまり罪人奴隷は、許可の有無にかかわらず出歩くことすらできない。
必ず監視役が付き、一定の距離以上離れれば、罪人奴隷は【死亡】する。
一般奴隷の足にある杭と違い、罪人奴隷の杭は心臓に刺さっている。
首輪は罪人奴隷と見分けるためのもので、それ自体には何の効力もない。
と、ノーマさんに教わった話を思い出す。
単独では動けないサシャさんのために、私が同行する。
――とはいえ「監視役」という名目でも、実際のところはただの荷物運びだ。
ところで、なぜ一般奴隷が監視役を務めるのか。
それは、危険な場所に向かう場合、主人は安全な場所で待機するのが前提になっているからだ。
奴隷の命は、物に等しい。
事故で死んでも、それは主の責任にはならない。
単なる損失として処理されるだけだ――。
――私は湿ったダンジョンの通路を、サシャさんの背中を追って歩く。
少し大きめの革鎧に身を包み、慣れない装備に戸惑いつつ、リュックを揺らしながら進んだ。
置いていかれないよう、必死で歩く。
ふと――、
『主が捨てるからさ』
トウマさんの言葉が頭をよぎった。
だから、肝臓を切り取られた奴隷は、ダンジョンに捨てられるのか。
正確に言えば、奴隷は“捨てられるために”瀕死のまま送り込まれるのだ。
欠損した身体でダンジョンを歩く。
それが、どれほど過酷なことか。
ただ歩くだけでも、ここはこんなに辛いのに。
薄暗い石壁の通路は、サシャさんのランタンで照らされ、しみの一つ一つが不気味に見える。
時折、奥からゴウという音とともに、湿った風が流れ込んでくる。
その風の中に混じる、嗅いだことのない悪臭。
私の顔は自然と歪んでいた。
サシャさんが、何も言わず振り返る。
何か言いたげな――でもやっぱりやめたような。
私は急げと言われているような気がして、少しだけ距離を詰めた。
サシャさんがまた振り返った。
私が足を速めると、逆にサシャさんは振り向いたまま、足を止めた。
「手」
私は立ち止まる。
「手、ですか?」
何かの合図だろうか、私は問い返す。
「手、もう痛くないか」
サシャさんの言葉に、私は、はっとして自分の右手を見た。
「はい、おかげさまで! ありがとうございました」
元気な声で私は言う。
大きなリュックを背負ってお辞儀できないから、声に気持ちを込めたのだ。
けれど、石壁に声が響いてしまって、私はあわてて口を押さえた。
サシャさんは何も言わず頷き、また前を向いて歩き始めた。
分かった。
この人、サシャさんは、怖い人じゃなくて、すごく“不器用”なだけなんだ。
実際、私はサシャさんに何度も回復魔法をしてもらった。
手だけじゃない。鞭で受けた背中の傷も、トマスさんに蹴られた顎も。
長身のサシャさんの背を追いかけながら、私はこんな状況なのに微笑んでしまった。
でも、サシャさんが罪人になった理由って、何だったんだろう。
新たな疑問が浮かんだ瞬間、心の中でその答えを探し始めたが、
「主人を殺した」
背を向けたままのサシャさんの声が、石壁に吸い込まれていった。
「え……?」
一瞬、言葉を反芻する。
……本当に、今そう言った? と自分に問いかけた。
そもそも声に出した覚えがない疑問を、サシャさんはまるで予知していたかのように答えている。
そして、その答えが偶然でないことは、すぐに分かった。
「気持ち。見えるから、ごめん」
サシャさんが、肩越しに、ほんの少しだけ振り返って言った。
そして、すぐに伏せ目がちに、前へと向き直る。
「……そう、だったんですね」
これは例えとかじゃない、“スキル”だ。
サシャさんの言葉は、まっすぐ私に届いていた。
そして、同時に罪悪感めいたものを感じた。
サシャさんは、“不器用”なだけじゃない。
私が思っていた以上に――いろいろ分かっていたんだ。
だからこそ、サシャさんは“見ない”ように人を避けていたのかもしれない。
むしろ、人の気持ちに触れすぎたから、避けるようになったのかもしれない。
私には想像もつかないけれど、本当はすごく怖かったのかもしれない。
予測ばかりだけど、一つ確信できた。
この人は――サシャさんは、とんでもなく優しい人なんだということ。
私の手は、サシャさんの優しさで癒やされた。
歪だけど、今はちゃんと使える手だ。
私は、自然と自分の手を眺めていた。
『主人を殺した』
その言葉はショックだったし、本来は不可能な事だから、何となく私の理解を超えた理由がある気がした。
けれど、今はそれよりも、大事なことがある。
私はできる限りサシャさんの近くを歩いた。
心が読めるなら、本心を伝えやすい。
私は、心の中でも【ありがとう】を告げた。




