Phase 01 お前にうってつけの案件
兵庫県神戸市東灘区。――私が住む芦屋から、バイクで10分もかからない。
特に、岡本という場所は、学生街と閑静な住宅街を兼ね備えている。故に、阪急岡本駅周辺は大学生と主婦で溢れかえっている。
そんな阪急岡本駅の駐輪場にバイクを停める。改札口の先に――明智善太郎が待っていた。
イコカをタッチして改札を抜けた善太郎は、頭を掻きながら私に言った。
「彩香、来たのか。お前にうってつけの案件だ」
案件? ――どういうことだ。私はツッコんだ。
「それを言うなら、明智くんの方だと思う。どうせ『これから事件を解決するから小説としてまとめておいてくれ』とかそういう話でしょ?」
私がそうやって言うと、彼は白い歯を見せながら言った。
「オウ、よく分かったな。まさに、その通りだぜ? 今回の依頼主は岡本に住む『柘瑠衣』という女性で、なんでも『旦那が密室状態で首を絞められて殺された』とのことらしい。瑠衣の旦那は『柘光雄』という名前で、職業は――医師だとか」
「家族構成は分かるの?」
「その点に関してだが、2人の間には『柘卓也』という息子がいるらしいが、彼はまだ10歳だ。殺人を犯すような年齢じゃねぇ」
「となると、部外犯か」
「そうだな。オレの考えだと、金目目当ての強盗殺人だと踏んでいるぜ?」
「まあ、そう考えるしかないよね。私だって、そうやって考えるぐらいだし」
こういう場合、普通に考えると――金目目当ての強盗殺人事件と考えるしかない。柘家の財政状況がどうなっているかはさておき、犯人は金目の物を盗んで家主を殺害した。そういうところだろう。
依頼主の家は、年季の入った建造物だった。
元々は病院として使われていたが、何らかの理由で閉院して、跡地だけが残った。――私の目にはそういう風に見えた。
看板の「柘医院」の「木」の部分は完全に文字が抜け落ちていて、「石医院」となっている。なんだか滑稽だ。
そんなことを思いながら、私と善太郎は依頼主の家の中へと入った。
和室には、柘瑠衣と思しき女性がいた。
彼女は話す。
「探偵さん、早速来てくれたんですね。私が柘瑠衣です」
彼女が言ったので、私たちは挨拶をした。
「オレは明智善太郎だ。見ての通り、探偵だぜ?」
「私の名前は――広瀬彩香です。一応、『卯月絢華』という名前で小説を書いていますが、全く売れていません」
私がそう言うと、柘瑠衣は――笑った。
「小説家ですか。面白い職業ですね。――ジャンルは何をお書きになっているんですか?」
「ミステリです」
「なるほど。――それで、探偵の付き人を務めているんですね」
「探偵の付き人ですか。――そういう見方は考えていませんでした」
確かに、探偵の付き人は――どういう訳か、小説家になることが多い。
有栖川有栖の小説にしろ、京極夏彦の小説にしろ、探偵には語り手となる小説家が付いている。そして、卯月絢華という小説家の「私」の場合、探偵役は明智善太郎だろうか。
令和の世の中で「職業探偵」を名乗る人間は珍しいが、明智善太郎という人物は紛れもなく「職業探偵」である。
明智善太郎という人物をここで説明しておくと、彼は京都で探偵業を営んでいる。
私と明智善太郎の付き合いは古く、立志舘大学のミステリ研究会で出会ってからかれこれ10年以上は経っているだろうか。私は32歳だが、明智善太郎は34歳。――2つ上になる。
互いに立志舘大学の理工学部を専攻していてなおかつミステリ研究会に在籍していたとなると、自然と波長は合っていく。
入学した当初は「とっつきにくい先輩」だと思っていたが、実際に話をしてみるとフランクな男性であり、ミステリ研究会でも行動を共にするようになった。
同学年の友人である菱田沙織曰く「明智先輩とイチャイチャできるなんて羨ましい」とのことであり、私は、要するに――明智善太郎という先輩から気に入られていたのだ。
しかし、不景気な世の中で就活が上手くいくとは限らない。30社以上入社試験を受けたが、いずれも不採用。お祈りメールを寄越してくれる企業はまだマシな方で、書類選考で落とされることもあった。あまりにも就活が上手く行かないので、私は――同人活動で小説を書くことにした。
当初は「小遣い程度になればいいだろう」なんて思っていたが、その反響はあまりにも大きかった。そして、気づけば――商業でデビューすることになった。それも、大手出版社の溝淡社である。
溝淡社ノベルスから発刊された商業デビュー作はまずまずの売れ行きだった。当然、印税で芦屋にアパートを買った。流石に一軒家は買えなかった。
しかし、小説家という職業は次第に読者から飽きられるものである。2作目はまだ売れ行きが良い方だったが、3作目以降からガクッと売れ行きが落ちてしまったのだ。
アマゾンでのレビュー曰く「ストーリーがワンパターン」とか「トリックがありきたり」とかひどい言われようであり、精神を病んでいた私の心は深く傷ついた。
そして、気付いたら――再び自傷行為や向精神薬の過剰摂取をするようになってしまった。
そんなどん底の私を救ってくれたのは――やはり、明智善太郎だった。阪急芦屋川駅のホームにわざと転落して命を絶とうと思った日に、即座にスマホ宛にメッセージを送ってきたのは彼だったのだ。
――彩香、まだ死ぬな。
――お前には、やり遺したことがあるはずだ。
――ここで死んだら、オレが悲しむぜ?
たったそれだけのメッセージを読んで、私は病室のベッドで一人泣いていた。
そして、全治半日の末に病院を退院した私は、すぐさま彼のメッセージに対して返信した。
――明智くん、ありがとう。
――私、もう少しだけ生きてみる。
私はコミュ障で口下手な方なので、どうやって返信すればいいかが分からなかった。でも、その日は指が自然とメッセージを入力していた。
それから、私は小説家として活動する傍ら、明智善太郎の助手として生きていくことになった。ちなみに、明智善太郎は京都でもかなり評判の良い探偵らしく、その仕事は迷い猫の捜索から浮気調査まで幅広く手掛けている。――もっとも、「殺人事件を解決してほしい」という依頼はめったにないのだけれど。というか、そういう依頼があったら困る。
探偵――明智善太郎は、淹れたてのコーヒーを飲みながら話す。
「それで、光雄さんの死因を詳しく説明してくれないか?」
瑠衣さんは、善太郎の質問に淡々と答えた。
「えーっと、朝起きたら書斎のドアが閉まっていたので、『光雄さんは調べ物をしている最中に寝てしまった』と思ったんです。でも、数時間経っても鍵が開く気配がない。強硬手段として、力尽くで無理やりドアを開けたら、光雄さんは首を括った状態で絶命していたんです。いくらなんでも自殺という線は考えられないので、恐らく密室殺人だと思います」
「なるほど。――よく分かった」
そう言いながら、善太郎は頷いていた。私も、その時の状況を――メモした。
状況を説明したところで、私と善太郎は事件現場に案内された。築60年は超えているのか、歩くだけで床の軋む音がする。
この家がかつて病院として使われていたのは事実であり、瑠衣さんの話によると、事件現場である書斎は、元々薬品庫として使用されていたとのことだった。その証拠に、書斎の中に入ると――学校の保健室のような、ツンとした臭いがした。
そして、書斎の中では刑事さんが現場検証をしていた。――兵庫県警捜査一課の刑事で間違いないだろう。
私たちの存在に気づいたのか、刑事さんが話しかけてきた。
「あっ、善太郎さんじゃないですか。久しぶりです」
刑事さんの言葉に対して、善太郎はフランクに話した。
「オウ、捜査に対して手こずっているようだから来てやったぜ。オレが来たからには、この事件は直に解決するさ」
私は、善太郎に対して刑事さんの名前を聞いた。
「――誰なの?」
当然だけど、善太郎は刑事の名前をスラスラと言っていく。
「ああ、コイツは兵庫県警捜査一課の浅井昭博という。何かといい奴だぜ?」
刑事さんの見た目は、なんというか――真面目だった。大阪を拠点とする高学歴バンドでギター弾いてそうとか、そういう身なりだったと思う。
そんなことを考えつつ、浅井刑事は私に話しかけてきた。
「そうか、君と会うのは初めてだったかな。明智善太郎のことはよく知っていて、我々兵庫県警においても重要な戦力として重宝しているんだ」
「そうなんですね」
私がそう言うと、浅井刑事は「善太郎のデメリット」を私に話した。
「まあ、時々色んな意味で暴走するのが玉に瑕だけどね。その点に関しては僕がフォローしている」
私は、呆れながら――浅井刑事に善太郎のことを話した。
「――確かに、私から見ても明智くんって『名探偵』というより『迷探偵』だと思う部分がありますからね。そこは御愛嬌だと思っていますが」
明智善太郎という人物が「迷探偵」たる所以、それは――己の正義を信じるが故に、暴走することがあるのだ。
具体的な暴走の例を挙げると、犯人の股間を蹴る、犯人の頬を平手打ちにする、器物損壊、無免許運転、――ああ、挙げるとキリがない。
特に、無免許運転に関して言えば、彼は自動車免許と普通二輪車免許しか所持していないのにこともあろうか重機を運転して爆走、建造物の一部を破損したことがある。一応、爆走した場所は私有地だったのでその件はお咎めなしになったのだが――後で警官にこっ酷く叱られたらしい。当然だけど、報告書も書かされている。
とはいえ、それだけ「悪」を許せないのだろう。名前に「善」と入っているが故に、余計と正義感を持ってしまう。――私は、明智善太郎の人物像をそうやって考えているのだ。
***
浅井刑事は話を続けた。
「ところで、君の名前はなんて言うんだ?」
「広瀬彩香と言います。職業は小説家で、『卯月絢華』というペンネームでいくつか発刊しています」
私が名前を名乗ったところで、浅井刑事は――突然テンションが上がった。
「卯月絢華ねぇ……。ああ! 新進気鋭の幻想ミステリ作家としてデビューした卯月先生ですか! 僕、卯月先生のファンなんですよ!」
浅井刑事が言う通り、私は幻想ミステリ作家としてデビューして、いくつか小説を書いているが――お察しの通り、小説が売れた試しがない。むしろ、私は三文以下の作家だと思っている。そんな私のファンが――実在した? 実在する訳がないと思っていたのに。
困惑しつつも、私は――浅井刑事と話を続けた。
「そうですか。私の駄作を読んでくれてありがとうございます。京極夏彦をリスペクトしながら作家活動を続けていたんですけど、やっぱり京極夏彦には敵わないというか、京極夏彦以上のモノは書けないと思っていて……最近、活動拠点を溝淡社ノベルスから溝淡社ライト文庫へと移したんです」
「そうだったんですね。まあ、ノベルス自体がオワコンと言われて久しいですし……。それはともかく、特に好きな作品は――」
話を聞く限り、どうやら――浅井刑事は私の強火担らしい。
特に商業デビュー作に関しては、初版である溝淡社ノベルス版、ハードカバーで発刊された愛蔵版、更には溝淡社文庫版やコミカライズ版まで所持しているというガチ中のガチ勢だった。そこまでして揃えるなんて、正直言ってどうかしている。
けれども、私の数少ないファンがいるということは――私の小説が少なからず評価されているということなのか。
そして、話の最後で「新作、お待ちしております」と結んだ。――筆を折りかけていた私にかける言葉じゃないと思うのに。
あまりにも話が脱線するので、私は浅井刑事に「事件の話」をすることにした。
「それで、光雄さんの死因は――本当に自殺?」
私がそう言うと、浅井刑事は――首を傾げた。
「うーん、今の段階では自殺としか言いようがないんだけど、どうも違和感があるんだ。なんというか、『首を括った』というよりも『首を絞められた』という感じがしてね」
確かに、柘光雄だったモノの首には――索条痕ができている。自分で首を括ったのならまだしも、この索条痕は明らかに首を絞められたことによってできたモノである。となると、やはり――死因は他殺だろうか。
「索条痕」という単語に飛びついたのか、善太郎も話に加わった。
「索条痕か。――確かに、ホトケの首にはロープの痕がクッキリと付いているな。でも、抵抗した跡も見受けられるぜ?」
抵抗した跡か。確かに、他殺なら――首を絞められた時に抵抗する。それは動物が持っている反射神経によるモノである。
しかし、事件発生時に光雄さん以外の人物がこの場所にいたのだろうか? いたとしたら――瑠衣さんか。卓也くんは子供だから、殺人を犯すとは思えない。――ああ、混乱してきたな。部屋全体の空気の重さが、私の頭を混乱させているのか。
――そういえば、部屋の様子はどうなんだ? 現場検証が行われている以上、事件発生時に荒らされていたかどうかは分からない。
私は、浅井刑事に事件発生時の部屋の様子を聞いた。
「浅井刑事、事件発生時の部屋の様子はどんな感じだったの?」
「ああ、書斎から書物が少し落ちていた以外は――荒らされた形跡がなかった」
「落ちていた書物について、何か分かることはないの?」
「そうだなぁ……。元々は病院として使われていたらしいんだけど、なんというか――奇妙な書物が置いてあったんです」
善太郎も、私と浅井刑事の話に食いつく。
「奇妙な書物? 具体的なタイトルさえ教えてくれたら、すぐに分かるぜ? 京極夏彦ほどじゃないけど、古書に関する知識は持っているからな」
こう見えて、善太郎は大学時代に平野上柳町の古書店でバイトをしていた。立志舘大学自体が金閣寺の近くにあるので当然だろうか。
曰く「中禅寺秋彦の気持ちがよく分かった」とのことであり、本人はこのバイトを乗り気でこなしていた。
浅井刑事が、事件現場に落ちていた書物について説明する。
「うーん、『和漢三才図会』に『ソロモンの大いなる鍵』? それと、『金枝篇』の3冊でしたね」
この3冊の本、なんだかバラツキがあるな。――いわゆるオカルト系の本だろうか。私はそう思った。『和漢三才図会』ならまだしも、『ソロモンの大いなる鍵』と『金枝篇』は――普通の病院にあってはならないモノである。柘光雄がそういうモノについて蒐集していたのならまだしも、柘家という存在がその手の家系なら、マズい。
そのことに気付いた私は、なんとなく――浅井刑事に忠告した。
「なるほど。――もしかしたら、この絞殺事件はただの絞殺事件じゃないかもしれない」
「絞殺事件の時点でただの殺人事件じゃないと思いますが……どういう意味でしょうか?」
「多分、この事件の犯人は――柘家という存在を恨む人間による犯行だと思う」
しかし、浅井刑事は私の考えを否定した。
「柘さんの家って、そんな――恨まれるような家系でしたっけ? 奥さん――瑠衣さんから聞いた話だと、『病院を営んでいた頃は街の開業医として評判が良かった』と聞いていました。他人から恨まれる要素はないと思います」
それはそうか。看板を見る限り、柘医院で取り扱っていた診療科目は内科と小児科だったので――主に、風邪をひいた時に利用することになるのか。カルテを見れば、一発で柘家という存在を恨む人間は見抜けそうだが……果たして。
そんなことを思っていると、善太郎がこちらを覗き込んできた。
「彩香、ちょっといいか?」
「明智くん、どうしたの?」
「そのカルテ、日付はいつで止まっている?」
私は、適当にカルテを捲った。――これだ。
「えーっと、最後の日付は『平成18年9月30日』みたい。――相当前に閉院しているのかな」
「平成18年――2006年か。オレたちが中学生だった頃だな。もっとも、オレはずっと京都に住んでいたから、その頃から彩香と面識があった訳じゃねぇな」
***
善太郎が指摘する通り、私は――生粋の兵庫県民である。
流石に大学時代は大学の関係で京都に住んでいたが、それ以外は基本的に兵庫県に住まいを置いている。そして、中学生の頃は――芦屋ではなく北部の豊岡という場所に住んでいた。
なんとなく、2006年の頃を思い出してみる。
サッカーのワールドカップで日本代表が屈辱的なグループリーグ敗退を喫したことや、トリノオリンピックで荒川静香が大会唯一となる金メダルを獲ったこと、野球の世界大会で日本代表が初代王者に輝いたこと、何かとCMで「予想外」というフレーズが耳に残ったこと、信頼を揺るがす食品偽装が相次いだこと、紅白歌合戦の全裸の衣装でクレームが殺到したこと――ザッと、こんなところか。
個人的には「イケてない」青春を送っていたので、この頃の思い出というのはほとんどが黒歴史といっても過言ではない。――京極夏彦の当時の最新刊だった『邪魅の雫』(ノベルス版822ページ)をわずか2日で読破して、数少ない友人の一人である菱田沙織にドン引きされたことはよく覚えているのだが。ちなみに、菱田沙織とは高校で一旦進路が別々になって立志舘大学に進学した時点で再会している。
それはともかく、「平成18年9月30日」でカルテが止まっているということは――この時点で柘医院に何かがあったのか。
私は、改めてその日のカルテを見ることにした。
どうやら、最後の患者は「来島花音」という子供らしい。平成18年の時点で9歳ということは、18年経った今は――27歳か。カルテを見る限り、風邪をひいてこの病院に来ていたようだ。
来島花音という名前にピンと来たのか、善太郎が私に話しかけてきた。
「来島か……。もしかして、あの来島家じゃねぇの?」
「そんな、急に言われても分からないよ。来島家って、何なの?」
「オウ、来島家というのは――神戸でも屈指の金持ちの家だ。『来島財閥』と聞けば、一発で分かるだろう?」
来島財閥か。――かつて、神戸でその栄華をほしいままにしたという財閥だな。海運業で財を成して、いわゆる「第二次世界大戦」の頃は軍需で潤ったと言われていた。しかし、戦後の財閥解体によって来島財閥も解体された。今では「来島海運」でその名前を目にすることがあるな。それはともかく、来島財閥の生き残りが――柘医院の患者? ということは、来島家はこの近くに住んでいるのか。
善太郎は、なんとなく浅井刑事に来島家の所在地を聞いていた。
「浅井刑事、来島家の所在地は分かるか?」
浅井刑事の答えは――まさしく、「予想外」のモノだった。
「それが……どうも、この近くだそうです」
「ということは、岡本か」
「岡本というよりも――ほとんど甲南山手、芦屋との境です」
「なるほど。――彩香、すぐに向かうぜ」
善太郎の言葉に対して、私は困惑した。
「そんな、アポなしで行っても追い返されるだけだと思うけど……」
「オレを何だと思っているんだ? 大探偵だぜ?」
名探偵という称号は聞いたことがあるが、大探偵という称号は聞いたことがない。
それはともかく、善太郎は浅井刑事から来島家の所在地についての詳細を聞き、そしてメモした。
「甲南山手の――ここか。ほとんど芦屋だな。何なら、神戸と芦屋の境界線だ。一応、住所は神戸市東灘区になっているが」
「――仕方ないなぁ。私は岡本駅の駐輪場に停めてあるバイクを回収してから行くから、少し時間がかかるかもしれない」
「ああ、構わないぜ。オレ、うっかり阪急で来ちゃったから――浅井刑事のパトカーを借りさせてもらう」
若干困惑しつつも、浅井刑事は善太郎の要求を承諾した。
「仕方ないですね。――一応、運転手は僕ですから」
私はバイクで、善太郎は浅井刑事が運転するパトカーでそれぞれ来島家へと向かうことにした。
***
バイクに跨りながら、色々と考え事をする。
確かに、私は明智善太郎のことを――飽くまでも仕事上の付き合いとしてしか見ていない。
しかし、彼は――私に対して好意を寄せているフシがある。別に好意を寄せるぐらいなら良いのだけれど、仮に結婚することになってしまったら――どうすべきか。私はそういうモノを望んでいないので、断るべきか。とはいえ、そろそろ結婚適齢期を過ぎてしまう年齢なので、結婚については真面目に考えないといけない。
そんなしょうもないことを考えながら、バイクは――甲南山手の方へと走っていく。来島家までは、すぐそこだ。
来島家に到着すると、兵庫県警のパトカーが停まっていた。――善太郎と浅井刑事の方が先に着いていたのか。
私は、パトカーの横にバイクを停めて、来島邸へと入っていった。
来島邸は柘医院に引けを取らないぐらいの古びた古風の屋敷であり、築50年はくだらないだろう。青い壁面が、目を引く。
玄関では、善太郎と浅井刑事が――来島家の関係者と話をしていた。
「――私が、柘さんの首を絞めて殺害した? そんな馬鹿な話、ある訳がない」
「――ですが、そこの探偵が『犯人は来島家の中にいる』と言って聞かないんですよ」
「――とにかく、私は無関係だ。帰ってくれ」
「――しつこいぞ!」
――あー、これは善太郎が相手に迷惑をかけるヤツだな。私は遠目でそう思っていた。
タイミングを見計らったところで、私は暴走する前に善太郎たちと合流した。
「――遅くなってゴメン。その様子だと、交渉は難航しているみたいだね」
「オウ、彩香か。――残念だが、その通りだぜ」
「そんなことだろうとは思っていたけどさ、どう考えても来島家の誰かが犯人とは考えにくいでしょ。私でさえ、唐突に『来島家』という存在をお出しされて困っていたのに」
「それはそうか。――浅井刑事、もう少し交渉してくれ。オレは彩香と話がしたい」
「わ、分かりました……」
善太郎は浅井刑事に交渉を丸投げした。――最初から、そのつもりだったのだろう。
そして、善太郎は私に対してある質問をした。
「彩香、質問がある」
「急に質問って言われても、答えられないよ」
「いや、簡単な質問だから、すぐに答えられるはずだぜ? ――あのカルテ、症例はなんて書いてあったんだ?」
確か、来島花音のカルテには――「喉風邪」と書いてあったか。私は善太郎に対してそうやって答えた。
「症例って言われても……ただの風邪としか言いようがないけど、それがどうしたの?」
「ああ、普通の喉風邪なら――ドラッグストアで買える子供用の風邪薬で間に合うだろう。しかし、来島花音はわざわざ柘医院まで来院していた。それはどういう理由があると思う?」
「そんなこと言われても、『病院で貰える抗生物質の方が早く効く』としか答えようがないけど……」
「ああ、そうだわな。――もしかしたら、来島花音は他の理由で柘医院に来院していた可能性も考えられる」
「他の理由?」
「――来島花音という患者が、何かしらの被検体だとしたら?」
ああ、その可能性は考えていなかった。来島花音はとある病気の被検体として柘光雄の研究対象となっていて、薬を処方していた。しかし、何らかの理由があって、2006年9月30日付で研究を打ち切られてしまった。――もしかして、善太郎は、そういうことを言いたいのか?
私は、善太郎に対して疑問をぶつけた。
「人体実験か。戦時中ならまだしも、今時そういうことが許されるのかな?」
善太郎の答えは、当然のモノだった。
「許される訳がねぇ。何としても、オレは来島家の陰謀を暴いてみせるぜ」
まだ何も決まったわけじゃないけど、確かに――これは陰謀めいた事件かもしれない。そこは、善太郎の言う通りである。
善太郎と話しているうちに、浅井刑事の交渉が終わったらしい。
「来島さん、折れました。僕たちの勝ちです」
「オレの勝ちだな。――じゃあ、中に入らせてもらうぜ。もちろん、彩香も付いてこい」
そういう訳で、私たちは来島家の中へと入ることになった。
それにしても、玄関に置いてある戦国武将の古びた赤い鎧が――不気味だ。今にも動き出しそうである。
客間へと通されたところで、来島花音がやって来た。仮にあのカルテが本当だとしたら、彼女は病弱気味なのだが、私が見る限りではそんな風には感じなかった。むしろ、私よりも健康体だった。
彼女は話す。
「えっと、確かに――私が来島花音です。先程は父の功さんが迷惑をかけました。父はとても厳格な人なので、私は自由にさせてもらえなかったんです」
どうやら、善太郎と揉めていた人物は花音の父親――来島功らしい。
彼女の話によると、来島功は来島海運の現社長であり、神戸の海運業界においてはかなりの大物であるとのことだった。――来島家自体が大きいのも、なんとなく納得できる。
善太郎が、花音に対して核心を突く。
「早速で申し訳ないんだが、花音ちゃんはどうして柘医院に通院していたんだ?」
「えっと……私、子供の頃は病弱で、学校も休みがちだったんです。だから、風邪をひく度に柘医院で薬を処方してもらっていたんです。普通の風邪薬よりも、柘さんが処方する薬の方が早く効くので……」
私も、花音に対して質問した。
「柘さんって、光雄さんのことなの?」
「そうですね。光雄さんって、すごく優しくて、風邪をひいた私にも優しく接してくれていたんです。ただ、少し気になることがありまして……」
そこに引っかかったのか、善太郎は首を傾げた。
「気になることか。――もしかして、自分が何らかの人体実験の被検体になっていたとかそういう話じゃ……」
「ちょっと、明智くん! 花音さんになんてことを聞くの?」
「オレは探偵だぜ? 聞きにくいことを相手に聞くのが仕事だ」
私と善太郎の喧嘩(未遂)を――花音が制止した。
「あの、揉めているところ申し訳ありませんが……そういう事実はありません。私はただ、病弱だから柘医院への通院を繰り返していただけです」
「そ、そうなのか……」
「普通に考えればそうでしょ。明智くん、いくらなんでも考えすぎ」
「――反省するぜ」
その後も、善太郎による花音への聞き込み調査は続いたが、大した手がかりは得られなかった。呆れた顔で、浅井刑事は話す。
「やっぱり、無駄足だったんですよ。――さっさと柘さんの家へと帰りますよ」
そこで、漸く善太郎は――心が折れた。
しかし、完全に折れた訳ではないらしい。
「わ、分かった……。でも、来島花音はこの事件における重要人物だ。それだけは忘れないでくれ」
「カノンだかオカンだか知らないですけど、期待するだけ無駄だと思いますよ」
「…………」
浅井刑事の説得で、善太郎は――そのまま黙り込んでしまった。
なんだか気まずいムードになりつつ、私もバイクで柘さんの家へと戻ることにした。
柘さんの家へと戻ると、浅井刑事の部下の刑事が何かを見つけたらしい。
「浅井刑事、書斎からこんなモノが……」
「一体なんだ?」
「テーブルに置いてあった鍵で書斎の箱を解錠したんですけど、中から赤い宝石のようなモノが出てきたんです」
「赤い宝石? 見させてくれ」
そう言って、部下の刑事は私たちに赤い宝石を見せてきた。
浅井刑事は、赤い宝石を見ながら話を続けた。
「うーん、宝石が盗まれていないとなると、犯人は金目目当てで殺人を犯した訳ではなさそうですね」
「ですよね。――この事件、謎が多すぎます」
浅井刑事と部下の刑事の話を聞いていたのか、善太郎は――あることに気付いた。
「この宝石、もしかしてガーネットじゃねぇの?」
私は、善太郎の疑問に――答えた。
「ガーネット? ああ、赤い色をした宝石で、和名が『柘榴石』というアレ? 確か、日本では1月の誕生石になっていたような……」
「その通りだ。その辺は、やっぱり女子の方が詳しいんだな」
「いや、私の母親が1月生まれで、ガーネットのピアスを好んで着用していただけなの……。ちなみに、宝石言葉は『真実』とか『情熱』、『実り』という意味を持っているって母親から聞いたことがある」
後で知った話だが、ガーネットは赤色をしているとは限らず、原石によって緑色やオレンジ色、黄色などのカラーバリエーションがあるらしい。――そういえば、ピンク色のガーネットのピアスも持っていたな。
そんなことはともかく、どうして犯人はこんな貴重なモノを盗まなかったのだろうか? 私は疑問に思った。
その疑問は、どうやら――善太郎も思っていたらしい。
「しかし、金目のモノを盗むなら――真っ先にこのクソデカいガーネットを盗むはずだよな。どうして、犯人は宝石を盗まずに光雄さんだけ殺害して逃げたんだ?」
私は、善太郎の疑問に対して色々な答えを考えたが――やはり、これといった答えは出なかった。
「明智くん、ごめん。私には分からない」
それでも、善太郎は――私をフォローする。
「まあ、彩香が分からないなら――仕方ないな。その点はオレも追々考えていくつもりさ」
「――意外と、優しいのね」
「こう見えて、オレは紳士だぜ?」
「明智くんって、本当に紳士なの?」
「――オレは、嘘を吐かないぜ?」
明智善太郎という人物が本当に紳士かどうかはさておき、私は――なんとなくスマホでガーネットの写真を撮影した。これが何かの手がかりになるかもしれないと思ったからだ。
それから、現場検証が終わったのは午後5時前だっただろうか。――疲れたな。大した手がかりも得られなかったし、この事件は迷宮入りしてしまうのだろうか。そんなことを思いながら、私は和室で飲みかけのコーヒーを飲みきった。ついでにテーブルに置いてあったクッキーも齧った。ちなみに、西宮の有名店のクッキーだったので――得した気分だ。
そして、捜査を諦めて芦屋へと戻ろうとした時だった。――スマホが鳴った。
スマホの着信元は、来島花音だった。帰る前に電話番号を交換しておいたのだ。
通話ボタンをタップして、私は彼女の電話に出た。
「もしもし? あっ、このスマホ――善太郎さんの助手ですか?」
「一応、私は善太郎さんの助手ということになっているらしいです。――名前は広瀬彩香と言います。それはそうと、私に何の用ですか?」
「じ、実は――先程、お父さんが殺されました」
――え? 私は動揺のあまり、思考回路が一瞬フリーズした。
「ちょっと待って、善太郎さんに代わります。少し待っていてください」
そう言って、私はスマホを善太郎に託した。
「彩香、急にどうしたんだ?」
私は、善太郎を――急かす。
「明智くん、とにかく――今すぐ出て」
善太郎は、スマホを耳に当てて花音と話す。
「――花音ちゃん、どうしたんだ? ――ああ、そうか。今すぐ向かうから、そのまま待っていてくれ」
そして、終話ボタンをタップしたところで――スマホを私に返した。
憔悴した顔を見せつつ、善太郎は話す。
「彩香、今すぐ来島家へと戻るぜ。かなりマズいことになった」
「――分かっている。明智くんの言葉を借りれば、とんでもなくマズいことよね」
心の中に動揺が残ったまま、私と善太郎は――再び来島家へと向かった。
そこで何が待ち受けていても、私はもう――驚かない。そういう覚悟は出来ていた。