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A.U.R.A. The revision  作者: 貴志真 夕
ACT.1 イカロスの天使
5/30

ターン・アウト・ワーフェア(1)

 ――で、そういえば、昨日言ってた渡したい物って何です?

 ……枢くんってさ、いや、五年も付き合ってたから知ってたけどさ、デリカシーないよね。

 ……え?

 あとあれ、KY。

 え!?

 はいこれ、お弁当。じゃ、私もう行かなきゃいけないから。

 ちょ、ちょっと茜さん!?


「――と、いうのが今朝繰り広げられた会話でありまして……」


 睨んでくる二人を前に、枢は頬に一筋の冷や汗が垂れているのを感じた。


「……枢って馬鹿だな」


「以下同文」


「くぅっ!」


 冬夜と美沙都に話半ばまで聞かせた所で二人の心情が嫌というほど何となく分かってしまったが、それに堪えどうにか最後まで話し切るも、やはり予想通りの反応が来てしまった。

 冬夜はむしゃむしゃと海苔弁のご飯を貪り、美沙都に至っては何故かがつがつとポテトサラダを掛け込んでいた。二人の視線はじと目と三白眼。前者は良いものの後者は何故かタマを狙われている気がして普通に焦ってしまう。


「えーと、まあ、何というか、自分では良く分からない訳ですが……」


「だから馬鹿だっつんだよ」


「以下同文」


「ぐ、ぐぅ……」


 そう言われても、こちとら恋愛なんぞしたことがないでござる。女心なんてのは宇宙に果てがあるのかぐらいに謎なのだ。相対性理論を理解する方が遥かに容易だと思うのでござる。何てことは口が裂けても言えない雰囲気であったので、卵焼きと一緒に飲みこむ――しょ、しょっぺえ!


「ぐ……ごほごほ!」


「うん? どうした」


「いや、卵焼きがめちゃくちゃしょっぱい」


「そりゃあれだろ。殺意込められてんだよ」


「何故!」


「お前が馬鹿野郎だからだ」


「ぬ、ぬぅ……」


 そう言われても、本当に何も分からないのだから仕方がない。何が怒りの引き金なのかさっぱりな時点で直しようがないだろう。


「で、どこら辺が馬鹿なのでしょうか、師匠」


「知らん」


「な、し、知らんて……」


「お前から聞いただけじゃ分からんってことだよ。まあ話聞く限り、決め手としては分かるが、どうせ他にも何かあったんだろう。食事してる時の話でもさ」


 いや、あの時はただ酔ってただけだぞ……。


「では言ってやる。枢、俺たちは来年から進級して高校二年になるな?」


「う、うん……」


「んで更に言えば、高校二年と言えば身長が170を超えてくるなんて言うのはざらだし、体格だってかなりがっちりしてくる。大人びてくる。お前はまあ……多少成長が遅れてはいるようだが、まあ餓鬼っていうほど餓鬼でもない。顔は幼いが身長もそこそこある。中学から比べると格段に男っぽくはなった」


「は、はあ……」


「だから強引に力づくで女を押し倒せるわけだ」


「なっ!?」


「そういうことだ」


「どういうことだよ!」


「それは自分で考えてくれ。まあ正直これが正解かは知らん。ただ信用されてるだけかも知れんし……でも、ま、俺なら攻めあるのみ。……で、その隣人ってのは可愛いんだろ?」


「あー、うん。可愛いってか、綺麗って感じだけど」


「で、五年ずっとか……」


 ふぅん、と頷くと、冬夜は枢の隣を一瞥して不意に立ち始めた。


「ま、あとは知らん。というより俺は退散する。あっちの席で観戦させてもらうとするさ」


「……は? いやちょっと待て意味が分からん!」


 しかし枢の叫び空しく、冬夜はそそくさと弁当を持って離れて行ってしまう。女子のグループへと軽快に挨拶をして近くの席に座りこんだかと思うと、にやけ顔で何やらこっちを見ていた。当然周りの女子も。


「何なんだよ……全く。なあ、みさ――と、さん?」


 見ればそこには鬼が――もとい、恐らく立川美沙都が黙々と一心不乱に弁当を貪っていた。


「え、えーと……あれ、どうなさったんでしょうか?」


 しかし知っていた。長年の付き合い故にこの後の展開はまるで神託を受けたかのように確信していた。生じる理由は分からないが目の前の光景を観測することで得られる予測は明確に出来ていた。


「あーっと、ボクチョットトイレイッテキマス」


 途端にぴたりと止まる箸。


「待って。その前に聞きたいことがある」


「ナ、ナンデセウ」


 付き合ってるってどういうことよ――。

 そんな叫びが学校のとある一棟に響き渡った。そんな御伽噺が後々語り継がれることを、今は未だ枢には知る由もなかった……。



     /



「と……ほっほ……」


 枢は独り、節々痛む体を引き摺りながら校庭を歩いていた。周りを歩く生徒は彼の纏う満身創痍オーラにこそこそと一瞥を向けていく。時折友人が通るも、昼間の事件を知っているが故により枢の纏うオーラは近づき難く感じ、結局声を掛けられずそそくさと家路につくのであった。

 何故体が重く感じるまでに損傷ダメージを受けているのか――それはあまり考えたくない悪夢であった。そして其処にいたのは間違いなく悪魔であった。何を言っているのか分からねえが、そうなのである。


「とほほ……」


 スクールバッグを肩に掛け直しながらもう一度溜息吐いた。

 言わば、孤立無援である。美沙都は御立腹で悪魔に変化、冬夜は呆れと部活で相手にはして貰えない。これから確実に来るであろう茜との夕食の時間、まず第一声をどうすれば良いのか。そんなことを考えるが、分からず、かと言って誰かの手助けは期待できそうになかった。

 何度か溜息をきながら、枢はバス停までのそのそと歩いていく。途中、やがてやってきた行き先の違うバスに乗り込みそうになったものの、適当なバスに乗り込み、流れる景色を呆けつつ眺めていた。

 所謂、元々住んでいた枢の実家は今の住居であるマンションとは少し遠い所にあった。バスで凡そ三十分、自転車で四十分といったところであろうか。幸い中学校の学区はぎりぎり美沙都や冬夜と同じ地域であった為、転校という羽目にはならなかったが。

 そもそもの茜との出会いはその時であった。どうにか空元気という処世術を覚えた頃だ。凡そ五年前、引っ越し先の隣人が茜であった。

 枢が引っ越す決意をさせた要因は、端的に言えば依存から逃れる為だった。七年前、枢は両親を喪った。そして同時に、妹を実質的に奪われ――孤独の身となった。それを真っ白い病室で初めて目が覚め、医者から伝えられた時は絶望した。言葉で表せばなんとあっさりとしていることだろうか。しかし、枢の心は深く何かを穿たれ、奪われ、そして何かが染まった。

 枢はその事実を知らされた時、無意識的に医者の首襟を掴んだ。そして何かを叫んだ。しかしそれは酷く要領を得ない物で、誰にも解することは出来なかった。それが、枢の極度に混濁した感情の現れであることは明瞭だった。

 その時、怒りのぶつけどころはその医者だった。医者もそれを覚悟の上で、敢えて両親と妹の治療を行った自分自身の口で伝えたのだった。殴られる覚悟はあった。

 しかし、医者に拳が振るわれることは無かった。殴りつけようとしたその時、枢は体のバランスを大きく崩してしまったからだった。枢はその時“両脚がなかった”のだから、当然と言えるのかも知れない。振り上げた拳虚しく、枢の体はベッドの上に横たわる。そうして自身の現状――無力さ、孤独さ、理不尽さ、そういったものをその動作一つで強く感じてしまい、ベッドに伏せたままそのまま暫く泣き続けた。

 以来の枢は一言で表せば荒れていた。物に、人に、何かにあたり続ける日々だった。そうでもしなければ自分の心がもたなかった。目に見える、自分の手が届く何かを悪者にしなければ平静を保つことなど不可能だった。結果、枢の病室には日に何度も看護師が訪れることになった。そしてそのあたる対象には、当然の様に美沙都と冬夜も入っていた。

 まだ小学三年生の幼い時だ。元来明るく人当たりの良い性格をしていた枢には沢山の友人がいた。当然、彼らも見舞いに来た。しかし、枢は彼らにすらあたり続けた。当たり前の幸福を持っている彼らが羨ましかった。黒い目でしか、枢は彼らを見れなかった。

 次第に訪れる人は少なくなっていった。それでも執拗に見舞ってくれたのが美沙都と冬夜の二人であった。思い返し、枢は何度も二人に感謝していた。二人がいなければ、確実に今の自分はいないのだから。

 美沙都とはまだ赤ん坊の頃からの付き合いだった。それも家族ぐるみで。だからというのもおかしいが、彼女がしつこく見舞いを続けたのは納得がいく。

 冬夜はまだ知り合って一年も経たないが、それでも彼は通い続けてくれた。表面こそそっけないものがあるが、彼は心から他人を思いやることが出来る人間なのだろう。

 そうして二年後、枢は漸く眠り続ける妹をその目で見た。安らかに眠っていた。絹の様な綺麗な肌もそのままで、美しく閉じられた瞼睫毛もそのままで、まるで今まで見てきた良く知っている――ただ熟睡しているだけの妹、結衣にしか見えなかった。それが一層、枢に涙を込み上げさせた。白い病室で眠る白い彼女は、何処までもその白さとは遠い場所にいるようだった。

 その後、義足をその両脚につけ、枢は退院した。ある一つの決意をして。

 退院したといっても、再び学校に通う事は無かった。見舞いに来てくれた彼らに合わせる顔がないと強く感じていたからだ。結局家庭教師を雇い、何もしなかった二年間を取り戻し、それだけに納まらず所謂“お受験”の為に超過の努力もし、そして県内で随一の私立進学校とレッテルを貼られている中学に進学した。それもまた、友人と同じ学校になどとても通う資格がないという事、そして、いつか目覚める妹の為にも自分が将来養う義務が――否、義務ではなく、彼女が目覚めたとき、少しでも良い兄で、良い環境で迎えたいと思っていたからだった。

 驚いたのが、合格したその中学では美沙都と冬夜の二人がいたことだった。


「――っと、危ない危ない」


 次の停留所は病院というアナウンスを聞き、枢は慌てて下車ボタンを押した。そうしてまた、妹の眠る病院に到着した。

 もはや完全に顔馴染みとなった医師や看護師に軽く頭を下げながら、妹の病室へと向かう。

 相変わらず、そこの白い部屋には白い肌をした結衣が白いベッドに眠っていた。

 可能性として、意識を取り戻す見込みは低い。過去、そう医者に言われた。目の前で眠る、白い肌をした百合の様に“弱る”結衣の現実はそれだった。まだあたたかいのに、いきをしているのに。それでもやっぱり、結衣は生きながら死んでいるという形容が一番合致してしまう。

 丁寧に毎日看護師達がリハビリをしてくれてはいるが、そんなのは所詮関節が固まらないようにというだけだ。所詮自分で動かしていないのならば、筋肉は衰える一方だった。

 栄養も無論点滴のみ。脂肪も筋肉も薄くなっていき、まるで枯れ木のようになっていく。毎日欠かさず見舞いに来ている枢には、それが痛いほど、そして追って理解できていた。それが何より、枢の心を締め付けた。

 あれから開くことのない瞼を見るたびに胸から何かが込み上げて来そうになる。だが、それを唾と共にいつも飲み込む。そうして体温の有る白い肌の細い指を握り締めるのだった。

 出来る事は何もなかった。それは結衣の担当医でさえも。昏睡というのは、有る意味で対処の使用が全くない症状だった。

 原因は精神性ショックのものだろうと告げられた。だがそれ故に、何も処置を施すことが出来なかった。あの日の傷はもう癒えている。しかしきっと、心の傷だけは今もまだ深く“抉った”ままなのだろう。

 祈りとは、何と無力な行為なのだろう。

 今、彼女は夢を視ているのだろうか。それとも夢すら見ることない“生き死人”なのだろうか。――呼びかければ、応えてくれるのだろうか。


「結衣……」


 けれども、握る指も閉じられた瞼も反応することはなかった。枢は独り白い病室で、胸の中だけで声を上げずに静かにまた泣いた。

 どうしてこうなったのだろうか。彼女が何かしたのだろうか。神が居るなら、どうして彼女にこの役目が課せられたのだろうか。何か、意味があるのだろうか。意味すら、何もない理不尽なのものなのだろうか。


 だとしたら、何と言う皮肉だろう。



     /



「……さとし、一ヶ月振りだね。一日遅れでゴメン。メリークリスマス」


 しゃがみ込み、茜は弟の墓の前で微笑んだ。空から降る雨は聡を濡らしていた。自分が濡れるのも構わず茜は傘を墓

さとし

にも差した。

 聡の前には既に花の一束が置かれていた。誰だろうか。両親か聡の友人か……何にせよ、まだ自分の弟が皆の心から消えていないことを喜んだ。

 そうして暫くそのまま、刻まれた一之瀬聡の名前をただ見つめ続けていた。


「私さ……好きな人、出来ちゃったかも知れない」


 不意にそう口を開いた茜は、言葉を紡ぐと共に困ったように苦笑した。

 硝子の様な声で茜は続ける。


「まあ、人っていうか子かな。自分でもね、最初はそんなんじゃないと思ってたんだ。歳も離れてるし、全然かっこよくもないし……第一印象だって、うじうじしてて全然男らしくもなかったしね」


 自分で言って何処か可笑しく、口元に手を当てながら語りかける。


「でも……優しいんだ。きっと、心から哀しい思いをしたから……」


 頭に過ぎる七年前の悲劇の一幕。天国へと近づく塔は一転して地獄へ誘った。幾つもの死が生まれた――聡の死が生まれた惨劇。


「それとね……何か聡に似てるんだ。顔が似てるってわけじゃないんだけどね……表情とか仕種とか、反応とか、雰囲気が。でなんかさ、ずっとあの子のこと考えてるんだよね。最初は聡に重ねてるんだろうなって思った。でも多分ちょっと違う。確かに始めは聡と重ねて思っていたかも知れない。でも、今はきっとあの子個人を思ってる。ずっと一緒にいたいと思うんだ。恋とは、まあもしかしたら違うのかも知れないけど……いやでもあの時何故かイラッと来たからなあ……うぅん」


 顎に指を添え、数秒茜は唸り続けた。しかしその数秒後にあっさり「分かんね」と朗らかに笑った。


「まあ何にせよ、好きな人……大切な人であることは間違いないと思うんだ」


 そこまで途切れ途切れに言い切ると、肘に掛けたバッグから一つの黒い箱を取り出した。そしてその中から、一つの小さな小さなペンダントを取り出した。


「だから……こんなのも買ったのにな。家計は厳しいのでお粗末な物ですが。――これね、モルセラを象ってるんだって。モルセラって聞いたこと無かったんだけど、花言葉が気に入ったから買っちゃったんだ。誕生石のカーネリアンもほんの少しだけど飾られてて綺麗だったし」


 そして屈んだまま、両肘を自分の膝に立て、両手で自分の頬を包んで、微笑みながら言った。


「モルセラの花言葉はね――“永遠の感謝”って言うんだって」


 一息、茜は息を吸う。


「私、聡に感謝してる。たったの十二年間だったけどありがとう。感謝してる。だけど、聡の死……過去の悲しみからは私離れるよ。いつまでもうじうじしてちゃ駄目なんだ。前を向かなきゃ。どれだけ思っても聡は帰ってこないんだもの。もし、空から私を見てるならごめんね。でもあなたの気持は分からない。だって、死んじゃったんだもの。道徳観だとか、倫理観だとか、そんな聡から聞いたんじゃないもので縛られるのは嫌。嫌なの、重いものを抱えながら生きていくのは。ごめんね、私は弱いの。そしてきっと、これは私のわがままだと思う。

 ――だけど聡の事は絶対忘れない。永遠の感謝は、ずっと胸に抱き続けるから」


 ペンダントを墓の前で眩しく揺らして、茜はもう一度破顔した。



     /



「――枢くん、時間ですよ」


「ん……あれ?」


 看護師の声で枢は意識を取り戻した。上半身を起こされ、寝ぼけ眼を指で擦る。


「うわ、僕もしかして寝てました?」


「ばっちりと。それも仲良く手を繋いでね」


「うわ! あ、いや、その……」


 言われ、慌てて結衣から手を離す。何となくそう言われると気恥ずかしく、枢の顔は少し赤くなっていった。


「良いじゃないの。何だか見ていて微笑ましかったわ。ほら、結衣ちゃんも心なしか、喜んでいるように見えない?」


「え? あ……ほんとだ」


 言われ結衣の顔を覗けば、気のせいかもしれないが、少し綻んでいるように見えた。淡く、目元だけが破顔している。安らかな寝顔だった。


「きっと、お兄ちゃんと同じ夢を見ていたのね……」


「そう、なのかな……」


 彼女は夢を見ることすらも出来ないのかもしれない。独りでは。

 けれど、自分が傍に居れば、夢を見ることが出来るのかもしれない。手を握れば体温を分かち合えるように、一緒に居れば、心だって――。


「――そうだと、良いな」


 目に染みる何かを誤魔化す様に左手で口を覆うと、枢は軽く鼻をすすった。それを横で見る看護師が微笑む。

 そっと近寄り、枢の肩に手を添えた。


「さ、日はもう沈んでしまいましたよ。これから、今日最後のリハビリがあるから。枢くん疲れてるみたいだし、今日はお帰りなさいな」


「あ、ホントだ。もう六時過ぎだ……」


 荷と服を正し、一礼をして枢は妹の病室を後にした。

 去り際に、妹の声が聴こえた気がした。そよ風に揺れる鈴のように澄んだ声で、お兄ちゃん――と。



   ――



「な、何でやねん……」


 知れず、枢は携帯の画面を睨みながら零した。

 帰りのバスが十五分遅れていた。訝しみ、携帯を開き運行状況を調べる。運行停止。空は星空とは言えないものの雲のない快晴。何でやねん。

 仕方ない歩くか、と今現在に至る。

 枢が徒歩を避ける理由はいくつかあった。無論ただ面倒臭い、時間がかかるという理由もある。しかし何より敬遠してしまうのは、道の途中に建っているとある廃屋だった。遠回りすれば極端に時間が嵩んでしまう為、道の関係で通らなければならない場所だった。

 その建物の前で、枢は立ち尽くす。膝に痛みが走る。膝の付け根を静かにさすった。

 聳える廃墟は枢の父が勤めていた会社だった。かろうじて三階まであるだけの小さな企業。何をしている会社なのかは全く知らなかった。何故か、父も母もあまり話したがらなかった。父は元より話す機会自体が希薄だったのだが。

 今ではもう使われることはなかった。あまり良く知らない。知りたくもなかった。

 これはどうしても父を思い出してしまう捨てられた廃墟。そしてそれと共にどうしても痛んでしまう過去の傷――それを掘り起こすものに他ならなかった。


「あ、れ――?」


 しかし、今日に限って奇妙だった。ここに来た時はいつだって何故か警備員によって固められていた。入ることは許されない――どういう訳か、もう使われていない建造物が護られている筈だった。

 だが、今は誰もいない。入り口を立っている人間も、敷地内を歩き回る人間も。

 ……いや、と被りを振る。そもそも既に不要なものに警備がついていたことが不自然なんだ。だったらようやく自然な状態に戻った。ただそれだけのことじゃないか。

 痛む膝をさする手を止め、枢は立ち上がった。そして建物から視界を外し、踵を返そうとした直後――声が聞こえた。


「……え?」


 それはとても柔らかな音色だった。宝石の様に美しく感じるも、そよ風の様に優しい声だった。

 しかし、何を言われたのかは思いだせない。耳に奇妙な感覚だけが残る。言葉もなく囁かれた――そんな奇怪な表現が合いそうだった。

 思わず枢は建物を見返す。そこは相変わらずの静寂だった。ただ耳元に、言葉のない声を囁かれている感覚だけが枢を現実に繋ぎ止め、そして枢の意識を建物に引きつけていた。


「呼んで、いる……?」


 呟き、枢はおぼつかない足取りで建物へと近づいていく。枢の意識には、建物と声しか残っていなかった。

 そうして、枢は無人の廃墟へと入っていった。自動ドアを始めとする何故か生きている電気系統に疑問を抱かず、そして、建物の横で倒れる血の匂い塗れる警備員に気づかぬまま、朧いだ意識で迷い込んでいった。

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