ロスト・マインド
そうして、やがてユスティティアが日本へと到着する日となった。結局これといった出来事は起こらず、基本的に生活を与えられた自室で過ごしもんもんとしたまま終わった。
強いて言えば、早朝いきなりフィーナが「匿って!」とビートから追われるまま部屋に飛び込んで来たり、イリウムが突然押しかけてもの珍しそうに体(主に頭)を撫で回して来たり、カニスと名乗るフィーナの百倍は艦長に相応しそうな男が(枢の感覚では)物々しく今回の件について一言軽く挨拶に来たり……まあ、その程度であった。
基本的に部屋にはトイレやバスルームも備わっており、食事も運ばれてくるため不自由はなかった。少々暇だったが、誰が用意したのか、日本語の文学小説がある程度置かれていたのでそれで潰すことが出来た。教科書に載っているような古典文学に近いもので、やや苦痛ではあったが。
枢は今、アイリとビートの二人の護衛に連れられて甲板へと向かっていた。ビートは見せつけるように小銃を持っているため、枢は少し歩く体に力が入ってしまっていた。
甲板に出ると、そこには一機のヘリコプターが停泊していた。全てが黒色に塗られていて、見た目に装甲があらゆる箇所に付けられているのが分かるほど武骨なものだった。
そのヘリの近くで出迎えるように待っているフィーナとカニス。二人はまるで祖父と孫のような歳の差だが、そんな関係でないことなど枢は重々承知で、何より二人の身を包む軍服がそれを物語っていた。
「最後にもう一度、聞いて良いかな?」
二人に連れられヘリコプターへと歩くと、通り過ぎる間際、フィーナから呼び止められる。枢はゆっくりと振り返り、蒼白とした美麗な相貌を見据える。だがその瞳を真っ直ぐに見ることは叶わず、思わず逸らしてしまう。
なぜ目を逸らしてしまったのか……枢には分からなかった。既に答えは決めた筈。そしてそれも間違っておらず、自分の意思で決めたことだ。だから胸を張って、自信を持って告げればいい。その筈なのに枢は何故か、フィーナの目を見ることは出来なかった。
「……答えは、変わりませんよ。僕は貴方がたに協力する気はありません。このまま日本へ帰って、戦争とは関係のない場所で、妹が目を覚ますのを待ちます」
「本当に、それでいいんだね?」
「……はい」
目を逸らしたまま枢は答えた。返事は回り出したローターに掻き消されそうになったが、フィーナの耳には届いた。
その返答にフィーナは肩を竦め「分かった」と、一歩ヘリコプターから離れる。それに倣ってカニスも下がった。物言わず付き添うその姿は、フィーナ端正な姿と相まって、まるで執事のようであった。
促されるまま、枢は扉の開いたヘリコプターへと近づいた。これに乗り込めば日本へ帰れる。あとは今まで通りの日常だ。あの時のようにアウラへ乗り込んで、戦争をする必要などない。
今まで通り、由衣の傍にいて、彼女が帰る日常を待てばそれで――。そう自分に言い聞かせるが、先日の優紀が持ち掛けた報酬の話が脳裏に蘇る。
由衣が目を覚ませばと、枢は何度もそう思っていた。だが根本的な疑問があるのだ。そもそも由衣は目を覚ますのだろうか――? そう、考えてしまう。頭を、過ぎってしまう。
既に由衣は七年間昏睡状態だ。即ちもう医者側からは治療の余地がなく、意識を取り戻すのを待つという状況である。それは単に天に身を任すということに等しかった。
昏睡状態は非常に治療が難しい症状で、研究こそ進められているものの、現在の医学を用いても症状の改善は難しい。だから枢も主治医からそのことは知らされていた。目を覚ます可能性は低いが、それでも0ではない、と。そして枢も信じ続ければ由衣は目覚めると、半ば自分への慰めのように言い聞かせてきた。
だから優紀から告げられた報酬はそんな現実から目を瞑っていた枢を引き戻すと同時に、より強い希望を見出させていた。
申し出は『由衣の治療を最新医療設備のある軍事病院へ移す』というものだった。
現在行われている昏睡状態や脳死状態の治療研究として行われているのがナノマシンによるものだった。最もナノマシン技術が進んでいるのはフェイクスの術式を行っている軍事病院である為、由衣を治せる可能性が最も高いのはそこだという。
無論それの医療費等は無償であり、加えて由衣と枢の今後の生活の保障、強いては莫大な報奨金まで与えられるという始末だ。
金で心が揺れると言えば聞こえは悪いが、両親を失っている枢にとって生活費というのはとても現実的に厳しい問題だった。
両親が残してくれた貯金があるため高校の間は不自由なく暮らせるが、大学へと進学することを考えると能天気に浪費するわけには行かなかった。由衣の治療費も決して安いものではないが、かといって学校へと通わなくてはならない枢は入院させるしか手立てはない。
由衣の帰ってくる場所を守るというのは枢が生きているだけではなく、将来的に彼女を養えるだけの環境がなくてはならないのだ。
彼女は今、七歳のまま止まっている。もしあと数年後に目を覚ましたとしても、彼女を社会に出すわけにはいかない。
そんな葛藤が枢の脚を迷わせる。
ヘリコプターへと片足だけ踏み込んだまま、少しだけフィーナを一瞥したが、すぐに中へと潜り込んだ。
「これで良い……。これで良いんだ……」
その小さな呟きはローターに掻き消され、その場にいた誰の耳にも聞こえることはなかった。枢が乗り込んだことを確認すると、アイリとビートも挟み込むように座った。
やがて扉は閉まり、ユスティティアの甲板からヘリコプターは浮かび上がり、青空へと浮上していった。
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目立たぬよう早朝にユスティティアの甲板を飛び立ったヘリコプターは再び伊佐上駐在ラインズイール軍基地に着陸した。その後出迎えの兵士と適当に挨拶を交わすと、枢はジープにて自宅へと送られた。
ヘリでもジープでも枢は話し掛けられることはなく、自分から話しかけることもなく、終始無言だった。枢も話をする気などなかったであろうことが、常に伏せられていた顔から窺えた。
そうして到着したマンションで降ろされた枢は一言礼を言うと、すぐに背中を見せ中へと入っていった。
今日は平日であった為、枢は部屋に着くと学校へと向かう準備をしていた。既にコスモス側から学校への連絡は根回し済みだった。枢は伊佐上市で起きた戦闘に巻き込まれ、今まで入院していたことになっている筈である。
やがて学生服に着替えた枢は鞄に教科書や筆記用具を入れると、隣の部屋になど見向きもせず、そのまま通学路へと歩き始めた。
「……カナメ・クオン、登校を開始しました」
その一部始終を――アイリは監視していた。監視カメラ、盗聴器、高台からの直接的な監視は勿論のこと、軍事衛星一つを借り切ってまで、枢から目を離すことはなかった。
無論高台からと言えど一つの場所に留まっていては邪魔な建物に阻まれ、常に監視し続けることは不可能だ。そのため、アイリは枢の後を建物の屋根伝いに追いかけていた。飛び越えて屋根の上を移動し続けるアイリの姿は、まるで忍者の様だった。
アイリが監視役に当たっているのは、EE社での戦闘で自機を損失しており、コスモスの作戦に着任することは叶わなかったためだ。彼女のアウラ――プロセルピナはあの後回収こそされたが、損傷が激しく修理まで時間がかかっていた。何せ頭部と片腕を失い、加えて敵機が持つ正体不明の兵器にブースターをやられているのだ。ブースター機能停止の原因を調査する期間もあるため、暫く彼女の下へプロセルピナが戻ってくることはないだろう。
通学路を歩く枢は特に異状なく、やがて最寄駅が見えてきた。強いて問題を言えば、枢の表情が沈んでおり、歩く姿が心此処に非ずといった雰囲気になっているところだろうか。
しかしそんな微量な変化はアイリにとって些事であり、そもそも何故そんな表情をしているのか分からなかったので、報告するだけに留めて深く考えないことにした。
アイリからの報告を受けたビートは枢が改札口を通ったのを見計らって、背中を追うように改札を通っていく。ビートの服装はスーツであるが、今度はネクタイまでしっかりと締めていた。無精髭も綺麗に剃られており、一般的なサラリーマンに扮した格好となっていた。
文字通り人を詰め込んだ電車に数十分揺られると、枢の通う高校の最寄駅へと到着した。その間、人混みの中でもビートが枢から目を逸らすことはなかった。
「日本人は毎日こんなもので会社なり学校なりに通ってるのか……信じられん……」
げんなりした表情のまま崩れた服装を直しつつ、ビートは枢の後を追った。
こんな生活がしばらく続くのかと思うと気が滅入らざるを得ない。これじゃまだユスティティアで報告書を纏める日々の方がマシだったように思えるくらいだ。
学校へと無事に到着することが出来た枢を見届けると、近くのビルでアイリと合流した。とりあえず、ここからは二人で交互に枢を見張っていくことになるため、ビートは少し胸を撫で下ろした。既に校内にも盗聴器と監視カメラは仕掛けられているので、それと双眼鏡の二つを用いて監視を行う。
アイリは学校生活というものを満足に過ごしてはこなかった。十の時から五年、既にコスモスという軍事組織に所属して生きているのだから、当然といえば当然であった。
義務教育を受けていた期間はたったの三年。そしてその三年間も“諸事情”によりろくに登校していなかったのだから、学校で過ごした記憶が希薄なのは仕方のないことだった。
だからアイリは物珍しいものを観察するように――表情には出ていないが――じっと、枢を中心として学校全体を観察していた。時には枢と共に教鞭に耳を傾けたり、時にはグラウンドでボールを使って運動をしている生徒達を見てそのスポーツのルールを推測したり……。さながら自分をその場に紛れ込ませるように、アイリは監視していた。
休憩中のビートはそんなアイリの様子を横目で見ていた。いつもの無表情だが、明らかに食い入る様見ているのは任務だからというだけではないことは明白だ。微笑ましいと思うのと同時に、哀しいことだと目を伏せた。
だが学校生活と縁遠かったのはビートも同じで、少し、彼ら子供たちが羨ましくも感じた。しかしそこは大人として割り切り、余計な私情は入れぬよう監視任務に望んだ。
ビルの屋上で寝転がり硝煙も弾丸も漂っていない青空を見ながら、日本の電車というものを思い出し、ここの治安の良さを改めて実感した。
島国という地形から他国と隣接することもないここは、民族間の争いが起こる余地がない。加えて民間人の銃の保持すら禁止されている日本では武器の調達も難しい。アウラを保持するなど以ての外で、これではテロ行為もたかが知れている。
いや、恐らく起こっているのはテロ行為などではなく、いわゆる強盗程度だろう。ただだからこそ、七年前のヘルズタワー事件が国民の記憶に強く刻まれることとなった訳だが。
そうして結局何事もないまま、監視を始めてから三度目の昼休みが来た。授業中とは打って変わって校内は騒がしいものになり、盗聴器が拾う雑音も多くなり耳を傾けるのが辛くなる。
枢は友人二人と食事をしていた。購買から買ってきたパンを幾つか机の上に置いている。一緒に食事をしているのは調査報告書にあった柄崎冬夜と立川美沙都と外見が一致している。会話の内容からも間違いないと判断できた。
主な話題は枢がいなかった期間のことで、授業の内容をノートで見せたり口頭で伝えたり、友人がその間何かをやらかしたなんていう話もしていた。
この二人は敢えて二週間前のことは話題から逸らそうとしていたように思えた。他の生徒は枢が登校するなり捲し立てるように質問していたが、この二人は殆どその話題に触れることなく、日常的な会話をしていた。
だが、二人ともどこか疑問を感じているようだった。視線が覚束なく、時折不自然に広げられたパンへと注がれていた。
それはアイリとビートこそ知り得ぬことだったが、枢は普通ならば毎日の昼食は手作りの弁当だったのだ。その作った人物は無論、マンションの隣人である茜。
実は美沙都と冬夜はこの二週間の間二度ほど、枢の部屋を訪れていた。携帯にも繋がらず、何も連絡のないまま(少し経った後担任から事情説明があったが)欠席をした枢を心配し、いてもたってもいられなくなったのだ。
だが部屋のインターフォンを押しても返事はなく、ドアを激しくノックしても帰ってくるのは静寂だけだった。
そこで思い出す隣人の存在。枢から話は何度か聞いていたため、名前も、部屋の場所も知っていた。すぐさま移動し、今度はそちらをノックする。しかしこちらも返事が返ってくることはなかった。そして日を改めても、同じことだった。
伊佐上市で起こった戦闘と無人の部屋――。ただの偶然、時間が合わなかっただけ。そう自分達に言い聞かせるが、なぜか嫌な予感が拭えなかった。それもきっと、枢の表情がどこか沈んでいて覇気がなかったことも起因しているのだろう。
やがて冬夜は思い切ったように枢へ訊いた。「今日も弁当じゃないんだな。茜さんは忙しいのか?」――と。
その瞬間、枢は手からパンを取りこぼす。その表情は驚愕に満ちており、だがその一方で、焦燥に駆られているようにも見えた。噴き出す脂汗も、自分を止める友人の言葉も気にせず、枢は学校を飛び出した。
「ん……? お、おい! どうした!」
枢を追うようにアイリは駆けだし、寝転がっていたビートは慌てて上体を起こす。
人間離れした身体能力でアイリはビルを降りていくが、ビートはそうも行かず、二手に分かれた。アイリは駆け出した枢のすぐ後を追うように歩道を駆け、ビートは裏に停めていた乗用車へと身を滑らせた。
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どうして忘れていたんだろう――?
枢の思考を支配していたのはただその一言だけだった。ユスティティアにいた際に感じていた靄はこれだったのだ。そして自分で悪夢だと決めつけていたネフィルの暴走も、夢ではなかった。
到着した自室のあるマンション。電車以外既に走り通しだった枢は掠れるように息を荒げていた。膝にも相当な負担が掛かっており、痛みに表情が歪んでいた。
エレベーターを呼び出すが、7階にあったそれを待つ気にはなれず、舌打ちして枢は階段を駆け上っていく。既に足には限界が来ているが、枢の中から湧き上がる焦燥はその痛みを超えて突き動かしていた。
そうしてやがて辿り着いた茜の部屋を合鍵で開けると、そこは、既に空室となっていた。
「あぁ……」
殺風景な部屋には段ボールすら置いてはいなかった。落ち着いた雰囲気で飾られたカーペットやカーテンも全て取り払われており、ただそこには冷えた部屋が広がっているだけだった。
「僕は……また……」
脳裏には鮮明に蘇る茜の死に際。それを止める術はもうなく、すでに起こってしまった現実だった。もう戻ることは決してない、もう会うことは決して出来ない。
枢にはまだ伝えていない想いがあった。だけど臆病で、どうしようもなく怖くて、伝えられずにずるずると引き摺ってしまった。
だがもう、伝えることは叶わない。もう彼女はこの世のどこにはもいないのだ。声を聴くことも、笑顔を見ることすら叶わない。
「……カナメ」
呼ばれた声に振り返る。一瞬だけ、期待してしまった自分を呪う。呼び方も声も、何もかもが違うのに、この場所でまたあの人が呼んでくれたのかと、思ってしまった。ほんの少しでも、彼女が実は生きていたのか、なんていう幻想を抱いてしまった。
視界は歪み、酷い有様だった。まるで自分だけ、大雨に打たれているよう。
「ねぇ? ……僕がコスモスに入れば」
崩れる枢をアイリは何も言わず、ただ見ていた。拳はアスファルトを削るように握られていて、そこにははっきりとした力が籠められている。
そしてアイリを見上げる瞳は涙で溢れていて、なぜか、闇に落ちたかのように以前より遥かに暗く感じた。
「――仇は、取れるの?」
そう口にした途端、浮ついた心はすっと枢の中で収まりを得たような気がした。